悲しみの爪痕
――あれから何年も経った。
エリックはエリスとともに、ドラゴンに乗って大空を飛んでいた。
目的地はオディウムを倒した地だ。
――魔王を討伐した後、世界はどこもお祭り騒ぎになった。
あちこちで人々が鬱屈から解放されて、街が歓喜と生命力で溢れていた。
魔王を討伐した勇者たちであるエリック、そしてエリスは文字通りの英雄となり、神に等しいほどの敬意と感謝を毎日浴びせられた。
英雄となった二人は魔王討伐後間もなく結婚した。双方ともにそれ以上に釣り合う異性がいなかったこともあったし、国民の期待もあった。民たちは厳しい闘いをくぐり抜けた男女がロマンスの果てに結ばれることを当然のように思っていた。
いつまでもティムを失った悲しみに浸っているわけにもいかない。エリスも素早く立ち直り、皇帝たるエリックの伴侶となることを決めた。
民たちは英雄たちの婚姻に沸き立った。
誰もがそれを我がことのように喜び、二人を心から祝福した。
エリックたちはそれをありがたく思ったが、一つ心残りがあった。
――この闘いにおいて、最も称賛を受けるべき男がそこにいない。
ティム・モルフェウス――彼を敵に回した者が自身の不運を嘆くしかないという意味から、「アンラッキー・モルフェウス」の異名で呼ばれた伝説の男。
その出自がスラム街であったこともあり、国民は亡き英雄に親近感と幻想を抱いた。努力すれば自分もそうなれるかもしれない――ほとんどの者が、のちに途轍もない妄想に浸っていたと知る幻想。そんな幻想に、何人もの若者たちが酔いしれた。
幻想はいつの時代にも必要だ。そうでなければ生きる希望が無くなってしまう。
道半ばで亡くなったティムの存在は、まるで急逝したロックスターのように知られることとなった。
商売人たちはここぞとばかりに出どころの怪しい伝記本やインタビュー集を発表して、それもが飛ぶように売れた。死んで有名になった英雄の価値は高かった。
ティム・モルフェウスはサクリファイス・プロージョンという秘術でオディウムを倒した。
自らの命と引き換えに相手を倒す究極の自己犠牲。あまりにも強力過ぎるために、古代以来、時のはざまで葬り去られていた。
ティムが秘術でオディウムを倒した場所は聖地と呼ばれており、巨大なクレーター状に地面がえぐれている。そこには草木も生えず、無機質な砂が固まったようにボウル型のくぼみをこさえている。
エリックたちはクレータの上空を旋回するように、しばらく飛び回っていた。
ドラゴンに乗ったエリックは呟く。
「あの時のままだな」
「そうね」
この場所はあの時から時間が止まっているかのようだ。
クレーターは、二人の心にぽっかりと空いた穴を象徴しているかのようだった。
何年も経ったのに、いまだにティムが亡くなったと信じられない。心が現実を拒否しているのか、涙も出なければ悲しみに浸ることもできなかった。愛する人を失うというのはそういうことだ。
今でも呼べばティムがどこかから出て来るのではないかとすら思う。
だが、それは叶わない。
一度死んだ人間は帰っては来ない。
たとえどれだけ生き残った者がそれを祈ったところで、その人に再び出会うためにはこちら側から向こうへと行くしかない。
クレーターは静謐な墓地のようだった。
王都ミラグロの
皇帝だからといって好き勝手に振舞えるわけではなく、むしろゲオルクなどの
その意思決定一つ一つで、国家全体の命運が決まる。
お飾りに徹して、国政は完全なる丸投げができれば良かったが、最近はゲオルクの暴走具合がひどい。
エリスにゲオルクを警戒するよう指摘されているのもあり、不穏な動きをする者には常に目を光らせていなければならない。でくの坊じみた王でも、それなりに果たすべき責任はあるのだ。
避けることのできない重責や野心家たちのひりついた空気に疲れた時は、ここを訪れることにしていた。
ここでティムは亡くなった。
彼にも生きてしたかったことがたくさんあっただろう。
それを捨ててでも、彼は自分たちの未来を守ってくれた。
政治屋たちの軋轢に疲れたなどと言っていては、「あちら側」へ行ったティムに顔向けができない。
それを思い出させてくれるのが、魔王オディウムが焼かれた跡地であるクレーターであった。
「なあ、変なことを言ってもいいか」
長い沈黙の後、エリックがだしぬけに口を開く。エリスは答えずにその背中へと目を遣った。
「妙な感覚なんだが、ティムの奴とはまた会える気がするんだ」
「……」
「感傷に浸っているわけじゃない。ティムがあの爆発で無事にいられたとは思わない。だけど、それでも何かを感じるんだ」
『俺は必ず帰って来る。死んでも、お前に会いに来る』
――ふいに、ティムの声が脳裏に響いた。
エリスは思わず空を眺める。だが、そこには広大な青の中で白い雲がたゆたっているだけだ。
彼の声が聞こえるなんてありえない。ましてや、誰もいない大空でそれが聞こえるなんて……。
懐かしい日々に思いを馳せる。
ティムは粗暴でいい加減な男だったが、約束は守る義理堅さがあった。
彼がこの世にいるとはとても思えないが、ふいにティムが戻って来るような気がした。
「だって約束したじゃないか」
彼なら言いそうなセリフだった。
それがいつになるのかは分からない。
だが、エリスは確実に知覚した。
ティムが残した強い意志の残り香を。
そして、この先いつまでも思い出を大切に持ち続けるであろうことを。
「うん、私もそう思う」
エリスはエリックを後ろから抱きしめた。
頬を涙が伝う。
一度死んだ人は帰って来ない。
間違いなく、確実に。
だが、彼の魂は本当にこの大空の蒼へ溶けて無くなったのか。
エリスには、ティムとの永遠の別れが来たとはとても思えなかった。
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