第2話 逃走
店に着くと柚希がこっちこっちと大手を振って私たちを迎えてくれた。やってくれたなと言うと、なんのこと?というふうに恍ける柚希を見て、ゆまと会わせてくれた差し引きで少しだけムカついておく。
「「「乾杯!」」」
ゆまが元気一杯に、柚希が噛み締めるように、私が粛々とそれぞれの思いを込めて乾杯をする。
私たちは不自然なほど会えなかった期間の話をしなかった。まるで昨日もその前も一緒に過ごしているかのように話をした。
酒が入ってきた柚希が不意に言う。
「それよりもさ、ゆま!結婚おめでとう!」
それは私にとって青天の霹靂だった。誰の話か分からなかった。ありがとうなんて照れて言うゆまが私の知っているゆまではなかった。確かに五年間も離れていれば自然消滅だと思うだろう。だけど私はゆまを探し続けていた。ずっと求めていた。私の…私だけの……。
「ごめん。用事を思い出したから帰るね。」
恐らく声は震えていた。歪んだ作り笑いを浮かべて早急に店から出る。
柚希は私とゆまが付き合っていたことを知らない。だからゆまを探し続ける私を見て何度か口論になったりもした。この一年間会っていなかったのもそれが原因だ。知らない男に媚を売ってまで、吐きそうな思いで金を稼いできた。その全てを捜索に当てた。ただの自己満足だった?いつからかゆまを見つけたいのか、それともゆまを探していた名目が欲しいだけなのか分からなくなった。なぜ、ゆまも同じ気持ちでいると思っていたんだろう。苦しく生きてきた23年間で考えないようにしていた思考が寄生虫のように頭を蝕んでいく。早く死にたい。
逃げて逃げて逃げて、一体どこに向かうのだろう。家族から逃げた。親友からも逃げた。そしてゆまからも逃げ出した。家にも帰りたくなかった。重い現実を突きつけられるから。昔から死にたいと願っていたのに、いざ現実に可能性が見えると尻込みする。それもそうだ。なぜなら私は本当に死にたかったわけじゃない。ただ幸せになりたいだけだった。ゆまを幸せにしてあげたいだけだった。
歩き続けて公園に辿り着く。ゆまと仲良くなったのは高校生の頃だった。クラスメイトだったが私は悪い意味で、彼女は良い意味でクラスで浮いていた。中学のときにある出来事がきっかけで虐められたのに加え、家でも腫れ物扱いを受け、人間が嫌いになりかけていた。高校は地元からは離れたところに進学したが、それでも噂は廻るのかクラスメイトからは距離を置かれていた。そしてゆまは東京からの転校生で田舎で育った私たちとは異なる生物に見えた。授業をサボタージュすることでさえ一目置かれるような存在だった。
環境に疲れ果てて、全てを終わらせようと初めて学校をサボタージュした。今まで貰った5000円ぽっちのお小遣いを握りしめて、行ったこともない海を見に行こうと思った。
先週の朝、下駄箱に数えきれない蟲が入れられていた。今週の放課後、トイレに入っていたら上から水が降ってきた。昨日の夜、兄の憂さ晴らしに腹を蹴られて気絶した。今日の朝、浴槽に顔面を叩きつけられて起こされた。スマホと財布だけを持って、寝巻きのような格好で家を飛び出した。
人にぶつかって転んだ。
「ご、ごめんなさい」
相手の荷物が散乱してどうにか拾い集める。私があわあわしていると上から声が降ってきた。
「東雲さん?」
クラスメイトの長篠ゆのさんだった。
「どうして…」
平日の昼間から街中に、と続けようとしたところで私も同様であったことに気づく。
「それはこっちのセリフ。私はよくさぼってるけど、東雲さんがさぼってるのなんて初めて見た。」
「…ごめんなさい。」
「…別に謝ってほしいわけじゃないんだけどさ。それよりもその格好どうしたの?家出でもした?」
「……」
「黙ってちゃ何も分かんないんだけど…まぁいいか。ついてきて」
そう言ってツカツカと歩き出す。私がその場でおろおろしていると、視線で、早くと催促をする。
到着した場所はアパートの一室だった。彼女は何も言わずに部屋に入っていくので私も一歩後ろをついて行く。
「とりあえずこれ着といて」
彼女はタンスとクローゼットから服を取り出し私に差し出した。東京の威圧感に圧倒され、そそくさと着替える。
「その服上げるから。」
有無を言わさぬ調子で告げる。
「代わりと言ってはなんだけど、私とデートしてくれない?」
彼女は笑っていた。初めて見た笑顔だったけど何よりも美しく見えた。
「それでさ、どこに行きたい?」
「海に行きたいです…」
「わかった。それよりも敬語やめない?私も陽菜って呼ぶからゆまって呼んで!」
「ゆま?」
「Yes!」
今度は豪快に笑った。気づけば私も笑っていた。
それから私たちは少しお高めの服屋を冷やかして、ちょっとオシャレなお店で昼ごはんを食べて、電車に乗って海に向かって、砂浜で転んで、私たちはたくさん楽しい話をして、たくさん笑った。人生で笑った回数をその日で大きく更新し、今日笑った回数だけで今までの回数を上回るほど笑った。死ぬには良い日だった。
海が見える公園のベンチに私たちは座っていた。
「私ね、ほんとは死ぬつもりだったの。厳格な父に追従しかしない母、それにとても優秀な兄、私だけが家族じゃないみたいだった。父に認めてもらうために努力もしていた。でも結果は兄と比較されるだけでなんにも変わらなかった。中学のときにね、私が女の子と付き合ってるのがバレたの。それでお父さんが凄く怒って、その子とは別れさせられて家族内でますます腫物みたいな扱いになったんだ。私は普通に生きていただけなのにね。だから私はずっと、私を好きになれなかった。生きたいとも思えなかった。そして今日全部終わらせようと思った。」
これまでの半生を感情を含まぬ声色で話す。
「だけどね、ゆまと遊んで、こんなにはないってくらい楽しくて、今日だけでゆまと過ごす時間が惜しくなっちゃったんだ…だからね、もう少しだけ頑張ってみたい。明日からも私のそばにいてくれる…?」
恐怖と期待が入り交じった想いをゆまに伝える。全部を言い切ってから殆どプロポーズでは?と思い顔が赤くなるのを感じる。
「ふふっ…あはは」
返事を待っていると急にゆまが笑い出す。あんなに笑ってたのにまだ笑うんだ。
「陽菜にだけ話させて私の話をしないのはフェアじゃないよね。私も女の子が好き。それで虐められて、この町に引っ越してきた。今日陽菜と一緒にいて、誰と過ごす時間よりも楽しかった。手が早いって思われるかもしれないけど陽菜のことが好き。私と付き合ってください。」
事実だけを挙げると、この日私たちは付き合い始め、この半年後にゆまは私の前から姿を消した。そして5年の月日が流れ、人妻となって私の前に帰ってきた。それだけだ。
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