酷薄な知将

「ここは……」


 レインが目覚めると、そこは殺風景な部屋だった。


 周囲は老朽化したレンガで覆われており、あちこちにヒビが入っていた。


 床には無数の黒い血痕が残っている。


「っ……!」


 手首が痛む。鎖で縛られ、天井から吊るされていた。


 妙な感覚。地下道特有のすきま風が吹き、全身が震える。衣服を脱がされ、全裸にされていた。


「気付いたか」


 下卑た声。


 部屋に似合わない、女性用のボンテージファッションに身を包んだ男が鞭を片手に邪悪な笑みを浮かべていた。


 全身の筋肉は不自然に隆起しており、おそらく薬物などで強化されたものだ。


 腕には太い血管が浮かび、ピチピチのパンツは勃起で不自然な形に歪んでいる。誰が見ても異常な精神性を持つ変態だった。


「あなたは誰?」


「それはこっちのセリフだ。お前こそ皇妃様の部屋に忍び込んで何をしていたんだ」


 男は語尾を上げずに鞭を振るう。


 派手な音と、想像以上の衝撃がレインの脇腹を打つ。たちまちミミズ腫れができあがり、血が滲んでくる。


 レインの顔が苦痛に歪む。


 男は嬉しそうに鞭を振るい続ける。


「お前が救いがたいほどのバカだということは分かっている。なにせ皇妃様の部屋へ忍び込み、国民の至宝であるエリス様に危害を加えようとしたのだ。ただで済むはずが無い」


 部屋に鞭の強烈な音が響く。


「だがことはそれだけではない。お前のような愚か者が来るということは、背後に誰かの意志が動いているはずだ。それは誰だ」


 再び鞭の音が響く。


「いや、言うまでもあるまい。お前はダークエルフ。そう、お前が来たのは漆黒の森にいる長老たちの差し金だ。違うか」


 鞭の音。


 切り裂かれた腹部から、血がしたたっていく。


「いや、答えるまでもない。お前はきっと漆黒の森から派遣されてきたに決まっている。お前は魔王オディウムの亡き今、世界を再び混沌へと陥れようとしている不届き者」


 鞭の音。


 答える前に、変態が自分で質問に回答している。


 もはや会話が成立していない。


「お前は世界の安寧を脅かす魔女として焼かれる。国民の前で、盛大にな」


 袈裟斬りのような角度で鞭が当たる。鎖骨付近の肉が切り裂かれた。


「お前たちは漏れなく殺される。俺たち帝国兵によって。これが淘汰というものだ。弱き者はこの歴史から駆逐されるのだ。分かったか、この虫ケラが!」


 叫び声とともに鞭が振るわれる。


「俺たちはお前たちを殺し尽くし、犯し尽くし、そして奪い尽くす。お前はその引き金になるのだ。故郷を守ろうとしたお前が、逆に故郷を窮地へと陥れる火種となる!」


 鞭の一撃。胸に当たり、血が滴った。


 レインの頭に血が上っていく。


「無残なお前の死体を、漆黒の森へと届けてやる」


 ボンテージ男が鞭を振りかぶる。


 刹那、カウンターのタイミングで無防備なアゴを蹴り上げた。


 衝撃――つま先に、たしかな手ごたえがあった。


 アゴを砕かれた男は歯を吹いて倒れた。そのまま動かない。変態的なファッションで勃起したままその命を終えた。


「危機を脱したはいいけど、それはそれで困ったわね」


 レインが誰にともなく言う。


 目の前の拷問番を殺したせいで、死ぬまでここで宙づりのままかもしれない。


 一瞬だけそんなことを考えて、その場で詠唱をはじめる。


 全裸にされても魔法は使える。ブツブツと独り言のように詠唱して、手首の縛めを分解しようと試みる。


 だが――


「嘘でしょう?」


 魔法が発動しない。


 どうやら、魔力を無効化する結界が張られているらしい。無詠唱のスペルでも、まったくこの部屋では機能しない。


「お前の魔法は厄介だからな」


 部屋の奥から低い声が聞こえる。


 ただならぬ悪意を感じて、レインの眼つきがみるみる鋭くなっていく。


 画に描いたような悪徳政治家顔の男が入って来た。


 ゲオルク・ベーゼ――エリック・イグナティウス直属の執務大臣であり、王都ミラグロの裏ボスと恐れられる男。


 魔王オディウムを討伐した勇者たちの一員なのだから英雄に違いないのだが、それが本当なのかと疑いたくなるほどの邪悪なオーラを発している。


 ゲオルクは酷薄な笑みを浮かべる。


「安心しろ。すぐには殺しやしない。お前にはとある役割を担ってもらう」


「役割?」


 全裸で吊るされているのに、羞恥心よりも不気味さの方が勝っていた。


 ゲオルクはレインの体にはつゆとも興味を見せず、その計画を話しはじめる。


「これからお前は国民の前に魔女として差し出され、衆目の中で焼かれる。王都ミラグロを、世界を恐怖に陥れた反逆者としてな」


「私が……魔女?」


「そうだ。世界にひずみが起きた時、人間というものはその理由を欲しがる。その結果この世界には代々魔女狩りというものが続いてきた。魔法を使う者は邪悪で、それは黒い服を着ている者が邪悪というところまで行き着く。見境みさかいが無く、愚かな民衆たち。だが、我々はその民衆が織りなす世界で生きている。そこには秩序と統制というものが必要なのだよ」


「秩序と統制? バカじゃないの? それを乱しているのは他ならないあなたたちじゃない!」


 レインは怒り任せに反論する。


 ゲオルクは冷たい笑みを浮かべて答える。


「それは見解の相違というものだよ。我々からすれば、世界は一人の人間が統べている方がうまくいく。争う者がいないからな」


「そのために侵略戦争を繰り返すなんて勝手すぎる!」


「それも立場の違いに過ぎない。君たちがさっさと協力して、魔石という資源を差し出していれば無駄な血は流れなかった。違うかな?」


 レインが怒りで歯ぎしりする。


 目の前の男はまぎれも無い暴君だった。


「あなたは悪魔よ」


「悪いがどこまでも見解の相違だ。私が指揮を執り、漆黒の森を押さえることで王都ミラグロは豊かになる。それによって私の功績は国内史上最高の評価を受けるだろう。たとえお前たちがどれだけ私を呪おうとも」


 ゲオルクの指に光る宝石。妖しい、紫の光。魔力を増幅させる魔術具だった。


 漆黒の森が攻め落とされれば、これらの魔術具が大量生産される。それは新たな戦争を生み、また世界を混沌に陥れる。それだけは何があっても阻止せねばならない。


 手枷でぶら下がりながら、レインが虚空でもがく。


 だが、魔力の増幅効果もある術衣を奪われたレインは、単に生命体として弱っていた。


 呪文を詠唱する。手がふさがっていたとしても、魔法そのものは使える。レインにはそれだけの能力があった。


 地獄の業火で、目の前の悪魔を焼く。


 ――燃えるのは、あなたよ。


 レインの周囲の時空が歪む。


 ゲオルクが口角を上げる。


 特大の火の玉を放とうとした刹那、レインの全身に電流が流れる。


「あああああああ!」


 前触れも無いショックと激痛で、思わずレインが叫び声をあげる。


「バカめ。お前が魔法を使うことなど織り込み済みだ」


 ひび割れた床面に禍々しい紋章が光っている。


 封魔の紋――魔力に反応して電流を発生させる恐怖の術。魔法を詠唱する際には、血中を魔力の含有された粒子が移動する。封魔の紋はその魔力の粒子に反応して、電流を生み出す構造となっている。


 言い換えれば、魔力の高い者ほど、封魔の紋で強い電流を受けることになる。


 強烈な電流を浴びたレインは、一瞬だけ目の前が暗くなった。あまりの衝撃に、意識が飛びかけていた。


 褐色の肌から、タンパク質の焼ける嫌な匂いが漂う。


 薄笑いを浮かべるゲオルク。全力で睨みつけた。


「無駄な抵抗はやめろ」


「……卑怯者」


 罵る言葉にも力が無い。


 今すぐにでもそのいけ好かない顔を爆風で吹き飛ばしたいところだが、それを試みればまた激烈な電流を喰らうことになる。誰だって好き好んで致死性の電気ショックを受けたいとは思わない。


 怒りで魔力を発動しないよう、自身の心を全力で抑制する。


 その顔が怒りで歪んでいようが、無表情だろうが、魔力を発動すればその瞬間に全身へ強烈な電流が流れる。次に同じ目に遭えば、体が持つかも分からない。


 レインは力なく吊るされるがままになった。


 先ほどまで激しく中空で身体をよじった余韻で、細い身体がゆったりと宙で揺れている。


 そこには単なる静寂とは異質な、嫌な静けさがあった。


 鎖がこすれ、きいきいと耳障りな音を発している。


「そうだ。いい子だ。そうするのが一番賢い」


 ゲオルクは満足そうに頷く。気の強い女を意のままにして、大層気分が良さそうだった。


 レインは虚ろな眼で睨んでいた。


「そう死に急ぐこともないだろう」


 ゲオルクはレインの表情などまったく気にせずに続ける。


「お前にはまだ利用価値がある。それまで束の間の生を慈しんでいるが良い」


 返事を待たずに、ゲオルクは部屋を後にする。


 遠くなる背中を罵ろうにも、舌に力が入らない。


 レインは、いよいよ自分の命もここまでかもしれないと思っていた。

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