第6章 木藤さとみ あけみの母

第1話 夢の中

 クーラーが効かない。

 扇風機は音を立てて回っているが、部屋の空気を少しかき混ぜているだけで、首筋にじっとりと汗が肌からにじんで気持ち悪い。

「あけみ、あけみ」

 こういうときに呼んでもすぐに返事をしないのがしゃくにさわる。聞こえているはずだ。テレビの音が聞こえてくるから、となりの部屋にあけみはいる。

もう一度呼んで見る。

「あけみ」

「なんだよ、うっせえなあ」

 ふすまが勢いよくぱたんと開き、あけみがさとみをにらんだ。よれよれのキャミソールに、ぶかぶかの半ズボンを腰の辺りで履いている。この半ズボンもゴムがぬけて生地もよれよれである。肌の荒れた薄汚い細い脚を交差させて開けたふすまに寄りかかって立った。

「エアコンの温度をもう少し下げてくれない? 暑くて死にそう」

「てめえでやれよ。ったく」

 あけみは露骨に舌打ちをしてから、ちゃぶ台の上においてあるリモコンを拾い上げた。

 

 あけみは温度設定のボタンに指を乗せたが、押すのはやめた。電気代が惜しくなったのだ。

 はいよ、とあけみはボタンを一回押した振りをした。

――暑くて死にそうって。こっちだって暑いし、お前のことなんて知らんわ。

 

 リモコンをぽいっとちゃぶ台の上に投げて、部屋からあけみは出て行った。さとみにの耳にふすまの閉まる音がきつく刺さった。

 

 木藤さとみは薄暗い部屋でベッドに横たわったまま目を閉じて、となりの部屋であけみが観ているテレビの音を聞こうと耳を澄ませた。そのくらいしか楽しみはない。

 毎朝、目が覚めて、昨日と同じように動かない自分の体を自覚した瞬間がつらい。――今日もまた生きている。

 生きていてもしょうがないと思っている。

 この毎朝の繰り返しが始まって五年経つ。

 

 友だちと夜遅くまで酒を飲んで大騒ぎした。どこで知り合ったのかも忘れたような人たちで、あの夜はその中のだれかの愚痴をみんなで聞いてあげようといったことで集まったんだ。愚痴を聞いているうちにみんな気分が高揚してきて、楽しくなってみんなで何軒もはしごした。

 一人、また一人と帰っていって、最後の友だちと別れて一人になったあけみはふらふらの足でそのまま自分の車に乗った。このまま運転して家に帰るつもりだ。タクシーなんて使ったことがない。おまわりに会ったこともない。

 その日もいつものように、自分で運転して家に向かった。

 

 目が覚めたら病院のベッドの上にいて、体にたくさんの管がついて、首も足も動かないようにベッドに固定されていた。

 ぼんやりしている頭を必死になってめぐらせて、どうして自分がここにいるのかを理解しようと試みた。そのうちに少しずつ思い出してきた。

――そうだ、友だちと酒を飲んでいたんだ。でもその後が思い出せない。

 あけみの話ではどうやら自分は車を運転して大型トラックとぶつかったらしい。

 深夜の交差点。さとみの信号無視だという。


「自分で生活していくことは難しいと思います」

 入院してひと月ほど経ったときに医者に言われた。さとみが直接聞いたのではない。あけみが医者から告げられて、あけみから病室でそのことを聞いた。

 

 半年の入院を終えてようやく家に帰ってきたが、自分では何一つできない。食事も排泄も、着替えもすべてあけみの助けがなければできない。毎日こうしてベッドに横になって天井を見ているだけである。


 目をつぶっているうちに夢を見ていた。

 お父さんがお母さんの頭を殴っている。

「このアマ、とっとと出て行け」

 おかあさんも泣きながら、応酬していた。

「うるせえ、てめえの顔なんて二度と見たくないわ」

 わたしはテレビを見ながら、泣いている。画面には魔法使いの少女が出てきて、歌をうたいながら変身して悪者をやっつけていた。いつもなら夢中になって観るアニメだが、お父さんとお母さんのけんかが始まって、主人公が動いているのも、悪者がやっつけられるのも全然気持ちに入ってこない。

 のどの奥がぎゅうっと詰まる。大声で泣き出しそうになっているのをこらえて、手首で口と鼻を押さえながら、私はひざを抱えて顔だけはテレビに向けていたが、ぽろぽろと涙を流して泣いていた。




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