第5話 たとえ幻だとしても
白馬の背に乗り走り続け、レリュード侯爵邸が近付いてきたとき、もう日は暮れかかっていた。
アルマは馬を降りると、少し離れた場所から屋敷の様子を観察した。正門は門兵に見張られていて入りづらい雰囲気がある。
「ここまでありがとう、シュガー」
頬を撫でそう告げると、シュガーはどこかへと消えた。
アルマは塀に沿って歩き、ある場所で足を止めた。
草木に上手いこと隠れていて一見わからないが、この塀には一箇所、穴が開いている場所があるのだ。辛うじて子供一人が抜けられるくらいの小さな穴が。
(ここを通って、エイベルと二人で抜け出したこともあったわね……)
幼い頃、エイベルはこの秘密の抜け穴をアルマだけに教えてくれた。
そして二人は家族に隠れて屋敷の外へと飛び出し、あちこち冒険して回った。
そのとき見た景色は今でも鮮明に思い出せる。
貴族家の令嬢として大切に育てられたアルマにとって、外の世界は刺激に満ちていた。そのときから、新しい世界を見せてくれるエイベルのことを強く意識するようになった。
それからずっと、エイベルはアルマの特別だった。どんな風景も、エイベルと一緒なら輝いて見えたのだ。
この恋心はもはやアルマの一部だ。酸素がなくては呼吸ができないように、エイベルが居なければ、きっと生きてはいけない。
だから、エイベルには元気でいて貰わなければ困る。
(待っててね、エイベル!)
アルマは穴を通り抜けると茂みの陰に身を潜めた。そして、忍者のような身のこなしで物陰から物陰へと飛び移り、屋敷まで近付いた。
(エイベルの部屋は二階の端だったはず)
そうっと屋敷内に足を踏み入れるが、幸い使用人の姿はなかった。中は妙に静かだ。
アルマは短い足で懸命に階段を駆け上がっていった。
死んだと思ったのに、何故かアルマはこうして生きている。未来のことなど誰にもわからないのだ。
ならばアルマとエイベルの未来だって、どうなるかなんてまだ決まっていない。
(大丈夫。これからも一緒にいられるはずだわ。きっと、ずっと――)
廊下を早足で進み、エイベルの部屋に辿り着く。アルマはドアノブに手をかけると、扉を勢いよく開け放った。
「エイベ……」
言いかけ、ぴたりと止まる。
アルマは一瞬、何が起きているのか理解できなかった。
「……え?」
薄暗い室内。大きな窓に広がる黄昏の空を背景に、誰かのシルエットが浮かぶ。
椅子の上に立つその人は、天井から垂らしたロープを首に通した。
そして、椅子を蹴り――
「ダメーーーーーッ!!」
アルマは全速力で駆け出した。
しかし一足遅く、その身体は宙吊りになる。食い込むロープが喉を締め、苦しげな声が漏れる。
(ダメ! ダメダメダメダメ!)
アルマは慌てて周囲を見回した。テーブル上の果物の籠盛りの傍にナイフがある。アルマは素早くそれを拾うと、咄嗟の判断でロープに向けて投擲した。
(命中した!)
ロープはぶつりと切れ、エイベルの身体が真っ直ぐに落下していく。
次の瞬間、エイベルは仰向けに倒れていた。
「エイベル!!」
アルマは慌ててエイベルの顔を覗き込んだ。
(生きてる!? 死んでない、わよね……?)
エイベルは呻き声に続いてゴホゴホと激しく咳き込む。それも落ち着いてきた頃、そっと顔を上げた。
虚ろで生気のない瞳。それが、少女に焦点があった途端に驚愕に見開かれる。
「アルマ……?」
その声を聞いてアルマはひとまず安堵し、次いでかっと怒った。
「バカ、何やってるのよ! 勝手に死ぬなんて絶対に許さないんだから!」
「……」
「何か言ったらどうなの! もう……っ!」
必死に訴えるうちに涙が滲み、大粒の涙がボロボロと零れ落ちていく。そのうちに言葉も紡げなくなって、アルマは大声を上げて泣いた。
しばらくそうして泣いていたが、そのうちに指先が涙を掬った。アルマがはっとして顔を上げると、エイベルがこちらをじっと見つめていることに気が付いた。
「……これも幻覚? まさか、子供の姿のアルマを見るなんてね」
「エイベル?」
「俺の名前を呼んでる……。そんなはずないのに。だって、アルマは死んだんだから」
エイベルは自嘲気味に笑う。そして、ぽつりと呟いた。
「……本当は俺が死ぬべきだったのに」
「!」
アルマはエイベルに馬乗りになると、エイベルの両頬を両の手で掴んだ。
「貴方って本当にバカ! 冗談でもそんなこと言わないで」
「こんな都合のいい幻を見るなんて、俺ってどうしようもないな。……アルマはもう、どこにもいないのに」
エイベルの瞳が悲しみで満ちていく。その顔があまりに痛々しくて見ていられず、身体が勝手に動いていた。
アルマは覆い被さるように、小さな身体で精一杯エイベルを抱き締めた。
「ここにいる」
「!」
「私はここにいるわ。エイベル」
優しい声を聞きながら、エイベルはぼうっと天井を見上げた。
柔らかであたたかい、人の温もりだ。
その感触を感じていると、自然と目の奥が熱くなった。つ、と一筋の涙が頬を伝う。
……もう、これが幻でも何でもいい。
せめて正気に戻ってしまう前に、このぬくもりを心に刻みつけておきたかった。
「……うん。もう、どこにもいかないでね」
そう言って、エイベルは泣きながら笑った。
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