第10話

 二枚目のバツ新聞の発行。『開かずの間』の誰もが予想だにしなかった状況が訪れた。内容は宮路勝臣の援助交際についてさらなる仔細がわかったということ。明確に宮路の立場が陥れられている内容だった。


「単なる告発だから二枚目は無いと思っていたけど、まさか追加情報で二回目の号外とはね」


「より一層、宮路先生の立場が悪くなったわね。本当……吐き気がする」


 里巳が不機嫌に切り捨てると、向かいに座る錦野も塩顔に彫りを深めて同調した。今ばかりは人当たりの良い笑みも消えて芽を取った後のジャガイモみたいになっている。


「今回ばかりはボクとしても楽しめないな。こう言っちゃなんだけど、宮路の評判は既に地に落ちてる。本人が居ない間にさらに密告しようだなんて、本気で彼を社会的に抹殺しようとしているようにしか思えない」


「ついでにあんたの身も危うさを増したんじゃないの? 『黒幕』さん」


 今日も『開かずの間』へと足を運んでいた筧がキャンバスに向けていた真剣な表情を錦野へと向ける。絵はもうすぐ完成を迎えそうだった。錦野は絵の男性によく似た教師を思い出して、かつてなく嫌な顔を作った。


「エックス新聞の立場も評判も最悪よ。一部の生徒は楽しんでいるけど、それは多分、あんたが欲しがってるタイプのリスナーじゃないでしょ」


「よくお分かりで」


 溜息よりも重苦しい声が肯定する。人気商売にアンチが居るのは当然だと割り切っている錦野だが、今回は好き嫌いではなく、良いように利用されているに過ぎない。誰かを掌の上で転がすことは好きでも、踊らされるのは御免だった。


「もうそろそろダンマリを決め込むのは終わりだね。エックス新聞はバツ新聞の存在を明らかにする」


 錦野が決意を固める最中、里巳は「とは言え」と割り込んだ。


「犯人はわからないままだからね。バツ新聞の存在を言ったところで、犯人に雲隠れされたら自作自演にしか見えないよ」


 宮路の報道がエックス新聞の仕業ではないと知っているのは、今のところここに居る里巳と錦野と筧、そして滝田と大伴の五人だけだ。他の生徒や教師はエックス新聞の行き過ぎた報道だと思っているので、里巳の言う通り明確な証拠がなければ、信用のない冤罪の訴えに過ぎなくなる。


「あんたら的には、芦間恋奈でほぼ確なんでしょ? じゃあもう告発しちゃえば?」

 筧の一言に、里巳は大きく眉を顰めた。


「まだ証拠がありません。このまま芦間の名前を出して、もしも間違っていたらどう責任を取るんですか」


 う、と筧の細い喉が詰まる。しかし里巳の制止に意を唱えた者が居た。錦野だ。


「天立嬢。悪いけどボク的にはボクとエックス新聞の保護が最優先事項だ。最悪の場合は芦間恋奈を盾にするつもりだよ」


「だから、それは芦間が犯人だって確定してからでしょう。実名報道の告発をエックス新聞で行ったら、それこそ新聞の評判は地に落ちるわよ」


「無論、エックス新聞を守るように動くさ」


 はっきりと言い切られた物言いに、里巳は不穏な空気を感じ取った。


「……錦野。あんた今、ろくでもないこと考えてるでしょ」


 錦野は推測こそ里巳の専売特許だと思っているが、計略を立てられない訳ではない。なぜならエックス新聞は元々彼のみの事業であり、里巳が居なくても成立する企画だからだ。

 だからこそ里巳は警戒していた。錦野幟の頭には良識があるが、タガを外せば周囲を傷つけてでも目的を達成する作戦が浮かんでいるのだ。


「芦間の存在を新聞部にリークする。エックス新聞でバツ新聞に宣戦布告した後でね。そうすれば芦間が犯人かどうか確かめることもできるし、エックス新聞の無実は第三者が晴らしてくれる」


「ふざけないで! 私はまだ確実な答えを出してない。私のせいで無実の人が傷つくなんて絶対に許さない」


 無責任な記者の態度に里巳が激昂する。彼の作戦はつまり、芦間という容疑者を槍玉に挙げて、エックス新聞の敵を明確にしようと言うことだ。しかしそんなことをすれば、芦間は犯人であろうとなかろうと「悪人」のレッテルから逃れられなくなる。

 尋常ではない怒りを感じ取って、筧が冷静に「ちょっと、後輩。落ち着きなって」と宥める態度を取る。しかしそれは里巳のひと睨みによって無意味と化した。


「じゃあきみは、他にエックス新聞を守る方法があるって言うのかい」


「メディアよりも優先して守るべきものがあるでしょ、って言ってるの!」


「だけどそれじゃあ間に合わない。一〇〇パーセントの宿題だって、期限を過ぎたら評価してもらえないんだよ。それと一緒さ」


「自分の評価のためなら人を陥れて良いってこと? それなら錦野。あんたは本当にバツ新聞の記者ね」


「……何が言いたいの」


「言葉通りの意味よ。ここであんたが芦間を売るなら、やっていることはあの悪趣味な噂だけの告発記事と変わらないわ。人を幸せにしないただのフェイクニュースなんて、報道の風上にも置けないゴミクズよ」


 里巳がエックス新聞に加担していた理由は『開かずの間』という都合の良い場所の確保と、フェイクニュースという忌むべきものを天秤に掛けた結果である。

 これまでの錦野のやり方ならば傷つく人間は居ない。だからこそ協力もしていたが、その台座が揺らぐのならば天秤の傾きも変わってくる。


「ボクに必要なのはあくまでエックス新聞の継続。そして今回はきみが“探偵”であることをボクは望んでいる。謎を解く以外のことを頼ったつもりはないよ」


「私は“探偵”やら何やらって、不相応な称号は求めてない。それを承知で頼ったのは錦野の方でしょう!? だったら私にまで罪悪感を押し付けるやり方なんてしないでよ!」


「ああ、もう。止めなさい、バカ後輩ども! この場所がバレたらまずいんでしょうが!」


 筧が痺れを切らして二人の間に割って入った。力づくで引き剥がすほどではないが、確実に心の距離は離れていた。


「あんたたち二人とも冷静じゃないわ。今日はもう帰って頭冷やしなさい」


 冷静な判断を押し付ける筧に対し、錦野はそんなことはわかっていると言わんばかりに自らの焦燥を吐き出す。


「筧先輩。今日はもう金曜日なんです。どういった形でも月曜日には定期更新のエックス新聞を出さないと、バツ新聞は完全に本物のエックス新聞に成り代わってしまうかもしれない。ボクにはどういう形でも犯人が必要なんです」


 日頃おちゃらけた錦野の真面目な態度に一つ年上の女学生は思わずたじろいだ。代わりに反発したのは同級生の方だ。里巳は前髪が目の形を隠さないことも厭わず、綺麗な顔を迫力に任せて錦野に詰め寄らせる。


「錦野。あんたがそのつもりなら、好きにすれば良いわ。ただし私は金輪際あんたには協力しない」


「そうなると、きみは『開かずの間』に立ち入る権利を失うよ。それでもかい」


 それは彼らの関係の生命線とも言える契約だった。エックス新聞への協力の代わりに、部活動の参加を偽装するための『開かずの間』の立ち入りを許可する。多くの関わりを持ちたくない里巳が祖母への嘘を成立させる上で最も有効な取り決めだ。

 しかしどれだけ祖母を慮っても、許せない状況は存在した。


「ええ。同じ空気を吸うより百倍マシよ」


 里巳は自らのバッグを引っ掴んだ。引き留めようとする筧のことも眼中に入れず、駐車場へと続く『開かずの間』の外扉に手をかける。開けようとした瞬間、錦野は怒りに震える背中へ悲しげに言った。


「残念だよ。ボクには解けない問題でも、きっときみには解けるのに」


「だから、勝手に私を“探偵”になんてしないで。私は何者にもなりたくない。普通の学生で居たいだけよ」

 強い語気は緩まず、それでも里巳はゆっくりと重い扉を開けた。それは、もう二度と立ち入るつもりのない『開かずの間』への餞別だった。



 唯一認める“探偵”が去った部屋で、錦野は言葉数の多い口を閉ざしていた。

 里巳との舌戦を繰り広げても、感情の中には怒りをの「い」の字も浮かばない。ただエックス新聞を守るという主目的のために手放さなけばならなかったというだけだ。

 仕方ない、と割り切る錦野だったが、レンズ越しの目を責め立てるのは里巳ではない別の少女だった。


「あんた、必死になるのはわかるけど、熱くなり過ぎよ」


 先に熱くなったのは彼女の方だろう。すぐに反論が浮かんだが、筧に噛み付いたところで無意味である。錦野は自分の非を認めるように言った。


「そうですね。確かに感情で逃して良い人材じゃなかったですね」


「違うわよ。そんな損得勘定の話じゃないわ。友だちに対してって意味よ」


「ボクらは友だちではありませんよ。ただの協力関係です。今しがた解消になりましたが」


「放課後に集まって、わざわざボランティアもどきの新聞作りをしているんでしょう。それを友だちと言わずに何て呼ぶのよ」


 いつもの減らず口が言葉に詰まる。それを好機と見るや、筧は捲し立てた。


「良い? 人との繋がりは貴重なのよ。だからあたしもタバコの件で、美術部の同級生たちが匿って内緒にしてくれてた。いつだって助けてくれるなんて綺麗事は言えないけどさ。仲良しな分だけ助けてあげたいと思うことはあるじゃない?」


 何て的外れな説法だろう、と錦野は思った。彼の人間関係はいつだって打算と損得勘定で成り立っている。有益な人物には媚びへつらうし、無益な人間は損切りだってする。

 ――じゃあボクはどうして感情的になってしまったのだろうか。

 立ち上がった筧は錦野の頬を掴むように自分の方へ向け、睨みを外せないようにして言った。


「友だちの定義なんて人それぞれ……そんな顔してるけど、そうやって感情的になって喧嘩できる人のことを世間は友だちって呼ぶのよ。仮にも新聞記者を名乗るなら、世間の声くらい覚えておきなさいよね」


「……」


「もし芦間を炙り出すための作戦をしたら、あの子との関係は本当に終わりだと思いなさい」


 錦野は真正面から、一方的に叱られる経験なんてなかった。兄や同級生が怒られているのを見ては「やっちゃ駄目なこと」の隠し方を学び、飄々と生きてきた。

 しかし筧は違うだろう。校則を堂々と破っているところを見ても、彼女は錦野が観察していた側の人間だ。だからこそ正面からのぶつかり方を知っている。

 こういう人の方が繋がりの質と量を意識する人間よりもずっと良好な関係を作るのだろう。錦野は自らの軽薄さを恥じると同時に、この損得勘定とは一生付き合っていかなければならないのだろうなと予感した。


「先輩」


「何よ」


「意外と先生、向いてそうですね」


 筧はきょとん、とチワワみたいな表情になった。そして頬をぐにぐにと揉みながらそっぽを向く。


「あんたに褒められたって別に嬉しかないわよ」


 もしも彼女に尻尾が付いていたら、背中でぶんぶん振り回されていたことだろう。わかりやすく先輩の手玉に取られる気のない錦野は、心の中だけで頭を下げた。そんな見えないお辞儀を察したように筧が言う。


「……フォローするつもりじゃないけれど、あたしだって自分の作品を大事にしたい気持ちくらいはわかるから」


 彼女の描いた理想の教師が煙を吐きながらじっと錦野を見つめていた。部屋の中には苦みを含んだシトラスの香りが広がるようだった。



 錦野は悶々とした気持ちを抱えながら日々の巡回をしていた。

 これからどうするべきか。錦野幟として、エックス新聞の発行者としての最適解はなんだろうか。


「……よし」


 僅かな決意を秘めて、錦野は普段と違う道順を歩いた。

 普段の練り歩きとは違い、定めた先は特別教室棟三階。図書室や家庭科室のあるこのフロアには、一方的な因縁をぶつけられている新聞部の部室があった。

 教室の扉には『鯉ヶ谷高校に纏わる情報モトム!』というかなり古い紙が貼ってある。その下には最近書かれたような字で『不在時の連絡先は以下の通り……』とあった。

 鯉ヶ谷高校新聞部および鯉ヶ谷新聞の歴史は長い。開校七十年を迎える中で、初年度から設立されていた部活だ。人気の浮き沈みを繰り返しながらも絶えず発行されているため、部活数が少ない時代に部室としてもらった場所の権利が未だに生きている。

 錦野が三回ノックをすると「どうぞ」と聞き覚えのある低い男の声がしたので扉を開ける。


「失礼します」


 新聞部の部室には、様々な紙資料がダンボールからはみ出て溢れ返っていた。教室の真ん中には四つ合わせた机が陣取り、それを見下ろすようなホワイトボードがある。秘密基地みたいな空間の中には五人の男子部員が詰め込まれていた。

 むさ苦しくて殺風景。閑散とした雰囲気が好きな錦野にとっては新聞部の雰囲気はどうにも合わない。中三の時にオープンスクールで訪れ、紹介された時には既に入部を拒否することを心に決めていた。


「やあ、幟くん。どうしたんだ。キミが新聞部を訪れるなんて珍しいじゃないか」


 ニンジンみたいな輪郭の大藪が尋ねる。錦野は「こんにちは」と見知った顔たちに挨拶をする。にこやかに、をいつもよりずっと意識した。そして普段より細くなった錦野の目に、ホワイトボードに貼られている拡大写真が飛び込んできた。

 夜の、おそらくは学校だ。その中心にはブレた被写体――鯉ヶ谷高校の女子生徒が着ているセーラー服が霞むように写っていた。


「その写真は何です?」


「おいおい幟くん。勝手に新聞部の情報を見られちゃ困るなあ」


 錦野の視界を遮るように男子生徒が一人立ち上がった。この人も三年生で、大藪と同じく錦野の兄である朝陽を尊敬している。だから無下にされることはないと高を括る錦野は、愛嬌を振り撒くように言う。


「そんなにデカデカと拡大していれば、少しでも教室に入った人はみんな目がいきますよ」


 そりゃそうだ、と陽気な部員たちは一様に笑う。そして思惑通り、男子生徒は錦野に教えてくれた。


「この写真はな、噂のエックス新聞の発行者さ」


「えっ」


 思わずポーカーフェイスの得意な錦野から驚きがこぼれ落ちる。無論、その情報が間違っていることはわかりきっている。しかし写真に写った女子生徒が『バツ新聞』の発行者である可能性は十分にあった。


「昨日の放課後、帰宅時間の後も隠れて夜まで掲示板前で粘っていたのさ。最近は毎日のように張り込んでいたんだが……そうしたら一人の女子生徒がやって来て、何かを貼って行った。最初から両面テープを紙に貼っておいたんだろうな。あまりにも手際が良くて、オレたちもびっくりしたよ」


 帰宅時間を過ぎても学校に居座るという校則違反をさらりと白状した大藪だったが、錦野からすればそんな愚行はさらさらどうでも良い。


「もしかしてその紙が……」


「ああ。今朝話題の種になっていたエックス新聞の宮路先生に関する続報さ。先生方に提出しようかとも悩んだんだが、オレたちの校則違反がバレても問題なんでね。宮路先生には悪いけれど」


 錦野はもう一度息を飲んだ。何せ錦野の犯人予想は芦間恋奈という女子生徒なのだ。彼女の特徴は知らずとも、バツが女子生徒であったという確証を得ただけで可能性はぐっと上がる。


「外が暗かったせいで顔は目視できなかったが、何とか起動したスマホのカメラでこれだけが撮れた。今は写真を拡大して犯人の正体を探っているのさ」


「そうだ、大藪。知り合いの多い幟くんにも見てもらおうぜ。もしかしたら彼と同学年の女子生徒かもしれない」


 錦野は促されて気になるホワイトボードの前に立つ。夜の校舎。掲示物の色の配置から鯉ヶ谷高校の下駄箱前に相違ない。その中心にはピントの外れきったセーラー服を着た、髪の短い生徒の後ろ姿。

 よくよく見てもショートカットの女子生徒ということくらいしかわからない写真だ。しかし里巳が大伴から聞いた話だと、最も疑わしい芦間恋奈はいつもショートカットであるとのことだ。

 もしかすると芦間恋奈その人かもしれない。錦野は口走りかけた名前を喉奥に押し込んだ。


「いや、すみません。さすがにこれだけの情報では」


 予想していたように「だよなあ」と新聞部員たちが天井を見上げる。


「とりあえず月曜に号外を出して、写真をばら撒いて情報提供を募ってみるか?」


「いや、それだと関係のない女子生徒たちに迷惑がかかる。犯人が確定するまでは使い物にはならないんじゃないか」


 部員たちは次々アイデアを出していくが、部長である大藪によって棄却されてしまう。新聞部はせっかくのスクープ写真の取り扱いに困っていた。

 寧ろそれは、犯人さえ確定してしまえば――例えば芦間恋奈の名前が出たら、彼らは彼女を追い詰める行動を取り始める。

 エックス新聞が、ひいては錦野が彼らの矜恃を守る理由はない。利用できるものは利用する。錦野の行動原理は常にリターン効率重視だ。


「そう言えば、ボクがここに来たのは用があったからなんです」


「ん? 何だい」


「新聞部に一つ、耳寄りな噂を知らせたくて」


 大藪が「ほう」と呟く。錦野はここには居ない者へ期待を込めるようにして言った。


「実は――」

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