第3章 山崎創一 あけみの小学校の同級生・職場上司

第1話 九九

「じゃあ、次はあけみさん、七の段を言ってみて」

 前の座席の子が言い終わると小早川先生があけみを当てた。前の子は六の段を完璧に諳んじた。

 昨日の夜、一人で少しだけやったけど、ぜんぜん覚えてなかった。

「早く言って」

 小早川先生はあからさまにいらついた声で催促した。

「しちいちがしち、しちにじゅうろく、しちさんにじゅうし……」

 みんながじっとあけみを見て笑っているのがわかった。

「聞こえないんですけど」

 途中で小早川先生はあけみの九九を遮った。

「昨日の宿題で覚えてきなさい、って言いましたよね」

「うん、言った、言った」

 元気のいい男子が先生に答えている。やってないのがおかしい、と正義感を振りかざしている。

「それに、まちがってる」

 休み時間によく遊ぶさあちゃんもそう言ってあけみを責めた。

 昨日は、家に帰るとお兄ちゃんがテレビゲームをしていて、私もやりたいってコントローラーの取り合いになってけんかをした。

 言い争っているときにお母さんが帰ってきて、お兄ちゃんの頭を思いっきりひっぱたたいた。

「ばか、おまえのじゃねえだろ」

 お母さんはそのゲームを買ってきたのは自分だって言って、勝手に使っていたお兄ちゃんを叩いた。


 宿題のことを思い出したのはもう布団に入ってからだった。

「九九をを覚えなきゃ」

 隣の部屋でお母さんがゲームをやっている音がする。あけみは一回だけ教科書を見てから、布団に入ったまま九九を言ってみた。二の段と三の段はまあまあ言える。五の段はもう言える。でも、他の段は全然言えない。四の段、六の段と言えるかどうか言ってみたが全然だった。

 翌朝、お母さんに布団を引っぱられ、脚を蹴らて起こされた。

「そこらにあるもの何か食べて」

 そう言ってお母さんはまた寝てしまった。その日は夜勤だから昼間は休みの日だ。

 ランドセルの中から昨日もらった学校からのプリントを台所のテーブルの上に出した。新聞のチラシやお菓子の袋の下におととい出したプリントもあった。お母さんは見てるのかどうかわからない。とりあえずここにいつも出している。

 お母さんが寝てしまったので、あけみは朝ご飯も自分で何か探して食べて、髪の毛だって起きたまま学校に向かった。

 宿題のことなんて、学校に来るまで忘れていた。教室に入るとみんなが友だちと向き合って九九を言っているのを見て思い出した。

 あけみは五の段なら言えるから、友だちが声かけてきたときも五の段しか言わない。

 二の段から順番に当てられて友だちが立ってみんなが聞いているところで言う。

 あけみは算数の時間になってからずっと下を向いていた。

 小早川先生はいつもは優しい先生だが、宿題や忘れ物には厳しい。前を見てると小早川先生と目が合いそうだと思って、ずっと下を向いていた。だけど、そういう子はかえって先生に目をつけられてしまうのである。小早川先生もあけみのそんな様子を見逃さなかった。

「前も九九の宿題やってこなかったよね」

 胸の前で腕を組んであけみを見ていた。

「あなたが宿題やってきてないことをお母さんは知らないのかしら」

 そう言って次の子に同じ七の段を当てた。あけみはうつむいたまま他の子が言っているのを聞いていた。

 夕方うちに帰って玄関のドアを開けるとお母さんがいきなりあけみのほっぺたをひっぱたたいた。

「このばか、おまえ学校で何してんだ」

 あけみはほっぺたを押さえてお母さんを見た。

「小早川から電話がきたぞ、おまえが宿題やってこないのをお母さんは知ってますかって。このばかが」

 お母さんはもう一度あけみの頭を叩いて作業着を着て家を出て行った。

 少しだけ泣いたが、お兄ちゃんが帰ってきたので涙は拭いていつもの顔に戻した。

 お兄ちゃんとあけみは台所のテーブルに置いてあるカップ麺を食べてから二人でゲームをして寝た。

 宿題のことなんて少しも思い出さなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る