第8話

 水曜日。バツ新聞の発行から六日目となり、鯉ヶ谷高校では知らぬ者の居ない噂話の種となっていた。新聞部発行の『鯉ヶ谷新聞』でも「エックス新聞の乱心!?」と銘打ち、全力で犯人を探していると報じた。下馬評では新聞部がとうとう“探偵”を有言実行するのではないかと期待が高まっている。

 そんな生徒たちの声は露ほども知らない里巳は、放課後の『開かずの間』で珍しく髪を上げ、ヘアゴムを咥えていた。慣れないながらも長い前髪を後ろに回し、もみ上げは残してサイドに垂らす。艶のある漆色のポニーテール。素顔が晒されるだけで、まるで別人のような雰囲気になった。

 日本人離れした透き通るブロンズの瞳と、長い睫毛の上にくっきりと彫られた二重瞼。ホクロはなく、鼻筋は定規を立てたようにすうっと細く通り、街行く誰もが「欠点がない」と思うことだろう。

 謎の変身の一部始終を見守っていた錦野は、どこかでメガネがおかしくなったのかと思った。彼が知るダウナーな少女の姿が見えなくなって驚いていたからだ。


「おやおや。どこの事務所にお入りで?」


「くだらない冗談は要らないわよ。それよりも、何か情報は手に入ったの?」


 普段通りの声を聞いて錦野がふるふると首を振る。今日一日至る所で地獄耳を働かせていたが、彼らが追いかける一件について語る生徒の話は、どれも「エックス新聞の発行者って……」とか「宮路と関係がある女子って……」などと謎の人物についてあらぬ推測を言うだけだった。


「やっぱり、核心的なことはわからないままね」


「申し訳ないよ」


「ま、そうだと思って、こんな恰好をしたのよ」


 錦野が頭上にハテナマークを浮かべるので、里巳は自らの妙案を呈した。


「これから大伴美羽に会ってくるわ」


 疑問符はビックリマークに変化した。そして他人を利用することには躊躇いのない錦野が思わず問うてしまう。


「良いのかい。協力は有り難いけど、表立って天立嬢が動けば、きみがエックス新聞の犯人として疑われてもおかしくないよ」


「ポイ捨て犯以外の美術部員に錦野が話を聞く方が危険度でしょう。それに、会うのは私であって私じゃないから……錦野。何かテキトーに名前、頂戴」


 里巳がそう言うと、目の前の記者が途端に面白そうな笑みを浮かべる。『在籍していない生徒の噂』のような記事が頭に浮かんだ様子だったが、エックス新聞に使えるかどうかは微妙なところだった。

 新しい名前決めにたっぷり十数分を要し、時間の無駄遣いを自覚した里巳は、すぐに早歩きで特別教室棟の階段を上った。


 里巳の目的は大伴美羽と接触し、直接話をすることだった。現在の美術部の内情は、筧では二年生しかわからない。ならば他の美術部を当たるのが道理だが、いかんせん立場を隠している錦野から直接コンタクトを取るのは難しかった。

 そしてもちろんのこと、里巳も大っぴらに動けば疑われる立場だ。だからこそまったく別人の様相へと変わることで目的を達成しようとしている。


 錦野が見立てた通り、美術室の暗がりに対して扉越しに目を凝らすと、セーラー服を着た大きめの背中が見えた。里巳は扉の引手へ静かに指をかけると、最低限の音だけで教室に入って行く。

 『こちら側、美術部』という張り紙付きのロープは、少し前に訪れた時と変わらない様子だ。しかしその先にあるいくつかの絵は進化を遂げ、さらに洗練されている。

 特に目を引くのは、やはりあの男女が抱き合っている絵だ。神秘的で、かつ生々しさがある。人の情欲と、その間にある定規では測れない感情を絶妙に表情や肉体へ投影している絵画。

 それと似たタッチで別の絵を書いているのは一人の少女だ。少女と呼ぶにはかなり発育が良く、猫背で座っていると男子並みの厚みを感じる。しかし、ふくよかというよりは、グラマーで女性的な体つきに見えた。長い髪は少しウェーブがかり、ボリュームのある見た目になっている。


「……」


 作品へ真剣な眼差しを向ける少女は里巳の存在に気づきもしない。里巳もその集中力に気押されるように、教室の扉を閉めてしばらく待つことにした。

 ゆっくりと色が増えていく。雨の日の道に水溜まりができて、浮かんだ虹が反射するように、絵は美しさを増していく。描かれているのは、図書館と思しき場所で佇むように本を読む老婆だ。少し引いたアングルで体全体を写し、辺りには別の小さな手のひらがいくつもある。

 美しく年老いた女性が慕われながら余生を謳歌している。そんな想像がすぐに膨らむような作品だった。


「ふう」


 大伴が自らの作品を眺めて一息ついたところを見計らい、里巳は十分以上閉ざしていた口をようやく開いた。


「失礼しています。大伴美羽さん」


「え……?」


 集中していた大伴は、石を落とした後の水面みたく跳ね上がって驚く。そして人の存在に次いで、露わになった里巳の美貌に愕然とした。


「あなた、誰?」


「二年のオオエヤマ・リミです。制作の邪魔をして、ごめんなさい」


 学年も名前も偽った。

 『オオエヤマ』は「大江山、いく野の道の、遠ければ、まだふみもみず、天の橋立」の句から取ったらしい。天立という苗字からそれを連想できる錦野の知識量は流石だが、わざわざ珍しい苗字を付けたがるネーミングセンスはどうにかならなかったのかと里巳は諦念を浮かべた。せめて名前の方は普通にしようと、本名をもじって『リミ』とした。

 さて、偽名はさほど重要ではない。ここで里巳がすべきは、錦野が接触しづらい大伴から情報を引き出すことである。しかし利益と不利益に行動原理を支配されがちな里巳があの新聞記者よろしくフレンドリーに情報を開示させる技術を持っているはずがなかった。


「この教室、宮路先生が居ないのに使っても良いんですか? 私の記憶が正しければ、先生は勝手な行動にかなり厳しかったように思うのですが」


「……許可はちゃんと取っているわ」


「なるほど。では大伴先輩が宮路先生のお見舞いに行った生徒なんですね」


 里巳があっさりと指摘してみせると、大伴は「何でそのことを……!」とあからさまに驚いた。わかりやすい反応は、あまりにも「犯人」と言うには素直過ぎる――里巳にはそんな風に感じた。

 新聞部のリサーチ力は確かだが、予想が外れていることは多い。大伴に対する警戒度を一つ落としつつ、会話の主導権を握りたい里巳はさらに言った。


「こんなに綺麗にカマにかかってくれるとは思いませんでした。宮路先生に教室の利用許可を取るだけなら、電話でも構わないでしょうに」


 突然現れた後輩の指摘に、温厚そうな大伴の顔が曇る。


「あなたは一体何なんですか。私に何の用事があるんです」


「大伴先輩もご存知かと思いますが、宮路先生の噂について調査している者です」


「もしかして、あなたがエックス新聞の発行者……?」


「そうだとしたら?」


 大伴は筆を捨てるように置いて、目の前のセーラー服に掴みかかった。さっきまでのおどおどした態度はどこへやら、一回り大きな身長が里巳を圧倒する。

 そんな中、見た目よりも感情的な人だ、と当の里巳は俯瞰的に見ていた。近くで観察すると指先や髪が荒れている。元々なのか、今の状況におけるストレスなのかは判別がつかなかった。


「ふざけないで! あんな記事書いて、よくものうのうとこの教室に入れたわね」


「まだ、何も言っていませんよ。その手を離してください。宮路先生の件に続いて、美術部員が暴行事件を起こしたなんて噂が広まったら、コンクールへの参加すら危ぶまれてしまいます。せっかくそれほど美しい作品を描いているのに、勿体ない」


 そこまで言うと、大伴はハッと気づいたように手を緩めた。そうして離した先で悔しそうに握り拳を作り里巳を睨む。


「あなたの勘違いを一つ訂正しておきますが、私はエックス新聞の発行者ではありません。そして宮路先生の噂を流したのは、本来のエックス新聞の発行者ではないのです」


「え……?」


 困惑する大伴に、里巳は事のあらましを話した。エックス新聞は現在、里巳たちが『バツ』と呼ぶ第三者に利用されている状況であること。犯人を突き止めて、発行の停止と自供をさせるつもりであること。その調査をするために、今回の件と関わりの深い美術部員に話を聞こうと偶然見つけた大伴に話をしに来たことを伝えた。

 もちろん大伴が宮路と不倫関係にあるのではないか、という点は伏せて。冷静に話を聞いた大伴は、頭の中をまとめるように確認する。


「ええと、つまり……宮路先生の噂を流したのは別に居て、エックス新聞はその偽物に利用されただけっていうこと?」


「その理解で正しいです。第一、あんな記事を流した張本人だとしたら、美術部員の前には顔を出せませんよ」


「それじゃあオオエヤマさんは、本物のエックス新聞の発行者なの?」


「私が今そのことを否定しても、おそらく信じてもらえないとは思いますが……発行者は私の知り合い、とだけ。これ以上のことは話せません」

 大伴は当然のように怪訝な顔を作る。一方の里巳は毅然とした態度で言い放った。


「あなたがた美術部員がお困りのように、私の知人も困っています。ご存知の通りこのままだとエックス新聞は存亡の危機ですし、何より宮路先生を陥れた黒幕によって私の知人まであらぬ罪を被せられてしまう。私はそれを阻止したい」


「それは……あなた自身に何かメリットがあるんですか?」


「……」


 間髪入れずに尋ねられた質問に対して里巳は押し黙った。

 今回の件を損得勘定で考えるならば、里巳が協力する理由は殆ど存在しない。強いて言えば「錦野に恩を売ること」にでもなるのだろうが、彼とは「『開かずの間』の利用の代わりにエックス新聞へ協力する」という契約、もとい口約束を交わしている。だから普段通り記事を考えるくらいの労力までは認めているが、それ以上は錦野だって求めない。

 ならば里巳を動かすのは、勘定ではなく感情だ。フェイクニュースで傷つく人を見たくない。それが錦野という、いくら友人とは呼べなくても里巳にとって数少ない近しい人物であるならば尚更である。

 考えれば実にらしくない行動をしている。ただしそれは天立里巳という少女の物語だ。そう割り切ってしまえば『オオエヤマ・リミ』の演技に身を投じるのは難しくなかった。


「いいえ。私には、特に」


 今の問答で里巳は、大伴に「オオエヤマ=エックス新聞の発行者」という認識ができてしまったことを悟った。しかし調査の上では問題ない。むしろ錦野を発行者から遠ざけたと思えば、この判断は間違いないと思った。


「わかりました。それで、私は何をしたら良いんですか」


「協力してくれるんですか?」


「ええ。だって宮路先生を陥れた犯人を探すのでしょう」


 思っていたよりもずっと協力的な態度を取ってくれたことに驚いてしまう。もし里巳自身が大伴の立場ならば、こんな胡散臭い人間は確実に信じない。それほどまでに宮路を慕っていて、藁にも縋る思いで彼を助けたいと願っているように見えた。

 果たして、大伴は正直者か否か。それを探る意味でも里巳は質問した。


「偽エックス新聞の噂、その真相を知りませんか。宮路先生は本当に美術部員との関係があったのかどうか」


「先生に限って、そんなことっ」


 座り直した椅子から飛び出す勢いで大伴が反論しようとする。しかしすぐに美術室の使用が内密であることに気がついたのか、腰と声のトーンを落とした。


「……ある訳ないわ。確かに先生は厳しくて嫌われがちだけど、生徒のことを誰よりも見てくれている人よ。教師として、あの人以上の先生は居ないわ」


「何か、訳アリみたいですね」


 大伴がそこまで言うからには、宮路という教師との関係は単なる師弟ではないようである。彼女は頷いてこう話した。


「先生は私の恩人です。私のせいで同級生の子が部を辞めた時も『きみの才能はそれだけ人の心を揺さぶるんだ』って……私、その言葉があったから、これまで続けてこれたんです」


 錦野が拾って来た噂通りだ、と里巳はすぐに思い当たった。正直なところ眉唾なのではないかと疑問はあったが、芸術に疎い里巳の目すら惹き付ける魅力が大伴の作品にはあった。同じ美術部ともなれば、受けた衝撃は凡人には計り知れないだろう。


「その辞めてしまった生徒はどなたですか」


「三年の……芦間恋奈あしまれなさんっていう、いつもショートカットの女の子。私も部活が一緒だった一年生の頃しかまともに話していないけど」


 芦間恋奈、と里巳は頭の隅にメモをした。現時点ではこの事件で最も怪しい人物だと仮定している。過去の動向から考えると宮路や大伴、ひいては美術部を逆恨みしていてもおかしくない。


「過去にそういったことは、他にもありましたか? あなたの作品に嫉妬したり、あなた自身が嫉妬されたり」


「もしかして、私が宮路先生の件に関係しているんですか? 私のせいで先生に何か……」


「今のところは何とも言えません。状況的には宮路先生への怨恨、という風に見えるので。私が探っているのはあくまで可能性です」


 里巳としては、大伴が愛人でも驚かない自信があった。それほどまでに大伴は宮路を慕っているように見える。愛情にも見える思慕を証明するかのごとく、目の前の大伴が厚みのある体を曲げた。


「オオエヤマさん、お願いします。宮路先生を助けてあげてください。今、先生は入院しているせいで生徒に弁明もできない状況です。本人は『嫌われている教師に変な噂が立つのは仕方ない』なんて割り切っていましたが、このままでは学校に居ることもままならないかもしれません。宮路先生はお世辞にも生徒に好かれているとは言えないけれど、誰にでも真摯に向き合ってくれる人だってことは間違いないんです。だから……お願いします」


 お願いなんて言われても、とすぐに口走りそうになった。里巳は一度噂が流れてしまえば取り返しがつかないと知っている。事実でなくとも、宮路には今後も「不倫教師」のレッテルが纏わり続けるのは確定してしまっているのだ。

 しかし見過ごすのは寝覚めが悪い。自らの行動の発端を思い出した里巳はたどたどしくも応えた。


「助けることはできないかもしれません。ただ……犯人を突き止めるのが私の目的です。結果として宮路先生の汚名を少しでも雪ぐことができたら、先輩の『お願い』に微力でも応えることができるでしょう」


 それを聞いた大伴の顔は、ランプの火を灯したように明るくなった。里巳は彼らの関係を疑うことは止めなかったが、少なくとも大伴の純粋さだけは信じられるような気がした。

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