第71話 殴られる人と殴られない人

 「高橋君」


 「はい。なんでしょう、やっさん」


 「朝だね」


 「朝ですね......」


 天気は晴れ。清々しいまでの晴れ。朝から蒸し暑くて起きると、見知らぬ天井......いや、テントの中であった。


 テントの中であった(二回目)。


 そう、俺はやっさんと一つ屋根テントの下で一晩を過ごしたのだ。


 中年と......。


 「ぅおぇぇぇぇええええ!!」


 「え、ちょ、なに?! 急にゲロ吐いてどうしたの?!」


 「ちゅ、中年と一緒の空間で寝てたことがあり得なさすぎて吐きました......」


 「泣くよ?」


 雇い主は額に手を当てて嘆く。


 「吐いている場合じゃないよ。状況わかってる? 朝になっちゃったよ......」


 俺らは昨晩、一緒にキャンプをした。中村家女性陣に浮気疑惑をかけられている雇い主と、だ。すぐに帰って皆に誤解だと伝えないとけなかったのにな。


 キャンプするつもりは無かったんだけど、つい雇い主の口車に乗せられて、キャンプを楽しんでしまった。


 昨日、無理にでも雇い主を家に連れて帰るべきであった。


 俺まで殺されちゃうよ......。


 「と、とりあえず家に戻りましょう。もしかしたらそこまで怒ってないかもしれませんし」


 「そ、そうだね。誠心誠意謝れば許してくれるよね」


 ということで、俺らはテントなど諸々のキャンプグッズを片付けて軽トラに乗り込んだ。もちろん運転席は雇い主、助手席は俺。


 それから無事、中村家に帰還した俺らを乗せた軽トラは、バッグしながら中村家の中庭に入る。


 バックしている途中で、雇い主がルームミラーを見て悲鳴を上げた。


 「ぎぃやぁぁぁああああ!!」


 「?! な、なんですか急に絶叫して」


 「ま、ま、まままま」


 「“ま”?」


 「真由美がッ!」


 な?!


 俺は慌てて空いている車窓から頭を出して、後方を見やる。


 「ぎぃやぁぁぁああああああ!!」


 「ちょ?! 高橋君までどうしたの?!」


 「ひ、ひ、ひひひ!」


 「“ひ”? もしかして陽菜?!」


 「陽菜と千沙と葵さんがッ!!」


 「そうだった! 君は俺より相手が三倍いるんだった!」


 そうだよ! 俺は三人同時に相手してんだよ!!


 俺と雇い主が全く同じやり取りしていると、バック走行している途中で止まった軽トラに対し、真由美さんたちが「オーライ、オーライ」と手を振っている。


 彼女らの手には包丁や鋏がある。刃が陽の光を浴びて輝き、道路工事なんかでよく見かける誘導棒のようであった。


 実際には何も言ってないで素振りだけだが、あの目は完全に殺人鬼のそれである。俺は急いで車窓を上げて悪夢を遮断した。


 雇い主が大人しく指示に従い、ゆっくりとバック走行する。


 軽トラは指定の駐車場に駐めることなく、中庭の中央で止まった。


 運転席の方へ真由美さんがやってくる。


 助手席の方へ陽菜がやってくる。


 「「......。」」


 俺らはエンジンを切った後、ただただ沈黙して時が過ぎるのを待った。


 が、次の瞬間。軽トラの両側のドアが叩かれた。


 一発目、ダンッ。


 少し間を置いてて二発目、ダンッ。


 そして三度目、ダンッ。


 俺らは生きた心地がしなかった。揃って絶望するしかなかった。


 「「......。」」


 そして母娘が息ぴったりに口を開く。


 ――下りて――。


 外に居る二人の声は聞きとりづらかったけど、口の動きで何を言っているのか理解できた。


 俺らは観念して車から下りる。


 外に出た俺らは、真由美さんと陽菜にそれぞれ背を押されて、車の前に立たされた。そんな俺らの前には真由美さんと陽菜が立っている。葵さんと千沙は半歩後ろに居た。


 陽菜が言う。


 「なに立ってんの?」


 「「......。」」


 俺と雇い主はその場に正座した。


 中庭の硬い地面がやけに冷たく感じてしまうのはなぜだろうか。


 真由美さんが包丁を片手に、まるでナイフでも扱うように宙に投げてはそれをキャッチする。陽菜も鋏の両の刃をチョキン、チョキンと開いたり閉じたりしている。


 二人はしばらく無言だった。


 ど、どうしよう。冷や汗が止まらないんだけど。


 いや、ここは俺から何か言うべきだな!


 「あ、あの!」


 「和馬」


 「あ、はい」


 「パパと昨晩、何をしていたのか聞かせてくれない?」


 「え、えっと、怒らない?」


 ガッ。


 刹那、俺が正座している足と足の間に、陽菜が持っていた鋏が突き刺さる。


 陽菜が下から俺の顔を覗き込んでくる。ニコニコと目が笑ってない笑みを浮かべて。


 すると意外にも、ここで真由美さんが口を開いた。


 「駄目よぉ、陽菜。泣き虫さんはこの男に唆されただけなんだから。ねぇ、あなた。自分の口から説明しなさいな」


 「真由美、まずはその包丁を下ろしてくれ。刃先でツンツンしないで」


 「おほほ」


 ああ、まだ流血してないが、その一歩手前のところまで来ちゃってる。


 俺は少し離れたところに居る千沙と葵さんを見やった。彼女たちは目の下にクマが出来ていた。昨晩は眠れなかったのだろう。誰のせいだろうね。


 そんな二人は俺らを助けてくれそうにない。自分たちの父親と彼氏が処刑されるところを、まるで風景でも眺めているかのような目で見ているのだ。


 雇い主が口を開く。


 「......ないぞ」


 「は?」


 が、彼の声は小さくてあまり聞き取れなかった。対する真由美さんが冷めた視線で雇い主を見ている。


 だが雇い主が次に口を開いたときは、さっきよりも大きな声を出していた。


 「俺は謝らないぞ!!」


 たしかな怒りをあらわにして。


 「たしかに皆に黙って悪いことをしたと思っている! でもこんなのあんまりじゃないか! 中庭で正座させて、刃物突きつけて、鬼か!!」


 いつになく真剣な顔に、真由美さんの視線は一際冷たいものへと変わる。


 雇い主、相手はまだあんたを浮気した男と見てるよ。だってキャンプしてたなんてまだ言ってないもん、俺ら。


 だから真由美さんからしたら、浮気した男が逆ギレしてるようにしか見えないだろう。


 それでも雇い主の反撃は止まらない。


 「高橋君! アレ持ってきて!」


 「え゛」


 急に呼ばれた俺は、思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。


 アレって......アレかな。キャンプセットを片付けている間に作ったアレかな。


 アレかなぁ?


 「高橋君ッ、早く!」


 「......。」


 アレかぁ......。


 俺は静かに立ち上がった。


 陽菜は俺の行動を止めなかった。俺は軽トラに向かい、その荷台から保温バッグを取り出した。俺はそれを持って定位置......再び雇い主の隣、つまりは陽菜の真ん前に正座をし直す。


 そして持ってきた保温バッグを彼女たちに差し出す。


 陽菜が目をぱちくりとさせて俺に問う。


 「何これ」


 「......昨晩、俺らが何をやっていたのか。その答えが中に入っている」


 こいつ何言ってんだって目で女性陣が見つめてくる。


 陽菜は保温バックを開けて中身を見た。


 そこに入っていたのは――鍋焼きうどんだ。


 「「「「??????????」」」」


 女性陣がまるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔つきになる。


 そりゃあそうだ。俺だって逆の立場だったら同じ反応するよ。


 ちなみに保温バッグに入っていた鍋焼きうどんはまだ温かかった。走行している車の荷台に置いていたせいで半分溢れていた。あと麺が伸び切ってる。


 こんな食べ物を無駄にした見た目になっちゃったけど、大丈夫、俺が後で責任を持って食べるから。


 が、そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは一つだけだ。


 なんで浮気を疑われている男が鍋焼きうどんを差し出すの。


 しかもこんな車の揺れでぐちゃぐちゃになって、伸び切ったうどんを。


 俺はこの鍋焼きうどんを作るまで雇い主とした会話を思い出す。


 『高橋君、このまま手ぶらで帰ったらヤバくない?』


 『朝帰りの時点でヤバいですよ』


 『なんかこう......浮気じゃなくてキャンプしてたよっていう証拠無いかな?』


 『えぇ......テントの写真でも撮ります?』


 『もう片付けちゃったよ』


 『う、うーん』


 『あ、そうだ、鍋焼きうどんなんてどうかな? 簡単に火を起こせるし』


 『さすがにそれはちょっと......』


 『大丈夫、大丈夫。鍋焼きうどんは最強だから』


 彼はなぜ鍋焼きうどんに全幅の信頼を寄せているのだろう。


 ぐちゃぐちゃになって伸び切った鍋焼きうどんを見せつけられた女性陣が戸惑っている所で、俺らは事情を全て話すことにした。


 俺らの話を聞かされた女性陣は開いた口が塞がらないといった様子であったが、次第に泣き始め、自分たちが誤解していたことにようやく気づく。


 それ故に、


 「あなた!」


 「真由美!」


 抱き合う中村夫妻。


 それ故に、


 「こんのバカちんがぁ!!」


 「へぶしゃ!!」


 「兄さんのバカッ」


 「あぐ?!」


 「カズ君、歯を食いしばって!!」


 「えばらッ」


 彼女に殴られる三股彼氏。


 なんで俺だけ殴られるんだろうね。


 雇い主は浮気なんてしてないし、なんなら真由美さん一筋ということを恥ずかし気もなく中庭で熱弁したことで、この件は無事に終わりを迎えるのであった。


 そして朝帰りした俺は本日が土曜日のため、このまま中村家でアルバイトすることになる。


 雇い主は真由美さんと仕事もせずに昼過ぎまでイチャついていたが、俺らは文句も言わずに、ただただそれを見守るのであった。

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