第2話 届かぬ声

アルマはひと気のない廊下をあてもなく歩き続けた。そのうち庭園に辿り着き、そこでようやく足を止めた。

適当な柱に背中を預け、星もない空を見上げる。


「……どうしてエイベルが他の人と結ばれることを想像しなかったんだろう」


……いや、本当は少しも想像しなかった訳ではない。

エイベルへの想いを燻らせるアルマを見かねて、父が提案をしてくれたときがあった。


『そんなに好きなら、ウチからレリュード侯爵家に婚約を申し入れようか? レリュード公子なら安心だし……』

『ダメ! 私は政略結婚じゃなくて恋愛結婚をしたいの! エイベルが私の事を好きになって貰わないとイヤなの!』


そう喚くアルマを見て、母は困ったような顔を、キーランは呆れた顔をしていた。


『あらあら、アルマったら強情ねえ』

『そんな悠長なこと言ってると、向こうが先に他の人と結婚しちゃいますよ、姉さん』


そんな会話をしたのが二、三年前か。エイベルを振り向かせることが出来ぬまま十九歳を迎えることになろうとは、あのときのアルマは夢にも思わなかった。


アルマは自嘲気味に笑った。


「まさか、キーランの言う通りになるなんてね」


じわりと目の端に涙が滲む。視界が歪み、夜空も美しい庭園の風景も見えなくなった。


……苦しい。


いつかはこの想いが報われる日が来るはずだと信じ込んでいた。馬鹿みたいに純粋に。


キーランの言葉が頭をよぎる。


『どれだけ着飾っても、好きな人にアピールできなきゃ意味ないんじゃないですか?』


そうだ。無意味だ。

今までの時間も、積み重ねた想いも。全部。


視線を落とし、首からさがるペンダントに目を留めた。琥珀色の宝石が煌めいてる。


これは十歳の誕生日に母から貰ったものだ。

一目見たときから気に入って、ずっと大切に仕舞っていたのだが、今日は思い切って付けてきたのだ。エイベルに少しでも綺麗だと思って欲しくて。

そんな浮かれた自分が酷く滑稽に思えた。


(なんて惨めなの)


はぁと息を吐いたとき、近くで物音がした。


「これはこれは、ミルネール嬢ではないですか?」

「……え」

「こんなところで会うとは奇遇ですね。今日もお美しくいらっしゃる……」


そこにいたのは見知らぬ男だった。


「えっと、その……」

「おや、覚えていませんか? 以前お話させていただいたのですが。……これも何かの縁だ。よかったらこれから一緒に……」

「すみません。今、急いでるので」

「そうは見えませんが」


男はなかなか引き下がりそうにない。今にも泣き出しそうな顔を見られたくなくて、アルマは顔を背けた。


「本当に、困ります……」

「そう言わずに」


男がアルマの腕を掴む。ぎょっとして顔を引き攣らせたとき、突然男が呻き声をあげた。


「痛……ッ!」

「その手を離しなよ」


聞き馴染みのある声に、条件反射のように胸が高鳴る。

顔を上げると目に飛び込んできたのは真っ白な髪。そこに立っていたのはエイベル・レリュード、その人だった。


エイベルが問答無用で男の腕を捻り上げると、男は苦悶の表情を浮かべた。

自然とアルマの腕も解放され、アルマは数歩後ずさった。


「嫌がる女性に迫るのは感心しないな」

「や、やめ……!」


エイベルが手を離すと、男はたちまちどこかへ逃げ去っていく。エイベルは呆れたような顔でその後ろ姿を見送っていた。

やがて、その場には二人だけが残された。


風が梢を鳴らす。

長い金髪が風に攫われて揺れる。

強い視線を感じるが、エイベルと目を合わせることができず、俯いてしまう。

先に口を開いたのはエイベルの方だった。


「あいつに何かされたの?」

「別に」

「嘘。泣いてるでしょ」

「泣いてない」


そう答えるのに、涙声だ。嘘を言っているのはバレバレだ。それでも意地になって、アルマは絶対に目を合わせなかった。


「こっち向いて」

「……」

「アルマ」

「……嫌」


……見たくない。

顔を見たら、きっと感情の赴くままに全てをぶつけたくなるから。


――エイベルは本当にあの人が好きなの?

――私のことは一ミリも気にならないの?


そう聞いてしまいたいのに、現実には唇を開くことすらできなかった。

いつまでも黙っていると、呆れたような溜め息が落ちた。


「言いたいことがあるならはっきり言ってくれ。言葉にしなきゃ何もわからないよ」

「……本当に、わからない?」


アルマはじっとエイベルを見つめた。思いを全てを曝け出すような熱い眼差しで。

流石のエイベルもいつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、初めて戸惑うような素振りを見せた。


「アルマ……?」


アルマは一歩近付くと、そっとエイベルの腕に触れた。エイベルが動揺したように身じろぎする。


「エイベル。私――」


そのとき、エイベルのポケットからぽろりと何かが地面に落ちた。アルマは不思議に思ってそれを拾い上げた。


「エイベル。何か落としたわ」


アルマが拾い上げたそれはハンカチだった。そこに施された刺繍は繊細な赤い百合の花。

これは何かと考える間にエイベルにハンカチを取り上げられる。


「何ソレ」

「いや、別に」

「……怪しい」

「えっと、その……。くしゃみをしてたら気を遣って渡されただけだよ」


(何その言い訳?)


エイベルは気まずそうな顔をしている。

確か、ヴィアリー公爵家の家紋も百合だったはず。そして、レイラの髪色はワインレッド。

そこに思い至り、アルマははっと息を呑む。


(まさか、レイラ嬢からの贈り物……?)


胸が突き刺すような痛みに襲われる。


(私のハンカチは受け取ってくれなかった癖に、彼女のハンカチは受け取るのね)


「そんなことより。あのさ、この後……」


エイベルがアルマの肩に触れる。アルマは衝動的にそれを振り払った。


「触らないで」

「アルマ……?」

「軽々しく名前を呼ばないで!」


そう叫ぶとエイベルは一瞬困惑の色を浮かべたが、やがてムッとしたような表情に変わっていった。


「何で今日はそんなにトゲトゲしいの。俺が何かした?」

「知らない。もうどこかに行ってよ」


アルマはふいと顔を背けた。きつい態度を取っていても、本当は今にも泣き出しそうだった。


(こんなはずじゃなかったのに……)


このままではもっと酷いことを言ってしまいそうだ。そんな自分が嫌で、どんどん惨めな気分になってくる。

アルマはエイベルに背を向け、逃げるように歩き出した。


「どこにいくの、アルマ」


エイベルが後を着いてくる気配がする。

アルマはそれに構わず早足で歩き続けた。

噴水の傍を通り過ぎ、巨大な天使の彫刻の前に差しかかる。


「アルマ。話を……」


そのとき、急に地響きのような音が響いた。かと思えば、周囲が激しく揺れ始める。


(地震……?)


酷い揺れに、立っているのも難しくなる。

そのとき天使の彫刻が傾き、ぐらり、とこちらに向かって倒れてくるのが目に入った。


「えっ……」

「アルマ!!」


怒号とともに、身体を突き飛ばされる。次の瞬間、アルマは地面に倒れていた。


「あれ? 今……」


やがて地響きも収まる。アルマが起き上がったとき、背後で呻き声が聞こえた。

振り返り――戦慄する。


「エイベル!!」


大きく翼を広げた天使は、うつ伏せになったエイベルの身体を押し潰していた。エイベルは身動きも取れず、苦痛で顔を歪ませている。


「エイベル! エイベル……!」

「アルマ……平気か?」


エイベルは力ない声でそう尋ねる。その瞬間、涙が溢れ出した。


「人の心配してる場合じゃないでしょ! エイベル、身体が……!」

「うん、ちょっと、動けないかも」


アルマは慌てて彫刻を引き上げようとした。しかし、かなりの重量でアルマの力ではびくともしない。焦りと苛立ち、不甲斐なさでまた涙が溢れた。


「……アルマ。泣くなよ」

「泣いてない!」

「泣いてるじゃん……」


エイベルの声は弱々しい。本当は声を出すのも辛いのだろう、額に脂汗が滲んでいく。

エイベルは譫言のように呟いた。


「ああ……ポケットに大事なものが入ってたんだけど、壊れてないかな……」

「ハンカチのこと!? 今はそんなのどうだっていいでしょ!」

「いや、ハンカチじゃなくて……うっ!」


無理に身体を動かそうとしたエイベルは激痛でまた呻き声を上げる。それでも必死に身を捩り、上半身だけ抜け出すことができた。

アルマがエイベルの腕を引っぱると、ようやく完全に彫刻の下から這い出ることができた。


しかし足を怪我したのか、エイベルはうまく立っていられないようだ。

アルマはエイベルに肩を貸し、二人はよろよろと屋敷へ向かって歩き出した。


「……情けないな。こんなつもりじゃなかったのに……」

「本当にどうしてくれるのよ。大きすぎる借りができちゃったじゃない」


ぶっきらぼうな言い方をするのは、どうにか不安を掻き消したいからだ。それに気付いて、エイベルも敢えて軽口を叩いた。


「じゃあ、どうやってこの借りを返して貰おうかな。アルマ、何してくれるの?」

「そんなの……何でもするわよ。一個だけならエイベルのお願いを何でも聞いてあげる」

「何でも?」

「ええ」

「今の言葉、取り消しはなしだからね」

「しつこいわね。二言はないわ」


そう答えると、すぐ傍で小さな笑い声が聞こえた。そして、エイベルはしみじみと呟く。


「そっか。……じゃあ、怪我してよかったな」

「もう。何馬鹿なこと言ってるの」


会話をするうちにようやく噴水の前まで戻ってきた。しかしエイベルは突然ぴたりと立ち止まり、真っ青な顔でその場に蹲った。


「ごめん……。これ以上は歩けないかも」

「わかった。お医者様を呼んでくるから、エイベルはここで待ってて!」


アルマは噴水の縁を背もたれにしてエイベルを座らせた。「すぐ戻るから」と言い残し、一人で屋敷へと入っていく。


等間隔に備え付けられた窓越しに、アルマが大急ぎで廊下を進んでいくのが見える。

エイベルは激痛に耐えながら、その姿を目で追っていた。


……そのときだった。


何の前触れもなく凄まじい爆発音が轟き、窓ガラスが一斉に砕け散る。

そこから吹き出した炎は凄まじい光と熱気を放ちながら視界全体に広がっていく。


「……な、」


爆風とともに火の粉やガラス片が降り注ぎ、エイベルは反射的に目を瞑る。

再び目を開いたとき、屋敷は炎に包まれ、立ち上る黒煙は暗い空と混じり合っていた。


先ほどまでアルマが立っていた場所には炎が燃え盛っている。アルマの姿はどこにも見当たらない。


エイベルはよろよろと立ち上がった。

足はまともに動かない。立っているだけで痛みでどうにかなりそうだ。それでも懸命に屋敷へと一歩一歩近付いていく。


「危ないので近寄らないでください!」


駆け付けた騎士がエイベルを引き留める。


「離せ……」

「いけません、それ以上は!」

「邪魔すんなって言ってるだろ!!」


怒号を飛ばしても、怪我を負った身体では振り払うことすら叶わない。

そのうちに二度目の爆発が起こり、騎士共々軽く吹き飛ばされる。エイベルの身体は物のように地面を転がった。


……一瞬、意識が飛んだ。

ガラス片で切ったのか、つぅ、と額を血液が流れていく。

指先に力が入らない。

エイベルにはもう、起き上がることすらできなかった。


「……ああ……」


苛立ちと焦燥は次第に絶望に塗り変わっていく。

燃え盛る炎に灼かれて黒煙を吐き出す屋敷を食い入るように見つめたまま、エイベルは声を振り絞ってその名を呼んだ。


「アルマーーーーーッ!!」

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