第9話

 大伴との話を錦野に報告した翌日、つまり木曜日。里巳がオオエヤマの姿をすっかり捨てて『開かずの間』を訪れると、見慣れてはいないが見覚えのある光景が広がった。

 いつも通りの席に座る錦野の顔はどこか不満げである。その視線の先には、ツインテールを微動だにさせない筧がいつの間に運び込んだのかわからないキャンバスに向かって絵を描いていた。描いているのはタバコを吸う男性だった。

 西洋人っぽい彫りの深さは作者の趣味嗜好に起因しているのだろう。里巳は筆を持つ女学生に向かって言った。


「どうして先輩が居るんですか」


「あら、ごめんなさい。もしかして二人きりじゃないと困る関係だった?」


 あまりのくだらなさに里巳がじろりと睨む。しかし筧はキャンバスに集中しきりで、代わりに錦野が泣きつくように言った。


「聞いてよ天立嬢。この人、『開かずの間』の秘密をバラされたくなかったらここを貸せって言ってきたんだ。こっちだってタバコの件を黙っているのにさ」


「何言ってんのよ。『開かずの間』で秘密一つ。そしてあんたがエックス新聞の発行者で秘密二つよ」


 普段はヘラヘラとしている錦野がただの屁理屈に心底嫌そうな顔をする。最初に脅しをかけた方だとは思えない様子だ。里巳は面白いものを見せてくれる図々しい上級生に内心称賛を送りつつ、ヘタに拘束しない方が裏切られないと悟った。


「それにコンクールに間に合わせるために使わせてもらうだけだから。高校生の中ではとても大きなコンクールなの。野球で言うところの甲子園ね。美大やプロも注目するから、ここで名が売れれば一気に有名になれるのよ」


「有名になりたいんですか、筧先輩」


「あたしは賞を獲れると思うほど自惚れてないわ。だけどそれだけレベルが高いから、下手な作品は逆に目立つのよ。それが嫌なだけ」


 筧は崇高な志で美術に取り組んでいる人間ではない。本人がそう公言していたことを思い出して納得した里巳は、悪目立ちしたくないというリアルな拒絶を応援する。


「真面目に描いてるんだし良いんじゃない。それに美術部に関して、先輩に聞きたいこともあったじゃない。期限があるなら居座らせてあげたら?」


「話がわかるわね、後輩」


 意外にも馬が合うことに気がつき、にやっと笑顔を作った筧。里巳は先輩の耳元まで近づき、同じように作りものの微笑を絶やさずに告げた。


「ただ……もし見つかった時は滝田先生に言うだけに留まりませんから、覚悟しておいてくださいね」


 表情に反してドスの効いた後輩の声に、筧は「ぴっ」と身震いして持っていた筆の先を揺らす。まるで裏切られたような気分で、本能的に危険を察した。天立里巳は見た目以上に圧力や行動力のある人間である。


「で、聞きたいことって何よ」


 都合の悪くなった筧から話を進めてくれたので、里巳は素直に尋ねた。


「芦間恋奈さんという生徒を知ってますか。以前に先輩が話していた、大伴先輩の才能に挫折して美術部を辞めてしまった三年生です」


「あんたたち……もうそんな情報を掴んできたの? エックス新聞の記者も伊達じゃないのね」


「私は違います。それで、どうなんですか」


 即時否定する里巳を、筧は煽るような顔で笑ってから答える。


「芦間っていう名前には何となく聞き覚えがあるわ。先輩たちの会話でちらっとだけど」


「盗み聞きですか。悪趣味ですね」


「狭い教室なんだから聞こえることくらいあるでしょ! あんた、あたしが性悪じゃないと気が済まないの!?」


 錦野が「だからギャーギャー騒がないでくださいよ!」と焦り出す。吠えるような筧をあしらうと、彼女は不本意ながらも答えの続きを言う。


「改めて言っておくけど、あたしから芦間について言えることは特にないわ。強いて言うなら、大伴先輩の才能には誰が嫉妬したっておかしくないってこと」


「じゃあ大伴先輩はどうですか。芦間さんが辞めた件について、何か言っていたことは?」


「大伴先輩は人の悪口を言いふらすような人じゃないわよ。温厚で優しくて、ちょっと近寄り難い雰囲気のある真面目な先輩。よくわからないあんたたちよりはずっと信用できるわよ」


 口喧嘩の仕返しに台詞を蛇足したが、自覚のある『開かずの間』の原住民たちには何の効果も発揮しなかった。筧は張り合いの無さに一頻り呆れ果てると、次いで訥々と語り出した。


「ただ大伴先輩には……あんまり良くない噂もあるのよね」


 また噂か、と里巳は嫌気が差した。正直もう聞きたくない話だったが、事件解決のためには致し方なし、と鼓膜の拒否反応を抑え込む。彼女の見えない葛藤の間に、筧は「絶対オフレコでね」と念を押した。


「大伴先輩は昔、性被害に遭ったんだって」


「性被害?」


「詳しくはわかんないけど、まあそういうことよ。最悪よね」


 噂話と聞いて楽しそうだった錦野の表情にも雲がかかる。世間話のネタにならなそうな話題は彼の好むところではなかった。


「だから大伴先輩は男性が苦手なの。けどそのトラウマを克服させてあげたのが宮路……らしいわ」


「ボクが会いに行かなくて正解だったね、天立嬢」


 普段なら「そうね」と頷いているところだったが、筧にまで大伴本人に接触したことを話すと、オオエヤマ・リミが天立里巳だとバレる危険がある。里巳はこのキャラクターにはまだ使い道がある気がして黙っておくことにした。


「大伴先輩には色々な噂があるんですね」


「有名だから仕方ないんじゃない。有名税ってやつよ」


 里巳は軽い一言にムッとした。


「私はそう思いません。有名なだけで税金が取られるのなら、資本主義は破綻しています。絵の評価は絵だけで評価されるべきです」


「その意見には概ね賛成したいところだけど……案外そうでもないものよ。芸術家でも小説家でも、クリエイターは有名になれば作品と一緒にその当時のことも研究されるわ。その作品の成立時期に作家は何をしていたかがわかればヒントになるもの」


 一理ある現実を突き付けられ、反論癖のある里巳も僅かに押し黙った。珍しい景色に錦野が反応する。


「へえ。筧先輩って真面目なことも言うんですね」


「あんたらねぇ……これでもあたしの将来の夢は教師なの。乙部先生だって『教師に向いてる』って言ってくれてるんだから」


「乙部先生って、進路指導の?」


 筧が突然名前を出したのは里巳もお世話になっている進路指導の女性教師だった。どうやら彼女も三者面談には彼女を指定しているようであり、乙部という教師の信頼の高さを窺える。


「そうよ。あたし的には宮路なんかよりも乙部先生に顧問になって欲しいくらいだわ」


「乙部先生は美術の先生じゃないでしょう」

 癖が出た里巳に、ちっちっち、と自慢気に指と両方の髪の束を揺らした筧は言う。


「それがね。乙部先生は美大出身なのよ。生徒指導室の中は見たことある?」


「ああ。だから進路指導室にはイラストがたくさんあるんですね」


「そういうこと。元はデザイナー志望だったんだって」


 何の気なしに見ていたイラストだったが、筧の話を聞くに乙部お手製のものも多いのだろう。里巳たちは今度訪れる時にもっと観察してみようと僅かな好奇心を胸に仕舞った。

 そんな話をしている途中で、コンコンコンコンコン、と五回のノック音。部屋中が警戒心に溢れ返るが、合図を知っているのならば問題はないはずで、錦野はゆっくりと外扉を「どうぞどうぞ」と手招きした。

 里巳の目に入って来たのはだらしない猫背でスーツを着た、勝手知ったる国語教師だった。そしてよく見れば見るほど絵の中でタバコを吸う男性に似ている。訂正、絵の方が目を大きく開いていた。


「滝田先生!?」


 筧がその姿に大声で驚くと、突然あわあわとし始めた。前髪や制服の襟を整えるも、既に着崩した校則は取り繕いようがない。しかし滝田はそんなことを気にするタチではなかった。


「何だ。筧も仲間入りしたのか」


「そうなんですよお! 後輩ちゃんたちが快く入れてくれて!」


 筧の声のトーンがさっきとは打って変わって高くなる。里巳と錦野は「調子良いなあ」と目を見合わせた。

 この二人と言えばタバコの件で因縁がある訳だが、滝田は真犯人を知らない。彼自身も終わった話を蒸し返そうとはしていないけれど、迷惑を被ったお詫びの一つくらいあっても良いのではないかとは思っている。ただしその礼節も錦野の勝手な脅迫によって達成されることはない。


「ねえ錦野。もしかして筧先輩が居座ってる理由って……」


「あ、あー。滝田先生、どうしたの?」


 わざとらしく誤魔化す女に里巳が呆れる。今回の件は『生徒と教師の男女関係』という嘘のニュースが発端だったにもかかわらず逞しい人だ。里巳は、自分には一生無縁かもしれない感情の面倒くささを悟った。

 滝田は筧に答えるつもりで、この場の全員に伝わるように言った。


「この教室に来てるってことは、筧もエックス新聞のことは知ってるんだな」


「いたしかたなく、ですけどね。それで今日は何用ですか? サボり?」


 錦野が言うと「お前は俺を何だと思ってるんだ」と滝田が嫌そうな顔をした。すると筧も犬のように唸って錦野を威嚇する。まるで舎弟だ。錦野はそれ以上の軽口を飲み込んだ。


「ここに来たのは報告……というか親切な密告のためだよ」


「密告に親切とかあるんですか?」


「今朝、先生たちの朝礼でエックス新聞の話題が出てな。今後の学内掲示板の利用には先生の許可が必要になるかもしれないんだ」


「えっ」


 一斉に息を飲む声が響いた。確かに滝田の教師という立場を鑑みれば親切なのだが、いかんせん話題に親切さの欠片もない。言葉を失う生徒たちに│経緯いきさつが話された。


「元は新聞部とか委員会含めて、生徒の自主性を重んじた掲示板だったが……今回のことはイタズラの域を超えてるからな。『匿名性を利用して同じようなことが起きたら、真偽問わず学校の信頼を損ねてしまう』とさ。無理もないだろ」


「そんな。滝田先生、反論してくれなかったんですか」


「日頃まともに発言しない人間が、この状況で言い出したら色々疑われるだろうが」

 内心では「使えねー」と思いながら錦野が薄い瞼を歪ませる。


「じゃあ尚のこと犯人を捕まえて自供させないとね」


 里巳の言葉に錦野がうんうん頷くも、滝田はボサボサ頭を掻きながらバツの悪い顔で言う。


「とは言え生徒の行動だったって時点で、掲示板の許可制は認可されちまいそうだけどな。多分、来週には連絡があるはずだ。何かしら対策を取るか、エックス新聞の発行を止めるか……ちゃんと考えておけよ、錦野」


 最後だけはやけに真面目な声で告げられ、記者は「……はい」と不本意そうな返事をするしかなかった。

 すると気の毒そうにやり取りを見守っていた里巳が口を開いた。


「滝田先生。芦間恋奈って三年生を知っていますか?」


「ああ。知ってるぞ」


 アジア産西洋風イケメンがあっさりと答える。生徒たちは三者同一に驚いた。


「本当ですか?」


「ああ。この辺じゃまず聞かない関西弁だからな。一度授業を持ったら覚えている先生は多いはずだ」


「芦間さんを呼び出せませんか? 彼女は……」


 「最も怪しい容疑者なんです」と口走りかけて、里巳は自らの口を制止した。まだ芦間が犯人と決まった訳ではない。確定していない情報を滝田に与えて、教師である彼が芦間に抱く心象を歪ませてしまったら、もし彼女がシロだった時に取り返しがつかなくなる。


「芦間か……確かあいつ、もう私大に受かってて学校にはなかなかこないんだよ。呼び出しは厳しいだろうな」


「そう、ですか」


 もう冬休みも近い。生徒によっては進学先も決まり、自由登校が始まっている者も居る。そんな人物を都合もなく学校へ呼ぶことは、一生徒の権限では間違いなく不可能だ。


「それと来週からは一、二年の三者面談だ。保護者もくるから、この教室を使うなら静かにな。じゃあな」


 滝田はするだけの注意喚起をして、静かに『開かずの間』を後にした。筧が去って行くヨレたスーツの背中を名残惜しそうに見送る。里巳は黙り込む教室で口を開く。


「犯人の特定を急がなきゃ。取り返しがつかなくなっちゃう」


「ああ。滝田先生の言う通り、来週からは面談も始まる。あんまり目立った行動はできない」


「ひとまず怪しいのは芦間恋奈だけど……どうするの? 学校に来てないんじゃあ話の聞きようがないよ」


「もしも芦間が犯人だとすれば、この状況を放置することはないと思うんだ。なにせ告発をするってことは、まだこの学校内で何かしら目的があるってことだからね」


 仮に犯人の目的が宮路の社会的信用を奪うことならば、目的は既に達されてしまっている。しかし塩顔に浮かんだ似合わない眉間の皺たちが必死に焦燥感を隠しているのを見て、里巳はそれ以上の不安材料を渡すことはできなかった。


「ひとまずチャンスを窺うよ。どこかで学校に現れると考えて、必ず捕まえてやる」


 決意の熱気が『開かずの間』中に溢れて、記者のメガネを曇らせた気がした。


 その翌朝、鯉ヶ谷高校には掲示板に関するお触れはまだ出ていなかったが、さらに生徒たちを揺るがす掲示物が貼られていた。

 続報と称された新たな『エックス新聞』。その記事には「宮路の相手は他校の生徒である」と書かれていた。

 当然、錦野たちが認知していない新聞である。

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