第4話 生活支援課
定時の昼休みの時間が終わり、美智子は休憩室から自分の席へと戻った。
美智子が窓口業務を始めようと、受付のテーブルに置いてあった「お待ちください」の札を外し、席につくと、待合室になっているソファに座っていた金髪の女が美智子のいる窓口に歩いてきた。
「あのさあ、市民が待っているのになんで仕事しねえんだよ」
女はいきなりそう言って、たばこ臭い息を吐きかけてきた。
美智子はいきなりの乱暴な言葉に驚いたが、見るからにお察しな感じの女だから、このくらいは言うだろうと腹をくくった。
この生活支援課に異動になって二年経つ。市民生活支援課は、経済的に苦しい家庭の支援、介護支援、家庭環境の相談など、市民の生活をできるだけ行政で支えていこうと考える部署である。仕事がら、いろいろな市民に出会う。
ギャンブルに狂って家計を崩壊させた男、元気なのに、自分は病弱で動けない、支援がほしいと嘘をついて補助金をせしめようとしてきた女。
ほとんどが善良な人たちである。本当に助けを必要としていて、そうなってしまったのも本人たちの責任ではないことが多い。
いろいろな市民に対応してきた美智子であったが、この女は一線を越えている、と思った。支援を求めてきているのに、この態度をとることの思慮の足りなさは何なんだ。
――馬鹿か?
「受付の時間は決まってますので、みなさんお待ちいただいています」
美智子はできるだけ冷たく答えた。嘗められてはいけない。毅然とした対応をしようと思った。
「ちっ、お役所しごとは融通がきかねえなあ。民間だったらとっくに潰れてるわ」
その女はいかにもどこかで聞いたような台詞を言ったが、
――そういうあなたは民間だろうがお役所だろうが関係なく、どんな場所でもきちんとした仕事はできないでしょう。きっと周りから見下されてますよ。
美智子の心の中で憎悪が湧いてきたが、ここは冷静に、と自分に言い聞かせた。
その女は窓口に置いてあるいすに腰をおろして、足を組んだ。それから、くる、くるっといすを回しながら用件を話し始めた。
「あのさ、内の家計がもうぎりぎりで何とかしてほしいんだけど」
そんなことを恥ずかしげもなくあっけらかんと言っているのはその女の虚勢でもあるだろう。恥ずかしそうにいうのが嫌なのだ。虚勢を張って、なんでもないことのように言う。
――この手の女は、偉い人には慇懃で、こういう公的な機関や自分が客のような立場の時は好きなように自分の感情をぶつけてくるタイプだ。私が一番嫌いなタイプ。偉そうに……。
美智子は申請をしていくための資料として書いてもらう書類をその女に見せた。
「この容姿の太線の中に記入してもらえますか」
女は、めんどくさそうにペンを取り、その用紙に書き始めた。
美智子はその女の手元を見ていた。ピンク色のラメが入ったマニキュアを塗った長いツメが目立つ。塗り方が汚い。はがれているところもあった。
女は名前と住所を書いた。
申請者の欄には「久保あけみ」と書かれていた。汚い字である。小さな子が書いたような癖のある字だ。住所は美智子の家のわりと近いところであった。
年齢は四十歳であった。年齢を知って、改めて女の容姿を眺めてみた。女は書類を見ながらゆっくり書いている。
年齢のわりに童顔である。ほほが垂れて丸顔のせいかもしれない。肌が荒れている。化粧でごまかそうとしているが肌の荒れているのは隠せていない。金髪も色が落ちかけていて、髪の根元に白い毛が見えている。
子どもがそのまま体だけ大人になったようなタイプである。
美智子はその女を眺めていて、頭によぎった。
――この女、どこかで見かけたことがある。
美智子は思い出そうとした。私がいつも生活している場所で見たことがある。
近所の家の人? 仕事であったことがある? 地区の行事で一緒だった?
「スーパーのレジだ」
美智子は思い出した。
よく行くスーパーにいる女だ。同じ職場にいる仲良しが「絶対に嫌だ」と言っていたレジの女だ。
「たばこ臭くてさ、あいつの手に食べ物が触られると嫌な気分になる」
その人はそう言っていた。その女だ。
――私も何回か、この女のレジに行ったことがある。
「いらっしゃいませ」とか言って笑っていたくせに。
久保あけみというその女は、用紙に一通り書き終わると、美智子に向けて机の上を滑らせてきた。
「ああ、めんど。これでいいかな」
美智子は目を通して、記入漏れがないことを確かめると、申請するための書類をチェックリストにしたプリントをクリアファイルの一番上に入れて渡した。
「ここに書かれている書類と、印鑑を持ってまたこちらへお越しください」
書類には、調査用紙がある。そこにはたくさんの質問がある。支援を受けるためには慎重な判断が必要なのである。女が考えているだろうようには簡単にはいかない。他にも、用意しなければいけない書類がたくさんある。その一覧を書いたものがクリアファイルの一番上に入っている。
「今日じゃだめなんか」
と舌打ちをして書類を受け取った。
――そんなわけないだろ。
「おれ馬鹿だから書けるかなあ。わからんかったらまた来るわ」
女は席を立って玄関に向かった。
去って行く後ろ姿はすさんだ生活をしているのを感じさせた。よれよれのスウェットのズボン。素足にサンダル。虎だか竜だか、おどろおどろしい刺繍のはいったスタジャンを着ている。
女はスマホを弄りながら玄関を出て行った。
――あんな人を支援するのか。まじめに働いている人からすれば腹が立つ。
美智子は久保あけみが書いた書類をみながらデータを端末に入力した。
その書類をバインダーに綴じた。
――私とは生き方が違う人。私とは仕事でなければ関わりのない人たちだ。
美智子はその時はまだそう思っていた……。
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