第11話

 錦野と口論を起こし、最悪の気分で週末を過ごした里巳は、翌週も陰鬱さを前髪に隠して登校していた。そして学校への往来の度に逐一目に入る掲示板を煩わしいと思いながらもチェックする。

 しかし月曜日がやって来て、火曜日を通り過ぎても、掲示板のどこにも『エックス新聞』はなかった。


「……書いてない」


 さらに新聞部が水曜日に定期更新した『鯉ヶ谷新聞』には芦間の名前はない。錦野のリークは思い通りに運ばなかったのか。それともそもそも話をしていないのか。先週の金曜日を最後に情報の途絶えた里巳には確かめる術がない。

 三者面談の待ち時間中に下駄箱前の掲示板を見ていた里巳は、近くに居た祖母の枝都子に声を掛けられた。


「さとちゃん、そろそろ行こうかしら」


「うん。わかった」


 二人は特別教室棟への吹き抜け廊下を歩く。冬の空気が露出した鼻や脛だけでなく服のずっと下まで染み渡る。冷え切ってしまうのは体だけではなかった。


「さとちゃん、ずっと浮かない顔をしているね」


「え……そう?」


「もしかして今日のことが心配なのかい」


 唐突に祖母に聞かれ、表情を取り繕えなくなる。

 学校のことで祖母に嘘をつく覚悟は何か月も前からできている。そうなると、彼女を憂鬱にさせるのはエックス新聞に纏わることだ。

 どうして再開予定だった定期更新をやめたのか。それどころか新聞部は宮路の不倫記事が別人によるものだというところまで勘づいている。里巳の目には事態があまりにも不自然に見えた。


「うん……まあ、そんなところ」


「そう。じゃあ先生には色々なことを聞かなくちゃね」


 枝都子は気づかないまま言う。それで良い、と里巳は心の底から思った。文理選択で悩んでいるように見せておけば、学校全体を通しての悩みはかき消されてしまう。

 祖母を心配させないための嘘を吐く度に、やはり口の中には酸っぱい悪臭が漂う気がした。


 里巳と枝都子は揃って、進路指導室の前に置かれた椅子に座った。廊下には教室から漏れ出る僅かな声だけがしばらく流れ、やがて進路指導室から別の生徒と保護者が出てくる。軽い会釈を交わした後に、乙部が代わるように顔を出した。


「お入りください、天立さん」


 枝都子が会釈しながら誘われて行く。それに倣うように里巳もファンシーな絵飾りが広がる進路指導室の中に入って行った。


「お久し振りです、乙部先生。本日は里巳のことをよろしくお願い致します」


 枝都子は里巳と違って人の名前や顔を覚えるのが大の得意だ。習慣と言って差し支えないかもしれない。だから夏休み前にあった面談で一度会ったきりの乙部のこともしっかりと把握していた。里巳は祖母の記憶力と人間関係の構築力にいつも感心させられた。


「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


「以前から気になっていたのですけれど……この教室のイラストは全て、乙部先生が装飾なさったのですか?」


 枝都子は世間話のように進路指導室の内装に触れた。ゾウやウサギなどの動物を模した殆ど架空の生き物たちのイラスト。幼稚園に寄贈したら大喜びされそうな作品の数々が教室の壁や天井で踊っている。

 筧が言っていた元デザイナー志望の実力が遺憾無く発揮された教室は、ここが学校であることを忘れさせてくれるようで、里巳は少しだけ心が楽になった。


「そうなんです。ここは進路指導室ですが、保健室みたいに、進路以外にも生徒たちが相談できる場所にしたいんです。この前は学内新聞が取り上げてくれたから、生徒たちがたくさん来てくれたんですよ。『この教室の金庫にはテストの過去問と解答が眠ってる』って噂で……本当は本棚に並べきれなかった赤本しか無くって、鍵もかけてないんですけどね」


 乙部はとても嬉しがりながら、金庫の扉を開けて見せた。中身は本当に赤い背表紙が並ぶだけだ。

 エックス新聞の本質はエンターテインメント。こんな笑顔を作ることが本来の目的だったはずだ。里巳は道を違えた錦野のことを思い出し、前髪の下を再び暗くする。

 反対に、にこにこと話を聞いていた恵都子が言う。


「ご立派な考えですね」


「生徒が行きたいと言った道を少しでも手伝うのが私の役目ですから。それでは、里巳さんの三者面談を始めましょう」


「……はい」


 各々が席につき、用意された一学期の通知表とテストの結果に目を通していく。

 話はすぐに文理選択の話題になった。国語と生物、どちらに比重を置くか。それさえ解決すれば良い問題なのだが、里巳が選べないのは「どちらに対しても意欲があるから」ではなく「どっちを選んでも大して興味がないから」だった。


「里巳さんには、将来の夢みたいなものはないの?」


 乙部の質問に、里巳はとつとつと答える。


「……普通が良いです。大学はできたら行って、一般企業に就職して、結婚はどっちでも良いけど、とにかく普通に暮らせたら、それで」


 元の姓から変わり、住む場所を変えても「不倫芸能人の娘」という嘘から完全に逃れられることはない。噂を聞きつける人間も少なからず居るし、何よりも里巳本人が自分とは何なのか、という問答を繰り返していた。

 そしていつも行き着く答えは、特別製の劣悪品。与えられたレッテルのせいで辛い思いをするのなら、彼女は“記者”も“探偵”の称号も何も要らない。


「大学は地元が良い、とかある?」


「そうですね。できればこの辺りで」

 里巳の返答を聞いた枝都子が心配そうな顔で言う。


「さとちゃん。別におばあちゃんに気を遣う必要は無いからね」


「ううん。私が、ここが良いの。それだけだよ」


 他に居場所がない、という答えは隠したが嘘はついていない。里巳はわざわざ安心できる場所を離れてまで成したい何かは持っていなかった。

 生徒の答えを聞いた乙部は僅かに悲しそうな顔をしながらも、里巳の要望に沿う提案をする。


「それなら……電車通学にはなっちゃうだろうけど、一番近くの国立大学を目指してみるのはどうかしら? ここを見据えて勉強しておけば、少なくとも地元の大学ならどこでも選べるし。まだ一年生だから、本格的な志望校選びは来年からでも遅くはないわ」


「どう? さとちゃん」


「じゃあ今は、その方向で」


 里巳は話をすぐに決めてしまった。興味云々の話もそうだが、神経を擦り減らす三者面談を早く終わらせたかったという気持ちもあった。


「そうなると文系クラスの方が有利かな。学部ごとの募集人数を見ると、文系科目を使う受験方法が多いから……里巳さんの学力があればプールの大きい場所の方が有利だと思います」


 多くの問答をしたが、結局里巳は文系クラスを選ぶことした。全ては「普通である」ため。単純明快で最も難しい場所に行き着くには、こうしてお手本のレールの上に居る人の言うことを聞くのが良い。いつかには自分の意思も無くなって、ありふれた玩具屋の人形に成れるのだから。


「本日はこれでおしまいです。お疲れ様でした」


「ご丁寧にありがとうございました。今後とも里巳をよろしくお願い致します。乙部先生」


 里巳たちはお辞儀をして進路指導室を出た。浮かない顔を隠すことに必死な彼女に比べ、枝都子は柔らかなにこにこ笑顔だ。


「親切な先生で良かったね」


「そうだね」


「じゃあ、さとちゃん。先にお家で待ってるからね」


「うん。用事が済んだら帰るから」


 学校での活動があることを仄めかしておくと枝都子は安心してくれる。それを知っていた里巳は祖母を先に帰すことにして、跨いだばかりの教室に振り返った。やがてカラカラと小さな音を鳴らして進路指導室の扉が開く。


「お疲れ様。天立さん」


「乙部先生、ありがとうございました。とても助かりました」


「良いのよ。それよりも天立さんの演技力は本当に凄いわね。いっそ今からでも役者さんを目指しちゃう?」


 不安定な職業を提示するのは教師の推薦としてどうなのだ、と里巳は思ったが、今は他に言いたいことがあった。


「言ったじゃないですか。私は『普通』に暮らせたらそれで良いんです。才能とか生まれ持ったものを使わない平和な場所で、何のレッテルも貼られることのないように」


 祖母に嘘をつく理由は乙部にも話していた。枝都子は芸能人だった両親のことを気にせずに「普通」の学生生活を送って欲しいと願っている。だから里巳を引き取った際には父親の苗字をすぐに変えた。

 子どもの頃、母親に似た容姿や目立つ経歴のせいで、他者との隔絶を感じていた。里巳にとって『特徴』とはある意味トラウマのようなもので、取り払えば幸せに近づくと思ってしまっている。もしもレーザーで除去できるなら、人生の要らないホクロの全てにお金をかけたいくらいなのだ。

 だから錦野が勝手に“探偵”などと呼び始めた時には蕁麻疹が出た。彼だって頭はキレる方なのだから自分で推理したら良い。そう思うことは何度もあったのに、錦野は必ず里巳を頼る。


「才能があるって言うのはとても大切なことよ。もちろん進む道は本人が選ぶものだけど、持たざる人の分まで何かを創ることができるという自覚はあるべきだと、私は思うわ」


「どうしてですか?」


「そうじゃないと、持っていない方の人が報われないから。天立さんだって、欲しいものを買ってもらえなかった時はとても悲しいでしょう?」


「そんな子どもみたいな目を向けられても、期待に応えられる保証なんてありませんよ」


 「子ども、ね」と言いながら乙部は口に手を添えて笑った。困ったように少しだけ眉を八の字にして苦笑いする。


「人は誰かに期待する生き物よ。自分が持っていないものじゃないと誰かには期待しない。天立さんを頼る誰かが居るなら、それはあなたにしかないあなたの良さを、その人が知っているというだけじゃないかしら」


「私は私が嫌いです。それを認められたところで……嘘ですよ」


 里巳だけの良さ。つまり里巳自身が自覚したところで絶対に認めようとしない部分のことである。自認しない才能はお世辞か嫌味と相場が決まっていた。


「少しお説教が必要みたいね……天立さん」


 しかしそれを聞いた教師は黙っていなかった。自分を傷つける思想はピアノ線みたく里巳に絡みついていて、このままでは心は陶器のように割れてしまう気がしたのだ。


「あなたは両親の娘じゃないのよ。あなたに芸能界や芸術への憧れが無いのなら、知名度なんてものは必要ない。だから天立里巳という一人の人間として生きるのに、立場や才能を枷だと思う必要もないのよ。そして全ての才能が親の持ち物だったなんてことは、絶対にあり得ない」


「……どうでしょうか。ヒトが遺伝子の掛け合わせでできている以上は、限りなく親譲りの物が多いと思いますが」


「そんな話をするなら、人類はみんな等しく木登りや水泳が得意じゃないとおかしいわ。その反論癖はあなた自身のもの? それともご両親がそうだった?」


 里巳は大きな瞳をはっと開いた。

 母親は世間に無実であることを言い返し切れなかった。父親は自分の声が無意味だと悟って逃げてしまった。

 だから里巳は、せめて自らの口だけは閉ざさまいとしている。言われるがまま責められたら人の心は死んでしまうのだから。

 何か、名前の付けられない何か大切なことを教わった気がして、里巳はぎゅっと自分の心を抱いた。


「乙部先生みたいな人と、もっと早く出会いたかったです」


「私も上等な人間ではないわ。美大まで行って、デザイナーになる夢を諦めたの……凄く、悔しかった。だからせめて生徒たちには夢を叶えて欲しいのよ。知ってる? 今、美術部に凄い子が居るの」


「大伴美羽さん、ですか?」


「そう。実は彼女も進路指導室に顔を見せてくれているのよ。私はああいう子に夢を叶えて欲しい。有名になるってことは、とても難しいことなんだけどね」


 こんなところでも有名人の名前は出てくる。里巳が夢を見つけることがあったとして、それは少なくとも世間話のネタにされるような職業でないことは間違いない。だからこそ好奇心で尋ねてみた。


「もし私が女優になりたいと言ったら、先生は応援しましたか?」


「もちろんよ。天立さんには素質があるもの。知名度的にもブランディングはばっちりよ」


「……やっぱりその道は遠慮願います」


 里巳が断るとわかっているから冗談になる。彼女にジョークを飛ばす人間なんて限られている。乙部があの生意気な男子生徒と同じくらい、天立里巳という少女を理解している証拠だった。

 錦野は里巳に言った。彼では解けない問題でも里巳ならば解くことができると。詰まるところ、彼は諦めたと同時に期待したのだ。本当なら煩わしいはずの評価だが、錦野が認めている里巳の才能は「両親の娘だから」ではない。だから里巳はあの『開かずの間』で居心地が良かったのだ。


「少し用事ができました。乙部先生、今日は本当にありがとうございました」


「どういたしまして。気をつけて帰ってね」


 里巳は頭を下げて特別教室棟の階段を駆けた。吹き抜け廊下を戻り、教室棟の掲示板で『鯉ヶ谷新聞』を睨む。バツ新聞への宣戦布告を取り止め、乗っ取られているなんて曖昧な噂話で済ませたのは、まだ里巳の意思を捨てていないから。


「まどろっこしいやつ」


 里巳が真意を汲み取って協力する姿勢を見せる保証もないのに、錦野はまだ「期待」している。期待なんていうのは無責任で勝手な気持ちに他ならない。しかしそれは、里巳が人を信じることを止めない気持ちと少しだけ似ていた。

 里巳は上履きのままズカズカと校舎の外に出る。ぐるりと特別教室棟を回り込み、正門から最も遠い端に位置する場所の外扉を感情任せに五回叩いた。もしも近くに誰かが居たらバレてしまうことは必至だったが、保護者も生徒も教師も面談に勤しんでいるためその心配はなかった。

 「どうぞ」と間の抜けた声がして、里巳は苛立ちを隠しもせずに『開かずの間』の扉を開けた。そこには塩っぽい平たい顔に、太い四角フレームのメガネをかけた男子生徒が見慣れた通りに座っている。


「やあ。もうこないんじゃなかったの」


「白々しいのよ似非ライター。宣戦布告もできない腰抜け。遠回しの陰気者」


 頭に溜まっていた悪口を一頻り放つと、当人は塩顔をニヤつかせて「酷いなあ」と呟いた。錦野は里巳からこのくらいの毒舌が溢れることくらい知っている。


「探偵にはならないよ。だけど私はただの学生だから、問題だけは解いてあげる」


「それは頼もしいね」


「どうにかして芦間恋奈と接触させて。彼女が犯人ならそれで良し。違うなら犯人がわかるまで契約続行よ」


 頼り甲斐のある言葉に、錦野は考えることもしないで「仰せのままに」と笑った。

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