第5話 多重人格
「バーチャルリアリティ」
というものを、経験したことで、まるで自分が多重人格であると思うようになると、気持ちの中で、タイムスリップが起こっているように感じることがある。
要するに、本当の自分というものの間に、別の性格が表に出てきて、それが暗躍するのだろうが、我に返ってしまうと、まるでそれが夢だったかのように、思い出そうとしても、その間の気持ちを忘れてしまっているかのようだった。
そういう意味では、
「多重人格性における。普段は隠れている感覚が、たまに表に出てくることがあるが、それが夢のような感覚なのかも知れない」
と感じるのだった。
だから、いつも裏に潜んでいるものが、表に出てきても、その間は、自分にとって空白な時間にしか思わない。なぜなら、忘れてしまって思い出せないからだ。。
その間、自分が何を考えて、何をしようとしていたのか、その感覚は飛んでしまっている。そういう意味でのタイムスリップという感覚なのだ。
隠れている性格が、自分にとって、いい影響を与えるのか、悪い影響を与えるのかということは、正直分からない。
しかし、分からないだけに、下手に抗っても、それは無理のあることであろう。だから、遠山は、下手に意識することなく、
「これも一つの運命のようだ」
と思うことで、自分が流されていくことを悪いと思わないようにした。
というのは、
「自分が多重人格である」
ということを自覚できただけでも、いいことなのだと思うからで、その思いに抗わないようにするには、運命と感じることが自然なのだと思うからだった。
今まで、人を好きになっても付き合うことがなかった遠山が、まるで失恋したかのような気持ちを表に出していることを、まわりの人も違和感として捉えていた。
今までは、片想いをしていても、それが分かった時、
「失恋した」
という意識はなく、表にそれを出そうとは思わなかった。
ということは、今回は片想いの感覚ではなく、明らかに両想いの中にある普通の失恋だといえるだろう。
「バーチャルの恋愛という恥ずかしいことなのに、それをまわりに分かってほしいと思うのは、自分が今まで失恋の経験がないからということと、失恋をしたということを、自分の中で理解したいという願望のようなものがあるからではないだろうか?」
と、遠山は自分の中で、そう理解しようと思うのだった。
そんな中で、
「あんな女がネットの中には住んでいるんだ」
という思いから、ネットの恐ろしさの片りんを見たような気がした。
その思いがあることから、しばらくチャットやメッセンジャーの世界から、
「足を洗った」
のである。
ただ、必要な常識を得るためという意味で、ネットから完全に離れるということなどできるわけもなく、毎日のようにパソコンを開く生活はしていたのである。
「これが、本来のパソコンの使い方なのかも知れないな」
と思ったが、そうなると、せっかく高い金を出してまで買ったパソコンが、もったいなくなってくるのであった。
「何か、活用方法を考えないとな」
と思っていた。
そんな頃であった、例の大学の先輩が連絡してきて、いきなり、
「おう、久しぶりだな。童貞は卒業したかい」
と言って、高笑いが聞こえてきた。
それを聞いて一瞬、
「人の気も知らないで」
と先輩の態度に、露骨に嫌悪を感じたが、それを予期していたように、先輩は、
「そうか、そうか。それは悪かったな。じゃあ、約束通り、俺が童貞を卒業させてやろう」
というではないか。
以前であれば、
「いいですよ。俺が自分で何とかしますよ」
と言ったのだろうが、その時は、
「これも運命か?」
と考えるようになっていた。
そして、そう思うと、何やら懐かしい興奮が芽生えてくるのを感じたのだが、その興奮は、懐かしいというほど古いものではないように思えたのだ。
「ああ、あのえっち電話の時の感覚だ」
と思った。
あの時は、好きでもない相手に、勝手に恋愛感情を抱き、お互いにバーチャルで妄想に入り込み、深みに嵌ってしまったという感覚だったのを思い出したのだ。
だが、先輩が連れていってくれようとしているところは、別に妄想の世界ではない。もちろん、実際に行為に入るまでは、妄想の世界であるが、その妄想というのは、成長型の妄想であった。
童貞である自分が、妄想をするのだ。相手は別に好きな相手というわけでもなく、逆に、
「お金で、快感を与えてもらう」
という契約のようなものだと思うと、割り切ることもできる。
そして、その妄想を抱くことも、非合法ではない。しっかりとした法律に守られて、市民権を得ている商売なのだ。
そのことについては。先輩が以前説明してくれた。
「お前だったら、そういうところも、変に意識するだろうからな」
と言っていたが、それは決して褒めているわけではなく、皮肉を言っているだけだ。
「そんなことをいちいち気にしているから、いつまで経っても、彼女もできないし、童貞も卒業できないんだ」
と言いたいのだろう。
そんなことは、百も承知だとばかりに、遠山は思っていた。
だから、先輩のいうことも分かっているつもりだったし、今回は、
「抗わないことにしよう」
と感じたのだった。
先輩が連れていってくれたのは、ソープランドであった。
「風俗の王道と言ってもいいところだからな。当然合法なんだから、別に罪悪感を感じることもない。お前のような童貞が、卒業するということのために実際に、何人もの男性がお世話になっているという側面もある。だから、余計なことは気にしなくてもいいんだ。とにかく大切なのは、楽しむということさ。たぶん、今俺が言ったこの言葉、お前がサービスを受け終わってここに帰ってきた時に感じているかも知れないし、もし感じていなかったとしても、今日、寝るまでには感じることになると、俺は思っているんだ」
というではないか。
先輩は、よくいろいろと思い切ったことを、遠山にさせたりするが、その時も今日のように、心境について話をしてくれる。
その話は本当にウソではなく、確かに言ったことは、すべて当たっているのだった。
「この先輩にはこれからもついていっていいんだよな?」
ということをいつも感じさせてくれる人だったのだ。
「ソープにもいろいろあって、昔のように、高級店しかないわけじゃない。格安店と呼ばれるものもあれば、中間クラスの大衆店と呼ばれるところもある。今日は大衆店にしようと思う。せっかくの童貞卒業を格安店では気の毒だし、かといって、高級店にいきなりというのは、刺激が強すぎて、嵌ってしまって抜けられなくなるのが、怖いともいえるからな」
と、先輩はいうのだった。
まさにその通り、嵌ってしまって、抜けられなくなるという性格を、自覚もしていたので、それは避けないといけないことだと思うのだった。
そんなソープランドが、どのような店かということも、先輩に予備知識として教えてもらった。
遠山の意識としては、
「まるで必要悪のようなものかも知れないな」
というものであった。
基本は、「悪」であり、しかし、それでも世の中には必要なものとして、存在している。だからこそ、法律で守られていて、市民権もあるのだろう。だから、何も後ろめたさを感じる必要などない。
「楽しむ」
というのも、そういうことなのかも知れない。
先輩が連れて行ってくれたのは、やはりソープであった。ということは、童貞卒業が目的であることは明白である。
「お前も、もうそろそろ二十歳になるだろう。卒業してもいい頃だ。それに最初は素人よりも、プロの方がいい。同じ緊張するなら、任せる相手の方がいいだろうからな」
ということであった。
大学に入学してから、最初の頃は合コンなどに誘われて、
「夜の街」
に出かけたこともあったが、あまり好きではなかった。
そもそも、アルコールが苦手で、酒が入ってテンションが上がっている連中を見るのが好きではなかった。両親も、親戚も皆酒が弱い。
「お前は、酒の弱い家系に育ったんだから、きっと酒が弱いはずだ」
と、決めつけられて育ったのだから、嫌でも、そう思い込んでしまったのは、無理もないことだった。
もし、それを言われなくても、たぶん弱かったのだろうと思うが、言われたせいで、さらに思い込んでしまい、
「俺は酒に強いわけなど、まったくないんだ」
と思っていた。
思い込まされたことが癪には触るが、酒に強いということでメリットはないと思っていたので、気にはしていなかった。
「嫌なら、飲まなきゃいいんだから」
と思っていたが、新入部員歓迎コンパというものに参加した時、
「先輩の杯は飲み干さなければいけないことになっているからな」
と言われた。
嫌だったが、しょうがないので、何とか飲み干したのだが、そのせいもあってか、完全に泥酔してしまって、前後不覚に陥り、完全に翌日は、死んだように寝込んでしまった。
自分ではまったく覚えていない。どうやって帰ってきたのか、気が付けば、着替えて寝ていた。頭が割れるように痛く、
「もう酒の匂いを嗅いだだけで、吐いてしまいそうだ」
と思ったくらいだった。
そのせいで、それ以降は、飲まされることもなかった。
「お前は飲まなくてもいい」
と先輩から言われて、不思議に思いながら、
「はぁ」
と、頷いていたが、要するに、
「もう、こいつに飲ませるとロクなことにはならない」
と、先輩も分かったのだろう。
その時がどんな感じだったのか、誰も教えてくれない。ひょっとすると、
「忘れるはずはない」
と思っているからではないだろうか。
それほど、本人もしっかりしていたのかも知れないし、ただ、どちらにしても、どこかで前後不覚になったのは間違いない。帰る時、しっかりしていれば、さすがにここまでまわりが気を遣うこともないだろうから、帰る時は、強引にタクシーにでも乗せたのかも知れない。
ただ、気になるのは目が覚めた時、誰もいなかったことである。一度目覚めて、
「もう大丈夫です」
とでも言ったのかも知れない。
その時、思ったよりもしっかりしていて、ただ、
「こいつに飲ませると、その後、誰かが付き添わなければいけない」
というほどに、酷かったのだろう。
急性アルコール中毒では、泡を吹くということも聞いたことがある。つまりは、泡くらいは吹いたのだろう。
ただ、もし泡を吹いたとしても、救急車では運んではくれない。これは昔からのことで、よほどの命にかかわることでもない限り、救急車は乗せてくれない。
「我々はタクシーじゃないんだ」
と言いたいのだろうが、まったくその通りだと思った。
救急車で運ばれる際に、
「受け入れ病院が見つからず、たらいまわしにされる」
という話をよく聞いたものだ。
この場合は、病人がホームレスであったりなどの理由から、
「健康保険証を所持していない」
などということで、病院に受け入れ要請をしても、病院側から、拒否されるということもあるようだ。
もちろん、ただで拒否はできないので、
「手術室が埋まっている」
あるいは、
「先生が他の患者に当たっていて、対応できる医者がいない」
などを理由にすることが多いのであろう。
要するに、
「金にならない患者は、他の病院に押し付ければいい」
という、営利目的の受け入れ拒否であった。
しかし、このような状態が救急救命病院であからさまに行われると、いつかは、問題になるというもので、実際に、受け入れ拒否のせいで、助かる命が助からないなどという悲惨な結末になったりした。
そんな状況をマスコミは黙っていないだろう。まるでハイエナが集るように、いろいろ取材を重ね、合法、非合法関係なく、土足で立ち入るような方法で情報を集め、それを記事にしているのだ。
彼らが慈善事業でやっているわけはない。しょせん、マスコミだって、営利のためにやっているのだ。
「俺たちが書きたい記事を書くんじゃなくて、読者がどんな記事を読みたいかということだけが、マスコミの使命なんだ」
ということである。
読者が読みたい記事であれば、少々倫理から離れたとしても、それは、
「読みたい人がいるから、与えているだけのことだ」
ということを理由にして、書き続ける。
それがマスコミというもので、
「マスゴミ」
とも称されるゆえんである。
ただ、そんなマスゴミも、実にたまにではあるが、いいことをする。それは、自分たちの倫理や、正義感などというものとはまったくかけ離れていて、あくまでも、
「読みたい連中に、記事を与えて、それで金儲けをしている」
というだけのことである。
そんなマスコミが書いていた内容は、
「情報収集にかけてはさすがにプロ」
と思わせるものだった。
どんな方法を使っているかということは、公にはできないことであるに違いないが、それでも、ちゃんと理にかなった情報を得てから、それを記事にしているのは、さすがであった。
もちろん、金儲けのための記事なので、正義感からではなく、読者を煽るような書き方であるが、方向性が間違っていなければ。それなりに、正しく、そして立派な記事になる。コラムなどという形で書かれている記事が、どこまで信憑性があるか分からないが、気になって見てしまうのは、自分もマスゴミに踊らされているからであろうか?
そんな時期を読んだ読者は、救急救命について、疑問を呈するようになる。
しかも、その頃から、テレビドラマの一つのパターンとして、
「医療系のドラマ」
というものが、ワンクールに、一つや二つはあったりするようになってきた。
特に救急救命などは、ドラマになりやすく、
「そこで働く医師たちの努力と、病院側の理不尽な経営方針とがぶつかって、ドラマが形成されている」
という感じのものが多い。
ただ、これは他のドラマとも共通したものがある。
例えば警察関係の話などがそうではないだろうか。
警察というと、典型的な縦割り社会であり、さらに、管轄のようなものがあり、横のつながりも怪しいものだ。
特に階級制度の警察機構は、階級が上の人には絶対に逆らうことはできない。
なぜなら、階級によって、行使できる権利が、ハッキリしているからであった。
「警部以上でなければ、事件の捜査を管理できない」
などというものである。
他の会社の、係長、課長などと呼ばれるものと違って、階級でできる範囲がしっかり決まっているというのは、やはり、上層部が、警察庁という政府からの流れだからではないだろうか。
しかも、警察は公務員である。
階級によって、地方公務員と国家公務員で分かれる。
国家公務員ともなれば、完全に管理できる立場であり、その力は天と地ほどの違いがある。
これは警察機構に限ったことではなく、公務員全般にいえることであるが、
「キャリア組、ノンキャリア」
などという言葉を聞いたことがあるだろう。
特に、キャリア組は、国家公務員試験に合格してきたエリートが、試験を受けていない人が最初の階級からしか進めないものを、かっ飛ばして、進むことができるものである。
例えば昔の軍隊にも同じようなものがあった。
「陸軍大学を卒業していなければ、参謀本部へは入ることができず。陸軍としての本来の仕事をさせてもらえない」
ということであったりするが、しかし、
「大卒であるとしても、階級は二等兵から」
ということではあったようだ。
徴兵制度というものが、結構ややこしかったのではないかと思われる。
だが、今の制度では、試験に合格すれば、国家公務員なので、
「一般警察官は、まず最初は巡査からのスタートだが、キャリア組となると、最初は警部補からになる」
というものである。
さすがに、それは、国家公務員の試験に合格しているのだから、当たり前のことであろう。
テレビドラマなどで問題になるのは、
「自分のやりたいことをするには、偉くなって、自分に権力が付かなければ、何もできないのと同じだ」
ということである。
何と言っても、縦割り社会なので、当然のことながら、上下関係には、かなりの厳しさがある。
一匹狼であったり、異端児と呼ばれる人は、まず出世などできるはずもなく、中年になっても、巡査部長であったり、平刑事であったりする。
それがドラマとしては一番いいのであって、
「視聴者が見たい番組」
として出来上がるのだ。
上下関係だけではなく、管轄の違いなどを浮き彫りにすることは、これも視聴者がもっとも気にするところであり、勧善懲悪という観点から、刑事ものほど、ドラマになりやすいものはない。
それが人情ドラマともなれば、余計に視聴率が上がり、世の中の理不尽さをいかに描くかということが問題なのだろう。
警察や医療関係は、そういう意味で、ドラマになりやすい。営利目的の病院と、さらに、出世欲などのドロドロとした問題が孕む、警察機構、それらの根底にあるものは、
「勧善懲悪」
という考えではないだろうか。
勧善懲悪というと、
「善事を勧め、悪事を懲らしめること」
それを勧善懲悪という。
時代劇などに多いパターンで、
「水戸黄門、遠山の金さん」
などが、その例なのだろう。
余談であるが、このお話の主人公である、
「遠山金治」
という名前は、彼の父親が、勧善懲悪な性格だったことと、名字が遠山だということで、
「遠山金四郎」
にあやかった名前にしようということで決めたということだ。
さすがに今でいう、キラキラネームなどとは、趣旨が違っているのだろうが、つけられた子供としては、
「何て罪な名前を付けてくれたんだ」
と思わないわけにはいかなかった。
遠山が大学生の頃から、キラキラネームという話はあったが、問題になっても、少しであった。
そんなキラキラネームから比べれば、
「遠山金治」
くらいは、許容範囲だといってもいいだろう。
そんな遠山だったが、夜も街に出かけるのは、コンパの時でコリゴリしていて、まわりも必要以上に誘わなくなった。
普通だったら、
「合コンで人が足りないから」
という理由で呼ばれる可能性が一番高いのだろうが、
「遠山はやめておこう」
ということに、水面下ではなっているようだった。
その理由はハッキリとは分からないが、きっと、その場の空気を乱すような発言をしたり、行動をしたりするのではないだろうか。
一番嫌われるのは、場の空気を読まずに、自分だけ目立とうとする人ではないだろうか?
女の子から好かれたいという気持ちだけではなく、とにかくその場のマウントを取りたいという理由で、しかも、まわりを気にしない人は、実にわがままであり、一番嫌われるであろう。
特に合コンなどは、NGワードなどが結構あり、それを口にしてしまったことで、その場の雰囲気が完全に白けてしまうことも少なくない。
一言NGワードを口にしても、それにまったく気づかない人は、次にまた何を言い出すのか分からない。そんな人間を合コンなどに入れてしまうと、すべてが台無しになってしまう。
その日だけの問題ではなく、もし、今後、同じような合コンを開こうとしても、彼らはブラックリストに載ってしまい、自分たちが主催することはもちろん、他から誘われるということもありえなくなるに違いない。
そうなると、その元凶となったやつは、誰からも相手にされず、一人寂しい毎日を暮らさねばならない。
遠山が、合コンに参加した時、そんなNGワードを言ったことはないだろう。自分から目立とうとするタイプではないので、余計なことをいうこともない。逆に何も言わずに、そこにいるだけで、場の雰囲気を重くするというタイプ。これが、二番目に嫌がられるパターンだろう。
そんな人も次回からは誘われることはない。それが、遠山だったのだ。
遠山は、別に聖人君子ではない。勧善懲悪なところはあるが、だからと言って、自分を犠牲にしてまで、悪を懲らしめるなどということができるような男でもない。
また、偽善者というわけでもない。どちらかというと、偽善者を毛嫌いしている方だ。
一度中学時代に、まわりから、偽善者扱いされたことがあった。
その時は、苛められている子を庇うようなことをしたからであって、その時の態度が本人には分からないところで、露骨なところがあったのではないか。
苛めを嫌がっていた連中も、その時の、遠山の話をすると、顔を顰めるくらいである。その心境がどこからくるのか、遠山にはまったく分からないところであった。
そんなことをいろいろ考えていると、
「やっぱり、俺って多重人格なんじゃないかな?」
と思うようになった。
その一番の問題は。
「自覚していないことだ」
と言えるのではないだろうか。
その自覚というのは、
「自分をまわりが誘わないことの本当の理由」
という意味で、その時々によって態度が変わったりするのではないだろうか。
勧善懲悪であったり、日和見的であったり、目立とうとすることも意識にはないがあったかも知れない。
それぞれを思い出せないことが一番の問題で、ただ、それを思い出せたからと言って、自分が、
「多重人格だからだ」
という考えに至るだろうか。
自分のことをどのように考えるかということを、
「他人から、どうみられているか?」
ということに重きを置いて考えると、どうしても、自分のことが見えなくなってしまうのではないだろうか。
それを思うと、多重人格を多重人格だと思えた自分が、何を考えなければいけないのか、それが一番の問題なのだ。
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