何もないだけなのに

増田朋美

何もないだけなのに

その日もなんだか特に暑い日で、何処かの外国と同じ様な気候になってしまったのではないかと、主張する偉い人たちもいた。そんな事は一般市民に届くことはなく、普通にと言うか、当たり前のように冷房器具を使って、生活をしているのであった。

その日、蘭は刺青の仕事は特になかったので、今日は一日休みかなと思って、のんびりとお茶でも飲むかと考えていたところ、

「すみません!奥様はいらっしゃいませんでしょうか?」

と、いきなり玄関のインターフォンがなった。なんだかものすごく逼迫したような、そんな言い方であった。

「どうしたんですか?アリスは今でかけてますけど、すぐ戻るはずです。暑いですから、中で待っていてくれていいですよ。」

蘭がそう言うと、すみませと言って、女性は玄関のドアを開けて、部屋の中に入ってきた。来たときは気が付かなかったけど、赤ちゃんを右腕に抱いていた。まだ生まれて少ししか経っていないような赤ちゃんだった。

「えーと、お名前はなんですか?」

蘭が聞くと、

「すみません。名前も名乗らなくて申し訳ないです。私、青野と言います。青野まさ江です。抱いているのは息子の青野雅之です。」

と、彼女、青野まさ江さんは答えた。

「それで、うちの妻になにか相談でもあるんですか?」

蘭が聞くと、

「はい。実は、どうしても出ないんです。」

と、まさ江さんは答える。

「出ないって何が?」

蘭はそう言うが、すぐに赤ちゃんを抱いているので、出ないものの正体がわかってしまった。これは確かに、女性には一大問題かもしれない。

「そうですか。おつらいですね。病院でマッサージをしてもらうとか、民間療法をしてもらってもだめだったのですか?」

「はい。いずれもだめでした。初乳さえもあげられなくて、看護師さんにも叱られました。ですが、一度も出た試しがありません。産んだときは母子ともに健康だって言われたのに、母乳が出ないせいでこの子が体力がなくなってしまっているとお医者さんから指摘されました。」

彼女はとても悲しそうに言った。

「そうですか。それでは、赤ちゃんは、今はミルクで?」

「はい。だけど、母乳をあげられないので、母親失格だと思っています。」

そういう彼女を蘭は、ちょっと断定的に考えすぎているのではないかと思った。それを言うのはちょっとかわいそうではないかと思った。そんな事を言っても、母親失格だという意識は取れないのではないかと思った。

「しかし青野さん。母乳で育てられなくても、健康な子供さんを育てているお母さんはいっぱい居ますよ。だから、そんなに気を落とさなくて大丈夫ですよ。」

とりあえずそれだけ言っておく。

「だけど、子供が、丈夫に育たないとか、病弱になってしまうとか、言いますよね。実際、母乳を飲ませられなかったことで、赤ちゃんを死なせてしまった母親の記事も見たことがあります。だから、私もその二代目になってしまうのではないかと心配なんです。」

そう言って、青野さんは、スマートフォンを見せた。確かに、青野さんのスマートフォンには、子供が母乳不足で死亡したという記事が掲載されているが、日本語で書かれたものであるけれど、実際には、日本で起きたものではなく、バングラデシュとか、パキスタンなどの、発展途上国で起きた事件のようであった。こんなに平和な日本で、母乳不足で子供が死亡してしまうという事件はまずないと思われるので、青野まさ江さんは、ちょっとうつの状態なのかなと蘭は思った。

「大丈夫ですよ。本当に、それは大変なことじゃないので、気にしないでミルクで赤ちゃん育ててください。確かに、細かいことが気になってしまうかもしれないけど、それは気にしないで大丈夫です。現に、ミルクで育てたからと言って、健康に育った方はたくさんおられます。」

「何が大丈夫だって?」

不意に杉ちゃんの声がした。蘭はどうしてこんな時に杉ちゃんが来るんだろうと思ったが、杉ちゃんという人はどんどん車椅子を動かして、部屋に入ってしまうのである。

「いやあねえ。この人が、うちのアリスになんだか相談したいことがあるみたいだけどね。赤ちゃんを、産んだばかりで、産後鬱になっているのかもしれないんだ。」

と蘭は急いで言った。

「はあ、産後鬱ねえ。赤ちゃん産んだあとでそうなるなんて、そんな暇はないと思うんだけどねえ。それで、なんでお前さんのところに相談に来たんだよ。」

杉ちゃんという人は、なんでも口に出して言ってもらわないと納得しないで何度も質問してしまうくせがあった。それがいいのか悪いのかわからないけど、そうなってしまうのである。

「ええ。どうしてもお乳が出ないんですよ。初乳さえもあげられなかった。」

と、青野まさ江さんは言った。

「初乳をあげられない?ということはつまり、初乳が出そうになる前に産んでしまったということだな?」

杉ちゃんが言うと、青野まさ江さんは小さく頷いた。

「私が悪いんです。出産は危険だから、安静にしているべきだと言われたのに、それをしなかったから。妊娠中毒症って怖いって、言われたこともあったけど、そんな事何も気にしないで仕事をしてしまったんです。子癇発作を起こして、それでやっと、危ないんだなと思ったんですけど、もう赤ちゃんは出したほうがいいって言われて。」

どうやら青野まさ江さんはそれを言いたかったらしい。男である杉ちゃんや蘭に向かってそういうのだから、相当つらい思いをしているのだろう。

「子癇発作を起こしたなら、相当危ないよ。あれ、脳出血とか、そういうものを起こすことだってあるんでしょ。だったら、それを免れたんだから、良かったと考えろ。初乳をあげられないのは、まあ、それと引き換えにしただけだと思えばそれでいいの。何よりも、赤ちゃんも無事であり、お前さんも無事であったんだからそれでいいじゃないか。子癇発作で、命が助からなかった女性も居るんだからな。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうですが、私なんてことをしたんだろうと思って、、、。」

「だからあ、そういう事気にしすぎているからだめなの。気にしすぎないで赤ちゃん育てられてるんだからそれでいいと思いな。ほら、もう口を動かしているじゃないか。何か言いたがっているのかもしれないぞ。生まれたばかりの赤ちゃんでも、周りの雰囲気は、感じ取っているということはあるからな。細かいことは気にしないで、赤ちゃんの世話をしなくちゃ。それで、お前さんの体は大丈夫なのかい?子癇発作をするってことは、血圧も相当高いだろう。」

「杉ちゃん本当になんでも言うんだね。そうやって周りの人の事を気にしないで発言できるんだったら、すごいんだと思う。」

杉ちゃんの発言に蘭はそう呟いてしまった。

「気にしないんでなんて、言わなくちゃ変われないだろう。態度で示すとか、言葉でやんわりと伝えるなんてこういう女性には無理な話だよ。それで、お前さんを支えてくれる仲間は居ないの?ご主人とか、家族とか。」

「ええ。母は10年くらい前になくなってしまっていて、主人も、今は海外で仕事していますし、友達も親戚も居ません。文字通り頼れる人はいない状態です。」

青野まさ江さんは答えた。

「そういうことなら、うちのアリスがよく紹介しているお母さんのサークルに参加してみてはどうでしょう?アリスに話を聞いて後でパンフレットか何か送らせますよ。そういうところであれば、お母さんになったばかりの孤独な方が集まるはずです。どうですか。参加してみませんか?」

蘭はまさ江さんにそう言ってあげた。

「でも、私が、そういうサークルに参加してもいいのでしょうか?私は、赤ちゃんである雅之に酷いことをしてしまったんですよ。」

まさ江さんがそう言うと、

「いやあ、酷いことじゃなくてねえ。それはもう成り行きでそうなっちまったくらいに、軽く考えておけばそれでいいの。これから先、もっと大きなことが待っているかもしれないぞ。そのときどうするつもり?それを考えたら、今グズグズしている暇はないと思うけど?」

杉ちゃんは呆れた顔で言った。

「まあ、杉ちゃんの言う通りではあるのですが、今は、彼女はそういう事はできないんだよ。それなら、少しでも前向きに慣れるように僕たちも協力しよう。とりあえず、話したいことがあれば、何でも話してしまってください。頭にしまい込んで置くことが一番良くない。そして、少しでも、雅之くんと一緒に、明るく生活できるようにしてください。」

蘭はそう言うと、まさ江さんは、涙をこぼして泣き始めてしまった。きっと、誰にも相談できないで、自分で悩んでいたのだと思われた。

「まあ、赤ちゃん育てるにしても、昔は誰かがそばに付いていたんですが、今は、本を見るくらいしか、情報がないですからね。でも、赤ちゃんというものは、本に書いてあるとおりには絶対行きませんよ。子供が10人いれば、全く同じ何ていう子は誰もいません。顔も10通り、育て方も10通りです。だから、本を読んでも当てになりませんので、本を過信してはいけませんよ。」

蘭は、彼女を励ますように言った。

「ありがとうございます。やっと、ここへ来て悩んでいる事を話すことができました。」

と、まさ江さんは、涙を拭いてそういったのだった。

「そうですね。じゃあ、後でパンフレットを送りますから、あなたのラインのIDかなんか教えてくれませんか。PDFかなんかで送りますよ。そうすればすぐに印刷ができますしね。」

蘭がそう言うと、

「ごめんなさい。私、パソコンは持っていないので、郵便で送ってください。」

彼女はメモ用紙に自分の住所を書いた。その住所を読むと、元吉原に住んでいると書かれていた。ここから意外に近いんですねと蘭は言った。そういうことなら、蘭の家にわざわざ乗り込んで来ても不思議ではなかった。

「それでは、こちらの住所に、サークルのパンフレットを送ります。しばらく時間がかかるかもしれませんが、必ず届けますので、お待ち下さい。」

蘭は、住所を確認しながら、にこやかに彼女に言った。

「そういうことよりも、お前さんがもうちょっと、今は泣いているときではないと自覚をしてくれればいいんだけどねえ。」

杉ちゃんに言われて彼女は、涙をハンカチで拭いて、

「はい。わかりました。もう泣きません。泣くのはこれで最後にします。」

と言ったのだった。杉ちゃんは

「そうそう。その調子。」

と、にこやかに笑った。

それから数日経って、蘭は、予定通り、サークルのパンフレットを彼女の家に送った。そのうち、彼女はサークルに入ったのかなと、蘭は期待していたが、それ以降、青野まさ江さんという女性から、連絡は入らなかった。せめて連絡でもよこすのではないかと思われたが、それは一切入らなかったのであった。

そして、青野まさ江さんが、蘭の家を訪問して、一週間前後経った日のこと。蘭が、テレビのチャンネルを何気なくひねってみたところ、テレビはちょうど、ローカルニュースをやっている時間だった。

「それでは今入ってきたニュースです。今日未明、富士市元吉原のマンションで、女性が倒れて居るのを、マンションの管理人が発見しました。女性の自宅に残されていた封書から、名前は富士市元吉原の無職、青野まさ江さんという女性で、現在病院で手当を受けています。なお部屋には青野まさ江さんの息子さんと思われる、新生児の赤ちゃんの遺体も見つかっていて、警察は、心中を図ったと推測し、原因を調べています。」

女性のアナウンサーは、淡々とそんなニュースを伝えていた。蘭は思わず持っていたテレビのリモコンを落としてしまいそうになったが、すぐにスマートフォンをとって、

「もしもし、富士警察ですか?あの、青野まさ江さんと言う女性の知り合いなんですが、ちょっとお話をさせてもらえないでしょうか?」

と、急いで電話した。応答したのは偶然華岡であったため、

「おう、蘭か。彼女は、先程意識を取り戻したそうだ。それで俺たちは今から、彼女に話をしようと思っているんだが、彼女と話をしたことがあるんだったら、お前も来てくれ。」

と言ったのであった。華岡は、すぐに迎えをよこすと言って電話を切った。それから数分後にワゴンタイプのパトカーが蘭の家の前にやってきて、蘭を乗せて、彼女、青野まさ江さんが搬送された、救急病院に連れて行ってくれた。

「こっちだ。」

蘭が、救急病院に到着すると、華岡が待っていて、彼を案内した。まだ一般病棟ではなくて、集中治療室に居るようであるが、話はできるという。蘭が、そこへ入ると、彼女は腕に包帯を巻いて、ベッドの上にいた。なんだか、もう力の抜けきった抜け殻のようにぼんやりしていた。

「あの、青野まさ江さんですね。僕の事、わかりますよね。」

と、蘭は、まさ江さんに言うと、まさ江さんは声をあげて泣き出してしまった。

「青野さん、泣いていては困りますよ。せっかく強い味方も来てくれたんだし、それではちゃんと、事件の日に何があったか、話してくれませんかね。」

華岡が言うと、

「この間、来てくださったとき、もう泣かないと言いましたね。それは、違っていたんでしょうか?」

蘭は、そう聞いた。

「ええ。確かに、送ってくださったパンフレットも見ました。でも、残念なことに、そのサークルへのリンクができなくて、公式サイトにアクセスできませんでした。」

と、彼女は言った。

「リンクができなくてアクセスできなかった?それはどういうことでしょうか?ちゃんと話をしてください。」

蘭はそういったのであるが、まさ江さんは泣きはらすだけだった。

「だって、スマートフォンは持っていらっしゃるでしょう?それでバーコードを撮影して、リンクさせることはできなかったんですか?」

蘭はできるだけ優しくそういう事を言ったのであるが、まさ江さんは泣き続けるのだった。

「私、スマートフォンを持ってないんです。」

まさ江さんは泣き泣きそう答えるのである。

「持っていない?でも、変なアクセスを防止するために、わざとQRコードを掲載して、URLは掲載していないとアリスは言っていましたが。」

と蘭は面食らってそう聞いた。確かにその通りなのである。蘭はアリスから聞いたことがある。サークルに変な人間がアクセスしないようにするために、QRコードのみ記載してある、とアリスは言っていた。

「だけど、誰かのを借りるとか、そういう事は、」

蘭は言ったのであるが、

「そうですが、私は頼れる人もなにもないんです。主人もいないし、親戚も誰もいないんです。だから誰かのを借りようなんて、思うことはできませんでした。」

と、まさ江さんは答えた。

「サークルに参加できなくても、赤ちゃんを育てる相談窓口に行くことはできなかったんだろうか?車くらい持ってなかったの?それなら、市役所に行って、子供未来課などに相談するとか、しなかったのか?」

と、華岡が当然のように言った。

「そうかも知れませんが、私には車もないんです。それに、雅之を預かってくれるところもない。そんなままでどうして市役所に相談することができますか。それに市役所に行くための手段もないんですよ。」

そういう華岡に、まさ江さんは食って掛かるように言った。

「それなら、バスで行くとかタクシーで行くとか、そういう事はできなかったのか?」

と、華岡が言うと、

「まあできないことはないと思うけど、すごく勇気が居ることだと言うことはわかる。それに赤ちゃんを連れて乗ることは、なかなか難しいし。ましてや、スマートフォンを持てなかったなんて。それなら固定電話でも良いし、公衆電話でもいいですから、なぜ僕やアリスに知らせてくれなかったんですか。それほど、あなたは、落ち込んでいたのでしょうか?」

と蘭は言った。

「ごめんなさい。何度も電話をかけようとは思いましたけど。」

泣いているまさ江さんに、蘭は、

「でも、こないだ杉ちゃんの言う通り、あなたは泣いている暇などないと言うのも動かしがたい事実です。それなのにどうしてあの可愛い赤ちゃんを殺害してしまったんです?それでは、なにか動機があったんですか?」

と、彼女に言った。

「本当にあのときは、私もどうしようもありませんでした。だって、あれほど泣かれたら、もうどうしようもなかった。私は。あの子に申し訳ないことをしただめな母親だって、突きつけられているような気がしました。だから、もうどうしようもなくて、タオルを、雅之の顔に当てました。」

「うーんそうだねえ。かと言って、それが殺害する理由にはならないぞ。」

と、華岡が腕を組んで言った。

「誰かに相談するとか、公的な支援を受けるとか、そういうことができれば、今回の事件は起こらなかったんじゃないかなあ。そんなふうに自分を追い詰めなくてもいいと思えるように。」

「そうだけど。」

蘭は、華岡に言った。

「それを実現させるってことは、非常に難しいことだってことですかね。まず第一に、スマートフォンやパソコンなどがないと、今は何も支援にありつけないことが問題だと思います。それは、いけないことではないかもしれないけど、でも、そういう人も居るってことを、もう少し公的な支援機関が納得してくれないとね。きっと彼女は、公的な機関が、スマートフォンなどを持っていないことで馬鹿にしたりとか、そういうひどい目にあったりしたら、もう相談はしたくないって言う気持ちにもなりますよね。」

「でも蘭。そういう事は、苦しい生活していたら、誰かに相談しようという気持ちにならないかな?」

と、華岡が聞くと、

「もう少し、公務員とか、相談員が、もうちょっと増えてくれるというか相談に乗れるような事をしてくれるといいんですけどね。」

蘭は、そう答えた。

「そうしてくれれば、彼女だって、こんな事件を起こさなかったんじゃないですか?」

もう一度蘭がそう言うと、青野まさ江さんは、涙をこぼして泣き出してしまった。華岡はどうしたらいいのかわからない顔をしている。蘭は、彼女には弁護する人を付けて、少しでも、楽にしてやることが大事なことだと言った。


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何もないだけなのに 増田朋美 @masubuchi4996

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