第3話
真っ直ぐに立つ銀杏の木の下で、細い棒状の笛を持つ人がいた。
小麦の穂のように波打つ髪を一つに束ね、首元のボタンを外した白いブラウスに焦茶のズボンを履いている。
誰だろう、とラウラは目を細める。
村では見かけない。どこの人だろう?
その人は銀杏の木に寄りかかり、足を少し前に出して演奏を続けている。ラウラを一瞥して、すぐに下を向いた。
気がついた? ラウラはわからなかった。でもその後から、リズムが崩れ、息継ぎもずれて音が掠れる。ラウラの存在に気づいて、乱れたのだと思うと、心苦しく思った。
ラウラは近づいていいものか、立ち止まっていいものか悩ましく考えていると、徐々にメロディーは安定を取り戻してきて、美しい音色に立ち返り、そして止んだ。
その人は笛を唇から離した後、茶色い虹彩をラウラに向けた。瑪瑙のような瞳を細めて、
「この村にある伝承、知ってる?」
と声をかけた。
ラウラは声を聞いて初めて、女性だと気がついた。心臓が高鳴り、危険を知らせているにもかかわらず、ラウラは頷いた。
「最後まで聴くと……ってね。君は聞いてくれたみたいだから、最後に感想を教えてもらってもいいかな?」
女性は、歳の離れた子供に言い含めるような喋り方をする。この人がキューエかもしれないと、予感めいたものをラウラは感じた。
キューエは時々、笛を演奏する。その時には湖が荒れる。その演奏を最後まで聴いてしまうと呪われるとか、命を失ってしまうとか言われている。キューエではなくて、亡霊だという話もある。
最後に、と女性が言ったのは、ラウラの死ぬ最後に、ということかもしれない。ラウラは押しつぶされそうな肺に空気を入れようと、懸命に吸い込んだ。そして、震えながら言った。
「きれいだった」
相手の目尻がピクッと動く。2回目は、もっとはっきり言えた。
「演奏、とってもきれいだったから、呪われるくらいならいいかもって」
「……」
女性の表情から柔らかさが消えた。組んでいた足を伸ばし、斜め下に俯く。その視線の先に、麦わら帽子が置いてあった。
「ねえ」
女性は苛立ちを隠しもしなかった。
「どうなるか分かってて言ってる?」
鬼気迫るものを感じて、ラウラは返す言葉を失った。と思ったら、ニコリと毒気のない笑顔で、
「なーんてね。そんなことしないよ。他の人たちが勝手に言ってるだけだし、私も忘れたよ、そんな……ウワサはね」
クスクスと笑う。今まで、からかわれていただけなんだと思って、ラウラは肩の力を抜いた。その様子を見て、女性は笛をいじりながら聞いてきた。
「もしかして、私が亡霊じゃないかって疑ってない?」
「いいえ、別に……」
ラウラは慌てて首を振る。
「人間の成れの果てが、怖い?」
女性は畳み掛けるように尋ねる。どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか、ラウラには掴めない。
「怖く、ない……」
「そうだよね? 同じ人間なんだからさ」
また女性はクスクス笑った。
変な人、とラウラは思った。キューエじゃない、と思った。少なくともラウラがイメージするキューエとは、まったく違う。
「その石、きれいだね」
女性はラウラの手元を見て、言った。
ラウラは少し持ち上げて、石を眺める。曇り空の下では、日光を灯すような輝きはない。
「お姉ちゃんと見つけたの。太陽にかざすと、すごくきれいで」
「あそこの湖から?」
「……うん」
ラウラは、とったらダメと言われたらどうしようと思い、戸惑いがちに相手を見る。女性は案外あっさりしているのか、
「いいのが見つかったんだね」
と感想を告げた。その言葉を聞いて、ラウラはホッとしたけれど、落ち着かなかった。笛の音が、まだ頭に響いている気分だった。
「あ、そうだ、何の曲吹いてたの」
「さあ。忘れちゃった」
返答は淡白だった。
女性は腰を屈めて帽子を手に取ると、一歩前に進んだ。ラウラは無意識に後ずさった。
「帰ったら?」
そう女性は言いながら、帽子を目深に被る。その一瞬、何か赤いものがちらついたように見えた。
「友達も……あと家族とか、心配してるんじゃない?」
「でも、あの」
ラウラが言おうとした矢先、
「私? 私は一人でも平気」
女性はラウラの横を通り過ぎて、砂利道を辿って行く。
「……」
ラウラはその後ろ姿を見守ったまま、立ち尽くした。淋しそうな後ろ姿に、声をかけたくて、でも何も言えなかった。
入江まで戻ってくると、空は暗くなり始めていた。
「おーい、ラウラちゃん」
手を振って呼ぶ人がいる。知り合いのおじさんだった。
「お姉さんが、すごい心配してたぞ」
と言われて、びっくりした。近所中で探し回っていたらしい。
見つかった、見つかったと人が増え、ぞろぞろ歩いていく。その知らせを聞いた姉が駆け出してきた。
「もう、どこに行ってたの」
と問い詰めようとしたが、ラウラの手に、あの石が入っているのに気づくと、姉は涙を堪えきれず流した。そしてラウラを抱き止める。
「無事でよかった……」
ラウラは心配性の姉に、戸惑いを覚えた。二度と帰ってこないのではと思ったのかもしれないけど、大袈裟だと思った。
結局、最後まで聴いたら呪ってくるような亡霊なんていなかった。普通、自分の演奏を真剣に聴いてくれて、怒るような人がいるだろうか。
帰り道、ラウラも姉も、何も喋らなかった。
ラウラは申し訳ないと思いながらも、姉をはじめとして、心配してくれた人がこんなにいることに心地よさも感じた。それと同時に、あの女性の後ろ姿が、目に焼き付いて離れなかった。
家に帰ってから、姉は堰を切ったように質問した。
「どこに行ってたの」
「入江」
「石、どこにあったの?」
「座ってたところ」
「笛の音、聞こえなかった?」
ラウラはそう聞かれると思っていたから、どう答えようか考えていた。でも、うまく説明できる自信がなかった。
「うん、聞こえなかった」
心配してほしくなくて、小さな嘘をついた。
生きているのか死んでいるのか、わからない人と出会った。
そんなことを言って、理解してくれるだろうか。
「入江の左奥って、何かあったっけ?」
ラウラはよく手入れされていた細道を思い出して、ふと呟いた。
「烏屋敷の敷地でしょ」
と言う姉の言葉で、記憶がつながった。
そうだ。立派なお屋敷があった。屋根によくカラスが止まっているから烏屋敷と言われている。なら、あの砂利道は、屋敷へと続いているのかもしれない。
でも、あんな人がいただろうか。烏屋敷にはご主人と夫人、小さな子供が3人、女中が4人住んでいる。
「屋敷の人で、笛が好きな人っている?」
「急にどうしたの? えーっと、私の知ってる限り、いないけど」
「そっか」
「どうしたの」
「別に、なんでもない」
何か分かるまでは、説明できそうに思えない。女性と会った時、胸騒ぎがした。生きて帰れなかったかもしれないのだから、黙っていても、一緒だろう。
ラウラは家で一番目立つ、大きな木棚の前まで行くと、その上に石を置いた。
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