しずかと一緒に過ごすのが当たり前になってきた頃だった。朝、講義室に向かう途中、気になる会話が耳に入ってきた。


「最近、羽田とかいうヤツ邪魔すぎるんだよなぁ……」


 確か嶋田しまだ……見た目と名前は知っているが、あまり話したことのない男子から自分の名前が出てきてドキッとする。嶋田しまだの隣には矢内やうち、こちらも見た目と名前は一致する。

 私は気にしなければ良いのに、物陰に身を潜めて二人の会話に耳を澄ませた。


「羽田、邪魔じゃね?」


 嶋田しまだの言葉に苛つく心を必死に宥めて、会話の続きを聞く。


「羽田さんも普通に可愛くない?」

「じゃあお前そっち行けよ。俺がヤりたいのは中根なかねの方なんだわ」

「つか、真柴ましばの話って本当なの? 中根なかねさん、軽い子には見えないんだけど……」

「飲み会の帰りに向こうの部屋でヤったって話だろ。泣きながらヨガってきたらしい。あの見た目でエロいとか最高過ぎるだろ」


 私は昔から勘が良かった。きっと、長女として身につけた察する能力だと思う。


「泣いてたってそれ嫌がってたんじゃーー」


 矢内やうちの言葉が決定打だった。しずかは今まで、男の話になると露骨に嫌がった。きっと何かあったのだと思ってはいた。その何かを、最低な何かを、今、知ってしまった。


しずかが誰とも仲良くしようとしなかったの、アンタたちのせいだったんだな!」

「うわっ。んだよ急に大声出して」


 私は自分より少し背の高い嶋田しまだの肩を、怒りに任せて突き飛ばしていた。瞬時に状況を察した矢内やうちが、慌てて嶋田しまだの前に立ちはだかる。


「羽田さん、落ち着いて」

「アンタ、よくも!」


 いつもきょうだいに暴力はダメだと言っておきながら、止められなかった。振り上げた手は矢内やうちの頬を打って、じんじんと痛んだ。


「……ごめん」

「何で私に謝るワケ!? アンタ達が傷付けたのはしずかでしょ!!」

美月みつきちゃん、やめてっ!」


 二度目に振り上げた手は、しずかの声で止まった。彼女は小さなパンプスでパタパタと廊下を駆けてくると、私の服の袖をギュッと掴んだ。


しずか……コイツらがしずかのこと――」

「もう、この話はしないで……忘れたいの!」


 声を荒らげるしずかを見るのは、初めてだった。彼女は今にも泣き出しそうに、涙を溜めている。その瞳が大きくなければ、とっくに零れ落ちてしまっていただろう。

 それを見て気が付いた。私は、彼女の傷口に塩を塗ってしまったのだと。


「ごめん……」

「ううん。講義室、行こう」


 私に背を向けて、先を歩く肩が震えていた。しずかが泣いている――。

 講義室へ急ごうとするしずかの肩を掴み、何と声を掛けようか思案する。きっと、何か良い言葉があるはずだ。

 その時、お腹がぐるるると鳴った。


「待ってしずか……私、今日、朝ご飯食べてない」

「…………」

「一人で食べるの寂しいから、しずかも付いてきてよ……お願い」

「……わかった」


 振り向く前に目を拭ったしずかは、振り向いた時にはもう笑顔だった。それは、私には 痛ましく見えた。


「あの、中根なかねさん……真柴ましばがごめん」


 矢内やうちの言葉に肩をビクッと震わせたしずかは、彼をそっと一瞥して、何も言わずにカフェの方へ歩きだした。私はその後を、矢内やうち嶋田しまだを睨み付けてから追った。




 カフェは一限目に講義を入れていない学生で、それなりの人がいる。私は並んで座れる席が空いていることを確認して、メニューを見た。

 朝ごはんを食べていないと言ったが、夏直前でダイエット中なのであまり食べたいとは思わない。ただ、いざ目の前にすると誘惑には勝てないのである。


しずかは何にする? 私、どっちにしようか迷うなぁ」

「何と何で迷ってる?」

「コーヒー・グラニータとシナモン・ラッシー」

「甘いのが良いの? じゃあ私シナモンにするから、半分こしよう?」


 二人横並びで席に座ることにはもう慣れた。四人組のグループにいた頃は、こういう座り方ができなくて席取りが微妙に面倒臭かった。

 しずかは私の隣で、同じスプーンを使ってグラニータを食べた。そういうのが気になるのは私だけのようで、私がラッシー用のストローをもう一本貰ってくると、しずかは申し訳なさそうにスプーンと私を見比べた。


「良いよ、私も気にしないから。でもストローはリップついちゃうし」

「そっか。もし嫌なら次から教えてね」

「うん」


 気になっただけで、嫌ではなかった。同じスプーンを使うと、なんだか急にしずかが艶めかしく見えた。彼女の体温が移ったスプーンに鼓動が早くなる。

 そんな私の緊張とは裏腹に、しずかはすっかり落ち着いていた。

 私達はただ二人で黙々と、朝ごはん代わりの甘味を食したのだった。


「あのさしずか、夏休み、家に遊びに来ない? 私の実家。ここからだと二時間ちょい掛かっちゃうんだけど、長閑で良いところだよ。私、しずかと一緒に地元の夏祭りに行きたい!」

「夏祭り?」

「そう。そういうの行く?」

「あんまり行ったことない……」


 想像していた通りだった。話を聞く限り、しずかは箱入り娘な所がある。あまり外で友人と遊ぶ経験なんて無かったのだろう。


「じゃあ、お泊まりね」

「迷惑じゃない?」

「大丈夫。でも、妹と弟がいるからうるさいかも。弟は大人しくてめちゃくちゃ可愛いんだけどね」


 私はスマートフォンで、弟の北斗の写真を見せる。この写真は私が一人暮らしを始める前に、家族で撮ったものだ。


「弟君、可愛い」

しずかも弟いるんだっけ?」

「うん。あんまり写真はないんだけど……」


 そう言ってしずかも弟の写真をアプリから探す。チラリと盗み見た写真フォルダは、殆ど家に飾っている花の写真でらしいなと思った。


「これ、家族写真。弟、お父さん、お母さん」

「弟、イケメン過ぎじゃない? 流石、しずかの弟だわ」

「えへへ……私のことじゃないのに、照れちゃうね。弟には美月みつきちゃんのこと話してるよ」

「えっ、何て?」

「大学でお友達できたよって。今更? って言われちゃったけど」


 そう言って控え目に笑うしずかを見て、何故だか胸がきゅっとなった。

 ――いや、本当はわかっている。私は、いつの間にかしずかにドキドキするようになっていた。こんなんじゃまるで……。

 しずかは男嫌いだから、言わないだけで女の方が良かったりするのだろうか? 私のことはどう思っている? 女の子と付き合ったことはないけれどしずかなら――そう思った所で、自分の心に気が付いてしまった。

 ――私、いつのまにかしずかを好きになっていた。

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