皇妃誘拐

「あなたは誰なの?」


 キョトンとした顔で訊く皇妃。


 ネグリジェは微妙に透けており、少しも衰えない身体のラインが見て取れる。色々な意味で無防備に見えた。それが魔王オディウムを倒した一味であることから来る自信なのか、それとも単に無警戒なだけなのかは分からない。


「あなたを攫いに来たわ」


 直球で言うレイン。


 情緒も何もない世界で育ってきただけあって、その口はオブラートに包むという概念を知らない。


「攫う? 私を?」


 大して怯えた素振りも見せずに返すエリス。出来の悪いコントみたいだった。


「あなたを人質にして王都ミラグロとの和平交渉をする。そのためにひと仕事してもらうわ。大人しく協力してくれれば、傷つけたりはしない」


 そう言いながらも、レインの眼は少しの油断も許さない、ぎらついた光を放っていた。


「バカなことはやめなさい」


 エリスは諭すように続ける。


「王都ミラグロは、魔王オディウムを倒したエリックが治める最強の国家よ? いくらダークエルフが知略に優れ、ゲリラ戦を挑んだとしても限界があるわ。そもそもの総力がまるで違うもの。私を攫えば、漆黒の森に軍が大挙して押し寄せる。そうなったら誰も生き残ることなんてできないわよ」


「皇帝はあなたのことを自身の命よりも大切に想っていると聞いているわ。あなたを奪還するために全軍をこちらへ投入するのであれば、愛しい皇妃の首をそちらに送り付けると伝えるだけ」


「まあ、彼は涙を流しながらあなたたちを全滅させるでしょうね」


「だからこそあなたを生かしたまま交渉する」


「甘いわ。あなたたちを皆殺しにしようとしている勢力が実際にいるのよ? 私を攫ったら彼らに、絶好の口実を与えるだけよ」


「……」


 レインが黙り込む。


「はい論破」


 これから誘拐されようとしているエリスが、自分の立場など一切構わずに続ける。


「ここは私に任せなさい。私がダークエルフとの帝国の仲を取り持ってあげる。そうすればミラグロも漆黒の森を攻略しなくていい。もちろん魔石の交易については譲歩してもらう必要があるでしょうけど、悪い話ではないわ」


「お気遣いをいただいてありがたいところだけど、信じることができないわ」


「どうして?」


「帝国は世界を統べるようになってから、必要のない闘争で他国を支配している。帝国は被害妄想をこじらせて、魔王に代わる脅威を必死になって探しているのに過ぎないわ。私たちにしたってそう。暴力をチラつかせて、殺されたくなければ言う通りにしろというのが帝国の常套手段よ。帝国はいつだって見えない敵と闘い続けている愚かな国家でしかない」


「皇妃を前に容赦ないわね」


 エリスが思わず苦笑する。


 だが、レインの言っていることもあながち間違いではない。


 魔王オディウムがいた時は人間同士が嫌でも団結しなければならなかったが、共通の敵を失った人間たちは、それまでに脇へ置いていた自国の利益に目を向け始めた。


 良く言えば野心だが、言い方を変えれば薄汚れた欲望を取り戻したとも言える。


 欲に目のくらんだ人間がすることなどろくなものではない。


 帝国は侵略まがいの拡張を続け、逆らう者は不穏分子として消してきた。


 ダークエルフのように故郷を追われ、その歴史に幕を下ろした種族も多数いると聞く。実際にはそれを語る被害者が皆殺しにされているため、誰一人として真相を知ることができないだけの話だ。


 レインの胸の内に暗い怒りがわいてきた。


 目の前にいる英雄の妻は、実際のところは何一つ理解していないのだ。


 裕福で幸せな日々を過ごす皇妃には、レインたちの暗く悲しい歴史など、遠い国のおとぎ話でしかないのだろう。そう思うとやるせない怒りがわいてきた。


「時間の無駄よ。死にたくなければ素直に誘拐されなさい」


 レインが小太刀に手をかける。


 その時――



「……っ!」


 脳裏に激しい電流が走る。


 まるで、皇妃を攫う行為を妨害するかのようなタイミングで。



 ――早まるな。



「……?」


 周囲を見渡すレイン。


 皇妃以外には誰もいない。


 だが、確実に何かがレインの意識へと語りかけていた。



 ――そのひとは、お前が守らないといけない。



「なんなの?」


 半ば抗議のように呻く。


 割れるような頭痛。全身が痙攣する。


 同時に、どうしようもない悲しみが、激流のように押し寄せてくる。


 ――そのひとは、お前が守らないといけない。


 それは何を意味するのか。


 ――あなたは、誰?


 声は答えない。


 頭痛は消えない。


 電流のように、脳内に痺れと吐き気が広がっていく。


「大丈夫?」


 エリスが声をかける。


 これから攫おうとしている女に気を遣われるなんて。


 滑稽で、笑えない状況だった。


 声は、なおもレインの意識に語りかける。



 ――他の誰かじゃない。



 ――お前だ。



 ――お前が守るんだ。



 ――誰を?


 激しい怒りを抑えながら訊く。全身に力が入らなくなってきた。


 頭を抱えて、膝をつく。


 脳裏には怨嗟の声や悲鳴、怒りに慟哭と、数えきれないほどの感情が渦を巻いて広がっていく。


 目の前が暗くなっていく。


 薄れゆく意識の中、縋り付くようにエリスへもたれかかる。



「……どうしたの?」



 照れくさそうに微笑むエリス。


 頬は紅く染まり、少女のように若々しい。


「ああ、ちょっと温もりが欲しかったんでな」


「もう」


「だから、しばらくはこうさせてくれ」


 ――見知らぬ男の声。


 それが誰のものかは分からなかった。


 男の姿は見えない。


 ぼんやりとした、白みがかった映像。


 どこかの映像を、白濁した意識の中で眺めている。




 ――ティム。



 ――ティム?



 ――誰なの?



 白い映像が終わる。


 口元に温かい感触。


 気付けば、皇妃エリス・イグナティウスの唇を奪っていた。


 柔らかい舌がぐちゃぐちゃと絡み合い、糸を引きながら淫靡な音を立てる。


「……っ!」


 我に返り、後ろに飛びすさる。


 エリスは、驚いた顔でこちらを眺めていた。


「……これは……っ!」


 違うのと言いかけて、口をつぐむ。


 これから攫おうとしている女の前で意味不明な言い訳をしようとしている。


 それを思うとあまりにも間抜けだった。


 数秒間、気まずい沈黙が流れる。


 いまだに驚愕の表情で目を見開いたエリスは、自分を抱くような体勢で身を震わせていた。


「あなたは……」



 ふいに脳内に激しい電流が走る。


 あまりの衝撃に、思わずのけぞった。


 まるで感電でもしたかのようだ。


 レインが再び頭を抱えて倒れ込む。



 ――思い出せ。お前の大切なひとを。



 ふいに視界が暗くなった。


 意識が落ちる。


 それと同時に、複数の人々が部屋へとなだれ込む音が聞こえた。


「皇妃様、ご無事ですか」


「ゲオルク……」


 助けに入った男の声と、動揺を隠しきれないエリスの声。


「その女を捕らえろ」


 1ダースの兵士を連れて来た男は、ゲオルクと呼ばれた。


 ゲオルク――聞いたことがある。


 王都ミラグロの裏ボスとして知られ、情け容赦ない性格で知られる知将。


 獰猛で嫉妬深く、高すぎるプライドとともに肥大した残虐性。


 ダークエルフたちにとっては、魔王に次ぐ禍々まがまがしい存在として知られている。


 そんな男に捕まれば、何をされるか分かったものではない。


 立たなければ。


 だが、意識は落ちていく。


 恐怖ではなく、あきらめに近い感情が脳裏をよぎる。


 最悪の展開だ。ゲオルクに捕まったとなれば、タダで済むはずがない。


 レインは見せしめのためにむごたらしく殺されるだろう。それが王都ミラグロの娯楽の一つとなるのだ。


 逆らう者には死を――それがかつての英雄が治める地の不文律と化し始めている。


 視界が黒くなる。


 意識が失われ、走馬灯すら出てこない。


 薄れゆく意識の中で、レインは死を覚悟した。

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