第3話 脳の神話

 神様や仏様というのは、死んでから、この世に生まれ変わってくるというものではなく、あの世と呼ばれるところで神になったという発想でいいのだろうか。

 これだけたくさんの宗教が乱立しているのだから、元々は一つだったものが枝分かれする形で生まれてきた宗教も多いだろう。

「ひょっとすると、仏教もキリスト教も、元々は同じ発想だったのかも知れない」

 などというのは、罰当たりな発想なのだろうか?

 それを思うと、あまり宗教を深堀りするのは、怖い気もする。

 さて、科学における矛盾も、タイムマシンであったり、ロボット開発のようなものが一番言われているものであろう。

 それを、

「科学における限界だ」

 と考えるのであれば、逆に、人間の発想の限界ではないかともいえるのではないだろうか。

 途中までの発想ができていて、それ以上を覗こうとすると、もう一度同じところに戻ってくる。

 その発想自体が、

「まるで、異次元への発想」

 に思え、その発想は無限というものと切り離せないはずなのだ。

 それなのに、限界を感じること自体が、矛盾なのであり、ということになると、無限というそのものが、パラドックスだと考えられないだろうか。

 そう考えると、

「パラドックスの中にパラドックスを作ってしまっている」

 という発想ができあがり、そこには、

「左右に置いた鏡」

 という考えが浮かんでくる。

 そして、そこに移っているのは、無数の自分であり、どんどん小さくなっていくのだが、決してゼロにはならないということである。

 そう考えると、

「無限というものは、決してゼロにならないもの」

 という発想に繋がっているのではないだろうか。

 その発想から生まれた玩具が、ロシア民芸などで有名な、

「マトリョーシカ人間」

 なのではないかと思うのだが、どうであろうか?

 つまり、

「科学の限界」

 という発想は、

「矛盾と無限の関係」

 という言葉で言い表せるのではないかと思うのだ。

 無限というものが、繰り返しによっておこる現象が、どこまで行っても、ゼロにならないということを示しているのであれば、そこに限界を感じたとすれば、それは、矛盾でしかないからである。

 そう考えると、科学の限界など、ありえないのではないかという発想も立派に存在するものであろうし、無限が異次元を証明してくれるのに、限界を感じてしまうところに、矛盾がある。それをパラドックスという形で証明しているのだとすれば、パラドックスこそが、タイムトラベルの証明なのではないだろうか。

 パラドックスや矛盾をなくすことが、無限を有限にする。しかし、有限、つまり限界を感じてしまうということは、タイムマシンの開発はできないということの証明になってしまう。

 タイムマシンはありえないが、タイムトラベルは不可能ではないということになるのではないかと思えてくるのだった。

 ロボット開発はどうであろうか?

 ロボット開発には大きな問題が二つある。

 一つは、

「ロボットがどこまで人間と同じような判断ができるか?」

 といういわゆる、

「フレーム問題」

 に絡む問題と、もう一つは、

「フランケンシュタイン症候群」

 と呼ばれるもので、いわゆる、

「ロボット工学三原則」

 の問題である。

 これは、この三原則がキチっとできていないと、

「人間が、自分たちの開発したロボットに支配されてしまう」

 という本末転倒な話になりかねないということである。

 これも、大いなる矛盾と、無限という問題が大きく立ちはだかる。特に、最初の

「フレーム問題」

 はまさにそれである。

 例えば、

「ロボットに、穴の中にある燃料を持ってこい」

 という命令を出したとする。

 するとロボットは言われたとおりに、箱を持ち運ぼうとして、箱を持ち上げると、爆発してしまった。

 燃料の箱の上には、動かすと爆発してしまうという爆弾がセットされていた。ロボットはその爆弾のことも知っていたが、爆弾を動かすと、爆発するということは知らなかった。燃料の箱を動かすと爆発するというところまで発想ができなかったのだ。

 そこでロボットに、今度は、箱を動かすと爆発するということを頭にインプットさせたのだ。

 また、同じことをさせようとすると、今度は目的地があるその前で、動けなくなってしまった。

 その理由は、ロボットが、次に起こる無限の可能性をすべて考えようとしてしまうからであった。

 当然、無限にある可能性を考えるのだから、結論が出るはずもない。そこで、開発者はロボットに、

「その場合には、どのようなことを考えればいいのか?」

 という、まるで絵をフレームに当て嵌めるように、考えさせようとしたのだが、考えてみれば、

「可能性が無限なのだから、フレームだって無限にあることになる」

 ということになり、土台、フレームに当て嵌めることも無理であった。

 つまりは、無限のものをいくらパターン化しても無理なのであって、

「無限をいくら何で割っても、無限にしかならない」

 ということであり。

「数字はいくら何で割っても、絶対にゼロになるということはない。それが無限の可能性である」

 という、異次元の考え方と同じだといえるのではないだろうか。

 ただ、フレーム問題というのは、人間には、難なく解けている。次にいくら、どんな可能性が無限に広がっていても、その出来事から、関連したことであれば、予測することは、安易なことである。

 それを思えば、人間というのは、どれほど素晴らしい脳を持っているかということである。

 神様が作ったのだとすれば、人間が神様のマネをしようとしても、土台無理な話である。まるで、聖書の、

「バベルの塔」

 の話のようではないか。

「人間が神に近づこうなどというのは、これほどおこがましいことはない」

 ということであろう。

 そんな超科学な中で、

「タイムマシンの開発や、ロボット開発というものが、永遠にできるわけはないということを、宇宙人から聞かされた」

 とずっと言っていた少年がいた。

 今では大学生になっているが、袴田ひまりだが、小学生の頃には、そのような不思議な体験をしたというのだ、

「たぶん、夢を見たんだろうな」

 と思って、友達の東条六花は、その話を聞いて、いつもそう感じながら、話を合わせていた。

 そのうちに、ひまりも気づくだろうと思ったが、一向におかしいとは思わないようだ。

 確かに、夢だという感覚はあるようなのだが、それを自分で認めようとはしない。

「夢だといってしまうのは簡単なんだけど、夢じゃない可能性を探ってみるのも、ありなんじゃないかって思うのよ」

 というではないか。

「怖くないの?」

 と聞くと、

「うん、少しは怖い気もするけど、可能性を全部否定してしまう方が怖い気がするんだ。可能性は無限にあるから可能性なのであって、理屈で考える場合と、理屈では理解できない場合とをしっかりと見分けが付けられるようにしておかないと、最終的な判断を誤ってしまうのではないかと思うのよ」

 と、ひまりはいうのだった。

 六花は、それを聞きながら、

「そんなものかな?」

 と曖昧に答えてはいたが、曖昧にしか答えられない自分から見れば、いかに理解しようと努力をしているひまりの気持ちは、よく分かる気がした。

「ところでね。その宇宙人がいうのには、人間の脳というのは、十パーセントしか使っていないというのよ。よく皆が超能力だといっているのは、その残りの九十パーセント部分に秘められたもので、超能力というものは、別に超能力ではないというのよ。それを敢えて超能力だと言いたいのであれば、無限にある可能性を迷うことなく選択できる能力こそ、人間にとっての一番の超能力だっていうのよね」

 と、ひまりは言った。

 この話には、六花も賛成だった。

 この話は、小学生の頃に話をしたものであり、この、

「能の十パーセントしか使っていない」

 という話は真実で、それを学校の先生にすると、

「その通りよ。よく知っていたわね」

 と言われたので、さすがにそこで、宇宙人から聞いたという話を出すわけにはいかなかった。

 もし、宇宙人から聞いたなどというと、知っていたことに対して信憑性がなくなり、せっかく、

「よく知っていた」

 ということを褒めてくれたのに、

「まるで夢物語のようだ」

 と思われるのが嫌だったからだ。

 しかし、夢物語であっても、この事柄を知っていたという事実には変わりはないので信憑性がなくなるということはないはずなのに、それを信憑性の問題だと考えるということは、

「宇宙人の存在を自分が信じているほどに、まわりの人は信じていないだろう」

 と思うことだった。

 だから、他の人が、

「宇宙人などという言葉を口にすると、自分がバカバカしくて信じていないと思っていることを他の人が信じている」

 と思うと、どう感じるだろう?

 自分が宇宙人の存在をバカバカしいと思っているということを、その人が知られたくないと思っているとすれば、宇宙人の存在云々ではなく、

「自分が宇宙人をバカバカしいと思っているくせに、意識しているのではないか?」

 と思われることが嫌だったのだ。

 相手によっては、見透かされてしまい、

「信じていないくせに、過剰な意識をするのは、その存在を恐ろしいと感じているからだ」

 と思われてしまう。

 それが嫌だったのだ。

 宇宙人というものの存在は、SFの世界にしかないものだ。

 ということは、ひまりにも、六花にも、先生にも分かっていることだった。

 そもそも、

「宇宙人の存在というよりも、宇宙生物が存在するかどうか?」

 ということの方が、考えなければいけないことだ。

 NASAなどの宇宙研究所では、宇宙人の存在を信じている人がどれだけいるだろうか?

 まずは、宇宙生物の存在を証明しようと躍起になっている。

 この間などは、どこかの惑星に、水が存在したかどうかということだけで話題になっていたくらいである。

 六花はそこまで詳しくは知らなかったが、ひまりは、そのことは知っていた。そして、先生も、もちろんニュースなどで見て知っていたのである。

 さすがに小学生は、ニュースを見るという習慣はないだろうから、よほど興味がないと、宇宙のことなどのニュースを気にはしないだろう。

 しかし、ひまりの家では、父親がSF小説のマニアで、よく家のリビングの本棚に、ところせましと、SF小説の本が置かれていた。

 本棚は別に自分の部屋に置けばいいものを、父親は時々、会社の同僚や後輩を連れてくることがあり、どうやら、SFマニアであるということを自慢したいのかも知れない。

 父親には、そんな大人げないところがある。父親がそんな性格であるということは、小学生の頃から意識していた。

 だから、ひまりは、そんな父親の、まわりに対して自慢したいと思う気持ちを、

「恥ずかしい」

 と感じるところがあり、自分は決してそんなことはしたくないと思っていた。

 だが、やはり自分も父親の血を引いているのか、変に目立ちたいと思うところがあった。

 そんな自分が嫌いなので、なるべく、父親と同じでは嫌だと思っている。嫌いなくせに、性格だけはどうすることもできない。だから、宇宙人のことは口にするのだが、自分が父親に感じたような思いをまわりにさせたくないという難しい思いを抱いていたのだ。

 ひまりは。自分が、

「まわりに自慢したい」

 あるいは、

「目立ちたい」

 という気持ちがあることを隠すことはできない。だが、

「何をバカバカしいことを」

 を感じられるのは嫌だった。

 子供の頃に、宇宙人から話を聞いたということを話したのは、六花だけだった。

 他の人にもし言ってしまうと、

「穴があったら。入りたい」

 というほど、恥ずかしいに違いない。

 六花は口では、

「夢でも見たんじゃない?」

 と言っていたが、最初に難しい話をしておいてからの、宇宙人の話であり、しかも、小学生がなかなか知らないようなことを知っていたということで、バカバカしいとは思いながらも、一定の評価をひまりに持っていたのではないだろうか。

「六花は、私が宇宙人に会ったということは、当然信じていないわよね?」

 と大学生になってから聞くと、

「うん、正直信じられない。でも、それが宇宙人ではなく、同じ地球人だったら? という思いはあるのよ。例えば未来人だったりね。だけど、そう考えると、不思議な気もするのよ」

 というではないか

「どういうこと?」

 と聞くと、

「もし、タイムマシンのようなものが開発されて、それを使って過去に行ったとしようか?」

 と切り出した。

 さらに六花は、

「タイムパラドックスの理屈から言えば、過去に行って、過去の人間に影響を与えるということがどれほど危険なことであるかって思うのよね。だって、過去が変わってしまえば、未来はまったく違うものになってしまうわけでしょう? 自分だって、目の前にいる人だって、消えてなくなってしまわないとも限らない。それだけ、次の瞬間には、無限に広がる可能性があるわけなので、一つそれが狂うと、未来のさらに未来は、どんどん変わっていく。というか、決まったルートに進んでいくような気がするのよね」

 というのだ。

「どういうこと?」

「未来の可能性は無限にあるはずだけど、一つが狂ってしまうと、本来の可能性は打ち消されるわけでしょう? だったら、少しずつ変わっていく流れに傾いてくるわけで、逆にいえば、一歩狂えば、二度と元には戻らないということよね?」

 と六花はいう。

 その時、ひまりは、ロボット開発についての本もいくらか読んでいたので、

「それって、フレーム問題の解決にならないかしら?」

 と言った。

 六花も、同じようにロボット開発について興味があるようで、同じように本を読んだりしていたので、ひまりがこのことに気づいてくれるのを待っていたのだろう。ニッコリと笑って、

「うんうん、その通りなのよ。無限というものを狭めて、少しでも、可能性をフレームに当て嵌めるためには、これくらいの思い切った発想が必要なのかも知れないとも思うのよね」

 と六花はいうのだった。

「それは、私も思っているわ」

 というと、

「ひまりは、小学生の頃に、宇宙人から教えてもらったっていうようなことを言っていたけど、本当にそう思っているの?」

 と言われて、

「子供の頃は、真剣にそう思っていたのよ。でも最近になってから、あれは、自分が頭の中で解釈したことだったんだけど、その根拠になりそうなことが頭の中で思い浮かばなかったので、とっさに宇宙人を出したような気がするの。ひょっとすると、六花なら、私が夢で見たことだということを感じてくれると思ったおかも知れないわ。だって、自分でも、あの話は、夢の中で聞いたことのように思ったのよね。でも、それが夢の中に誰が出てきたのかということが分からなかったの」

 とひまりがいうので、

「今では分かるの?」

 というと、

「ええ、だから夢だったんだって思う理由にもなるんだけどね。その時、私に話してくれたのは、もう一人の私だったのよ。その顔は逆光になっていて。顔が見えなかったんだけどね。そんな気持ち悪い感覚を、宇宙人のようだって思ったのかも知れないわ」

 というのだった。

 すると、一瞬間があって、六花が口を開いた。

「私も時々、自分が出てくる夢を見ることがあるんだけど、その時って、結構見た夢を覚えていたりするの。でも、曖昧なんだけどね。でも、一つ言えることは、自分が夢に出てくる時が、一番怖い夢を見ているんだって思う時なのよ」

 というのを聞いて、ひまりも、目をカッと見開いた。

「うん、それは私も思っているのよ」

 と、なるべく平静を装いながらであったが、興奮している様子を隠すことはできなかった。

「ひまりは、ドッペルゲンガーという言葉を聞いたことがある?」

 と聞かれて、さらにビックリさせられた。

 なぜなら、ドッペルゲンガーという言葉を初めて聞いたのは、つい最近で、興味を持って、この間調べてみたところだったからだ。

 まるで以心伝心しているような気がしたくらいだが、そのことを感じると、今度は、最近の話のはずのことが、実はもっと昔から考えていたことのような気がしてきたことに対しても、ひまりはビックリさせられたのだった。

「六花って、私が言おうとしていることや、感じていることが分かるのかしら?」

 と訊ねてみると、、

「そうかも知れないわね。でも、それだけ、発想が近いところにあるということなのかも知れないわね。ただ、それが実は交わることのない平行線なのかも知れないけどね」

 と、六花はいうのだった。

 確かにその通りだと思った。しかも、話題に上っているのが、

「ドッペルゲンガー」

 なまじ、偶然だとは言えないのではないだろうか。

 ドッペルゲンガーというのは、

「自分自身の姿を自分で見るという幻覚に一種」

 だと言われている。

 しかも、このドッペルゲンガーは第三者が自分の姿を見た場合も同じことであり、

「世の中には似た人が三人はいる」

 と言われているものとは違っているのである。

 そして、ドッペルゲンガーの伝説としては、

「ドッペルゲンガーを見ると、見られた本人は、近いうちに死ぬ」

 と言われているから、恐ろしいのだ。

 これは、本来なら都市伝説に近いものなのかも知れないが、これが言われるようになったのは、近代からのことであり、現代に限定する厳密な都市伝説ではないだろう。

 ドッペルゲンガーには特徴がある。

「決して会話はしあい」

「本人の関係のない場所には決して出現しない」

「扉の開け閉めができる」

「忽然と消える」

 などというものである。

 扉の開け閉めができるということ以外であれば、幽霊の類とも思えるが、扉の開け閉めができる時点で、幽霊ということではないのだろう。

 実際に存在する、実態を持つものだといってもいいだろう。

 そして、そのドッペルゲンガーを自分で見た場合は一度で死ぬということなのだが、二回見ると、見た人も死ぬということであった。

 このようなドッペルゲンガーのような話は、普通であれば、

「都市伝説の類だ」

 ということで、七不思議の話のように思われるが、信憑性はかなり高いと言われている。

 なぜなら、

「ドッペルゲンガーを見たということで、実際に死んだと言われる人が、今までの歴史上の人物として、かなりいる」

 ということなのだ。

 有名なところでは、

「リンカーン」

「芥川龍之介」

 などの著名人が、

「ドッペルゲンガーを目撃したことで死んでしまった」

 とされているのだった。

 ひまりは、小学生の頃にドッペルゲンガーなどという話を知っていたわけではない。その証拠に、ついこの間、ドッペルゲンガーの話を聞いて衝撃を受けたばかりではないか、それなのに、自分の出てくる夢というのが一番怖くて、いつもは忘れている夢を、おぼろげながらに、自分が出てくるところだけは、最低でも覚えているというものだった。

 しかも、六花も自分が出てくる夢を見たというではないか。そして、今見ている感じでは、その興奮は自分の夢を見たという恐怖からきているように思えてならなかった。

「六花は、ドッペルゲンガーというのを前から知っていたの?」

 と聞くと、

「いいえ、知らなかったわ。でも、自分が出てくる夢を時々見て、それを怖い夢だって自分で自覚するようになってから、ドッペルゲンガーという話を聞いたのよ。だから、余計に、自分がまるでその話を聞くことを予知していたかのようで、余計に怖いの。しかも、ドッペルゲンガーって、本当に恐ろしい言い伝えなんでしょう?」

 というではないか。

「私も最初から知っていたわけではないの。特に最近聞いたばかりだっただけに、ここでドッペルゲンガーの話が出てきたことが、ただの偶然とは思えないところがあるのよね」

 というのを聞いて、六花は、

「そうなのよ。どこまでが偶然なんだろうかって思う。次の瞬間には、無限の可能性が広がっているわけでしょう。その中から、一つだけのことが現実になって、さらにそこからまた無限に可能性は広がる。だとすれば、可能性の中には、後戻りする可能性だってあると思うんだけど、前に進んだ時点で、今度は、どこが未来なのか。どこからあ過去なのかということを、今からは想像できないということになるのかしらね?」

 と言った。

「その発想は難しいわね。可能性の中に時系列が存在するのか。時系列が最初にあって、そこから可能性は広がっていくのか。どちらなのかを考えていけば、何か、無限の可能性を考える糸口が見えてくるのかも知れないわね」

 とひまりは言った。

 ひまりも六花も、相手がまったく別のことを考えているかも知れないと思うと、そこには、決してお互いに見ることのできない、

「結界」

 のようなものがあるのだと考えるのだった。

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