18 お出かけ

 恋に落ちて錯乱するアドリーヌをなだめ、なんとか帰らせた翌朝。朝食の席で、ヴィクトルがこう言った。


「コハク。今日は用事はありませんよね?」

「うん、ないよ。どうしたの?」

「二人で城下町へ出かけませんか。定期的に視察をしているんですよ」


 私はルイと一緒に行ったときのことを思い出した。


「わあっ、行きたい! でも大丈夫なの?」

「僕がコハクを守ります。ご安心を。それにジュリアンも着いてくれますからね。僕の準備に少し時間がかかるので、部屋で待っていて下さい」


 コレットに言われて、私はなるべく地味な茶色のワンピースを身に着けた。メイクも一旦落とし、薄く変えてもらった。元々が派遣社員の私だ。これで普通の町娘に見えるだろう。コンコン、とノックの音がして、現れたヴィクトルは――黒髪だった。


「ヴィクトル! どうしたの、その髪!?」

「銀髪だと、竜帝の一族だとすぐばれますからね。いつも視察のときは、石鹸で落ちる染め粉を使っているんですよ」


 私はヴィクトルに近付き、髪を触った。いつも滑らかなそれは、キシキシとしていた。


「あまり綺麗でもおかしいですからね。きしむくらいで丁度いいんですよ」

「そっか。お腹も出てるよね!?」

「ええ。布を巻いています」


 服も薄汚れたもので、みすぼらしかったけど、それでも黒髪のヴィクトルはとてもカッコよく見えた。ジュリアンも現れて言った。


「それじゃあ、行きましょうか」


 そうして、私たち三人は城下町へ繰り出した。ヴィクトルの関心は、やはり市場の様子で、どうやら物価を確かめているらしかった。お昼になり、ジュリアンの案内する一軒の食堂に私たちは向かった。なんでも、マルクが元々勤めていたところらしい。この店では店主に素性を明かしているとのことで、私はリラックスして昼食を取ることができた。


「このスープ、とっても美味しいです!」


 私がそう言うと、店主のおかみさんはにっこりと微笑んで言った


「そう言って頂けるのが、料理人として最高の幸せですよ」

「それ、マルクも言ってました!」

「あらやだ、あたしの口癖が移りましたかねぇ」


 昼食を終え、ルイと行った反物屋の近くを通ると、またあの甘い匂いがしてきた。私はヴィクトルの袖を掴んでささやいた。


「ねえ、あっちに行ってみたいんだけど……」

「いいですよ」


 やっぱり、ドーナツの屋台だった。屋台のおじさんと顔を合わせると、彼は言った。


「おっ、いつぞやのお嬢ちゃんじゃないか。今日はお代があるのかい?」

「は、はい! 私のこと、覚えていてくれたんですね?」

「瞳の色が珍しいからねぇ。それに、美味しそうに食べてくれていたのが印象に残ってな。はっはっは」


 ジュリアンにドーナツを買ってもらい、私はそれにかぶりついた。


「んー! あまーい! 美味しーい!」


 ヴィクトルは、おじさんに世間話を持ちかけていた。


「おじさん、商売の方はどうだい?」

「竜帝様がつがいをお作りになっただろう? 町中が大賑わいだよ。これでお二人の間にお世継ぎがお生まれになったら、この世界はさらに安泰だろうねぇ」


 お世継ぎ……か。そりゃあ、民のみなさんの次の期待はそうだよねぇ。けれど、未だに人間の姿のヴィクトルとはキスすらできていない。こんな私たちに子供などできるのだろうか。ヴィクトルは続けて聞いた。


「お妃様はニンゲンだっていうけど、それについてはどう思うかい?」

「そりゃあ、同じニンゲンのおいらにとっちゃあ誉れ高いことだよ。コハク様っていうんだろう? お名前は珍しいけど、高貴な響きで美しいじゃないか」


 お父さん、お母さん。こはくという名前をありがとう。異世界でも、あなたたちの名付けは褒められていますよ。

 視察を終え、私たちは竜帝城に戻った。湯あみを終え、すっかり銀髪に戻ったヴィクトルは、いつも通りの美しい所作でナイフとフォークを使っていた。そういえば、お昼のときは、肉にそのままかぶりついていたのだ。そういった使い分けもできるんだな、と今日初めて知った。


「今日はコハクの評判も聞けましたね」

「うん。受け入れられているみたいで良かった」

「実は、僕の親類たちからも反対はあったんですけどね。リオネルが、とりなしてくれたみたいなんです」


 あのリオネルが。初対面のときはふさわしくないとまで言っていたのに。彼とは婚儀のとき以来会っていない。また今度お礼を言っておかなくちゃ、と私は思った。

 夕食を終え、いつものように私とヴィクトルは部屋でワインを楽しんだ。彼が竜の姿になろうとしたので、それを止めた。


「どうしたんですか、コハク」

「もう少し、そのままで居て」


 おじさんが言っていた言葉が頭の中に張り付いていた。お世継ぎ。もうそろそろ、勇気を出すべきか。私は、人間の姿のままのヴィクトルの手をそっと握った。


「コハク……」


 ヴィクトルは握り返してくれた。美しいブルーの瞳がまたたいた。私の顔が映りこんでいた。


「キャー! まだダメー!」


 私はヴィクトルを突き飛ばしてしまった。


「痛いですよ、コハク」

「ごめんなさい!」


 うん、まだダメだ! ヴィクトルと民のみなさんには悪いけど、お世継ぎはもう少し待っていてほしいかな!

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