第1話
その日が何の記念日だったか、もう定かには覚えていない。ただとにかく私たち家族は快速電車で街まで出てきて、ショッピングやら映画やらを楽しんだのちに、夕食を取るためにこの百貨店のレストラン街に立ち寄ったのだ。
私の家はここよりずっと郊外の、家とコンビニとスーパーの間に時々畑が顔を覗かせているような一帯にあったから、見るものすべてが新鮮でまるで別世界にでも連れてこられたような気分だった。小学校に上がったばかりの妹は、たくさんの人ときらびやかな建物に目を丸くしたりぐったりしたりを繰り返していた。
夜の八時半はまわっていただろうか、レストランを出たのちに母と妹はトイレに向かい、私と父はぼんやりとそれを待っていた。ほろ酔い状態の父はベンチに腰掛けたまま薄く目を瞑っていて、私は私で詰め込みすぎたお腹を抱えてまったりしつつも、なんとなく手持ち無沙汰に感じてふらふらと広場の方に歩いてみた。広場は建物の中にしては嘘のように開けていて、薄暗いながらも不思議な開放感に満ちていた。
その広場の、時計台を見上げた視線の先の壁面に、静かに目を伏せて横たわる半裸の少女の姿があった。あどけなさの残る横顔に、ふんわりと柔らかそうな頬と唇。モノクロに近い淡い色彩で描かれた表情は、眠っているようでもあり、それでいて不思議とこちらの視線に気づいているようでもあった。
見たところ私より幾分年上らしかったが、彼女の
少女画はその意味で背徳的ですらあったのだが、しかし全体として見れば間違いなく清らかで、無垢だった。私にはわけがわからなかったが、周りの人たちは特に気にするふうでもなく、まるで風景画を前にしたときのように平然と通り過ぎていくので、どうやらわけがわかっていないのは私だけのようだった。
私は急になにか自分が盗み見でもしているような恥ずかしい気持ちになり、慌てて彼女から目を逸らした。しかしすぐにまた彼女の横顔と短い裾からはみ出す白い肌が気になって、ちらちらと未練がましく目を遣り続けた。
今にして思えば、その時すでに私は彼女に対して恋心に近いものを抱いていたのかもしれない。しかし当時の私はまさか自分が同姓の、しかも絵に描かれた女の子に一目惚れしてしまうなどとは夢にも思わず、彼女の姿を眺めていたいという衝動と、それに伴う後ろめたさのようなものにただ戸惑うばかりだった。結局、父に「行くよ」と後ろから声をかけられるまで、私はその場から一歩も動けずにいた。
家に帰ってからも、絵の中の彼女のことが頭から離れなかった。あの柔らかい肌に触れてみたい。あの子と一緒にベッドに入って、ひそひそ話をしながらそのさらさらとした髪を撫でてみたい。そんな場面を夢想するだけで、なんともいえず幸せな気持ちになれた。
またどうにかしてあの百貨店に行きたかったが、私はこれまでひとりで電車に乗ったことなどなく、また親に嘘をついてまでそんな冒険をするだけの度胸も持ち合わせていなかった。
「うちのお姉ちゃんがこんど連れて行ってくれるってよ!」
だから仲良しの芽依ちゃんからそう言われた時には、正直耳を疑ってしまった。数日前、私は自分の劣情を美術的好奇心に置き換えて芽依ちゃんに打ち明けていたのだ。つまり、百貨店で見たとある絵になにかしら惹かれるものがあって、もう一度見てみたいのだと。
あの日以来私はあきらかに挙動不審で、人の話を全然聞いていなかったり、かと思えばノートの端っこに一心不乱に何かを書いたりしていたので、訝しむ友人たちになんの説明もしないでやり過ごすというのはちょっと難しかった。とはいえ、まさか苦し紛れに口にした言葉がきっかけでこんな風に話が転がるとは。もちろん私に芽依ちゃんの申し出を断る選択肢はなかった。
芽依ちゃんのお姉さんは高校生で、ちょうど行きたいお店があったから電車賃さえ自分で用意できるなら百貨店に立ち寄っても構わないということだった。芽依ちゃん自身も、もちろんついてくるつもりだ。私はできればひとりで静かに彼女と対峙したかったが、さすがに贅沢を言える状況ではなかった。
幸いお小遣いは使わずにとってある。先日家族で訪れた時は何も考えずに親についていっただけだが、今度は切符の買い方から駅の出口の番号まで、なにひとつ残さず頭に焼きつけてやろうと心に決めた。
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