第5話

 錦野が何やら一計を案じたせいで、今日の『開かずの間』での集会は解散することとなった。時間を確認するとまだ五時前で、いつもの解散よりは一時間程度早い。家に帰るのがあまりにも早いと色々と不都合なので、里巳は特別教室棟三階の図書室で時間を潰すことにした。

 大して興味もない話題の小説を手に取り、席について五分で冒頭を読み終えた頃、苦みのある甘い果実の香りが鼻に届いた。


「やっぱここだったか。天立」


 僅かな息切れは彼女を探して階段を上ったからだろう。西洋風の彫りの深い顔が、ヨレたスーツを整えながら里巳を見下ろしていた。その顔が普段の授業の時よりもずっと真剣味に溢れていたので、一つの躊躇いもなくパタンと本を閉じる。


「こんにちは、滝田先生」


「平然としてるなあ。俺が何を聞きに来たかくらいわかってるだろ」


「『犯人は本当にお前たちなのか?』ですよね。答えはもちろんノーですよ」


 日頃、授業か『開かずの間』でのサボりでしか会わない滝田がわざわざ話をしに来たのだ。滝田の懸念は手に取るようだったし、彼もまた里巳の答えは予知できていた。


「そんなことはわかってる。錦野は知らんが、少なくともお前がニュースで人を傷つける訳ないからな」


 滝田ら三十代の人間には、里巳の両親はいわゆる世代ドンピシャの時の人々だった。数々の連続ドラマに出演した彼らの不倫記事は滝田周辺の世間話を大いに賑わせた。だからこそ嘘の報道を里巳が酷く嫌っていることも知っている。

 二人は静かな図書室の外へ出ると、近くの階段の踊り場で話の続きを始めた。


「やっぱり別に発行者が居るんだな?」


「はい。私と錦野は犯人を探すつもりです」


「探して、どうする?」


 それが滝田の最も尋ねたいことだった。まだ青葉でしかない人間は、そうでなくとも人は、時に未来を見ずに何かを成し遂げようとする。その意志が他人に向いた時の恐ろしさを滝田は知っているのだ。

 今回の件は里巳の両親に訪れた不幸の規模縮小版と言っても良い。果たして、里巳は寸分の迷いもなく答えた。


「悪意があったなら名前を公表するべきだと思います。もしも誰かがエックス新聞の記者の正体が錦野だと気づいてしまったら、彼はこの悪行の罪まで被ることになる。そうならないためにも、悪いことをした人は裁かれるべきです」


 今でも里巳は、両親の記事を捏造した週刊誌の記者だって何らかの罪に問われるべきだと思っている。今回も同じだ。宮路のことが真実かどうかはともかく、錦野という罪無き人間に最悪のレッテルが貼られる前に阻止したい。

 傍目には悪を滅する状況にも見えるが、そこにある種の危険性を孕んでいることを滝田は知っている。


「お前に正義感があることを否定はしない。だが肯定もしない。人間、一度レールを踏み外したからといって社会に戻れないんじゃ救いがないからな」


 どの口が、と里巳は思った。滝田は教師として正しいことを言おうとしているが、バレなければ違反行為でもやるタイプだ。彼女の小さな耳には自己保身にしか聞こえず、少女は滝田の言葉を婉曲して受け取った。


「さすが、車内喫煙者は違いますね」


「痛いところ突くなあ……でも気をつけろよ。学校なんて狭いコミュニティの中じゃ、上手く立ち回らないとすぐに悪者だ」


 実感のこもった様子で言った西洋顔に、里巳はニヒルな笑みを浮かべる。


「だから『黙認する』ですか?」


「まったく、嫌味ばっかり言うなよな。せめて錦野を見習えってことだ」


「肝に銘じておきます」


 どの口が、と思ったのは、今度は滝田の方だった。しかし滝田としても「天立は馬鹿なことをする生徒ではない」という認識があるため、これ以上の弁舌は徒労だろうと諦める。


「何か必要なことがあれば言え。借り一つ分は手伝ってやるから」


「わかりました。その時は頼りにしています」


「話はそれだけだ。せいぜい気をつけて……」


 再三の忠告をしかけた時、遠くから「天立さん!」と大きな女性の声が里巳を呼び止めた。里巳と滝田はびくっと肩を跳ねさせながらも、聞き覚えがあったから素直に振り向いて応じる。


乙部おとべ先生。こんにちは」


 階段の上から降りてくるのは一つ結びと中肉中背のシルエットの女性だ。窓から入る太陽の光を僅かに返す薄黄蘗のカーディガンと黒いパンツで、前髪を垂らさない髪型は模範的なオフィスカジュアルなスタイルである。

 里巳は乙部を美人だとは感じていないが、ナチュナルメイクがうまい人だと評していた。元々は凹凸をあまり感じない顔にうまく影を作っており、低めの鼻や一重は目立たなくなっている。

 ただし里巳の化粧の経験と言えば、幼い頃に母親のドレッサーの中身をぐちゃぐちゃに荒らした程度で、まともにオシャレを楽しもうと思う年齢になった時にはすっかり人目を集めないことばかりを気にするようになってしまった。なので正しい評価はわからない。

 さて、三人は踊り場で顔を突き合わせると、乙部が会話を切り出した。


「良かった。なかなか見つからないから、明日には担任の先生に言って呼び出そうかと思っていたの。滝田先生、天立さんを進路指導室にお借りしてもよろしいですか?」


「ええ、どうぞどうぞ。俺の用件は済んだので」


 滝田があまりにも保護者然とした言い草をするので、里巳は睨み顔でだらしない大人を見送ってから、乙部に言われるがまま進路指導室へ寄り道していくことになった。


 鯉ヶ谷高校の進路指導室は少し不思議な場所だ。部屋の広さとしては教室の三分の二程度。様々な地元大学の資料や赤本、問題集などがあって、勉学教材の図書室とも呼べそうな場所である。

 そこまでは割と普通なのだが、異質なのは内装だ。最も目を引くのは、雑貨店に売っていそうな、動物をモチーフにした可愛らしい手製のイラストが両面テープで壁にたくさん貼られていた。一般的な公立高校の教室と言うよりは、なんとなく学童保育施設のような柔らかい雰囲気のある教室になっている。多くの生徒はこの教室がどうしてこのように厳格さからかけ離れた仕様になっているのかは知らず、稀に訪ねる里巳も例に漏れなかった。

 乙部の質問に大方の予想がついていた。その憂鬱も相まって低くなりかけた声のトーンをどうにか押し上げて「どうかされたんですか」と聞く。乙部はにこりと人当たり良く笑いかけた。


「念のため確認をしておきたくて……来週の進路面談、本当に担任の先生じゃなくて良いのね?」


 鯉ヶ谷高校では二年生へ進級すると同時にクラスが文系と理系に分かれる。おおよそ文系の方に人数が偏り、文系か二クラス、理系が一クラス、文理合同が二クラスとなるのが通例だ。来週に予定されている三者面談は、生徒と保護者、担任の教師を含めて文理選択の確認を行うものだった。

 そして鯉ヶ谷高校では、生徒側の希望があれば面談時に他の教員――とは言っても担任を持たない保健室の先生や、目の前の乙部くらいのものだ――に代理で行ってもらうことができる。里巳は夏休みにあった三者面談も、乙部に代理を頼んだのである。


「……はい」


 予測はできていたのに取り繕い切れなかったのは、ここには居ない家族に対する罪悪感からだった。少女の様子を察した乙部は、困り顔を作りそうな表情筋を無理やり押し広げた。


「そっか……おばあちゃんには、まだ本当のことを言えてないのね」


「すみません」


「ううん、謝らなくて良いのよ! 私が進路相談室に居るのはこういう時のためだもの。気にしないで」


 かぶりを振った一つ結びが大きく揺れた。


「じゃあ面談の時は、前みたいに『ボランティア部で頑張っている』って言っておくわ。天立さんも話を合わせてね」


「わかりました」


 現在の里巳の所属は、乙部が顧問を務めているボランティア部となっている。しかしあくまで書類上の話だ。実際には幽霊よりも透き通った部員で、里巳は一度もその活動へ足を運んだことはない。


「確認したかったのはそれだけよ。困ったことがあったら、また言ってね」


「ありがとうございます」


 里巳がどうにか口にした感謝の言葉には、言葉以上の意味は微塵もなかった。そそくさと乙部に背を向けて進路指導室を出る。こんな時ばかりは、自分の容姿にも自信が持てなくなるくらい心が醜く見えるのだ。


 国道沿いにしばらく自転車を走らせたら、近くには古くなった電灯と畦道ばかりが広がっていく。鯉ヶ谷高校から三十分ほどペダルを漕ぐと、その小さな家は見えてきた。築四十年の二階建て和装建築で、近くには野菜畑がある。都会離れした風景は一言で言えばみすぼらしくもあるが、土の香る空気は人混みの中では味わえない清涼さがあった。

 里巳は元々豪邸と呼んで差し支えないほどの家に住んでいたが、今はこちらの家の方がずっと落ち着くようになった。昔の家はいつ誰が見ているかわからなかったから。

 自転車をトタン屋根のバックヤードに押し込むと、里巳は砂利の庭をゆっくりと歩いて玄関に入った。早々コンソメの匂いがして、寒い空気に当てられた鼻が幸福感を覚える。


「ただいま」


「おかえり、さとちゃん」


 リビングからゆっくりと喋る嗄れ声が聞こえてきた。声の主は里巳がローファーを脱いでいる間に玄関へとやってくる。里巳がこの世で唯一信頼を置く祖母、天立枝都子えつこだ。

 僅かに黒が混じるシルバーの髪を短めに揃えており、女性的な体付きが無ければ老父にも見える厳しめのつり目をしていた。薄く施した化粧では隠し切れない皺がたくさん浮かんでいて、七〇年分の歴史が刻まれているかのようである。

 彼女は手製のエプロンを締め直しながら里巳に尋ねた。


「今日は部活だったのかい?」


「うん。そうだよ」


「そうかい、そうかい」


 平然と吐かれた嘘に対して、枝都子は疑う素振りもなくとても嬉しそうに語る。その顔を見た里巳は風で荒れた前髪を直した。いつものように目元を隠して、敢えて祖母と視線を交わすことはしない。


「良かったよお。さとちゃんが『普通』に学校に通えて」


「……うん」


 里巳の前から両親が居なくなり、孤独となった彼女は簡単に周囲から冷ややかな目を向けられるようになった。いじめ紛いのこともあったし、毎日のように家に詰めかけてくる週刊誌やテレビ局の記者たちには恐怖心を植え付けられた。

 里巳の人間不信は未だに改善されていない。しかし、無二の味方である祖母に心配をかけることがとても心苦しくて、どうにか『普通に学校へ通う女子高生』を演じている。幸い俳優だった母親の影響か、人前で感情を隠すのは得意だった。


「じゃあ私、部屋で勉強してる。ご飯になったら呼んでね」


「はいはい。頑張ってね」


 そう言って枝都子はリビングへと戻り、晩ご飯の支度をし始める。里巳は聞こえないくらいのため息を吐くと小ぶりな洗面所で手を洗い、二階にある自室へと閉じこもった。

 里巳は今日の授業の振り返りをしようと日本史のノートを開いたが、頭にはずっと偽エックス新聞――もとい『バツ新聞』の記事が染み付いている。集中できない苛立ちを抱えるくらいならとベッドへ転がり込み、復習へ回すはずだった脳のリソースを割く先を変えた。


「攻撃的な悪意があるのは明白……よね」


 里巳としては、どんなことであっても悪意のない可能性を探したい。先のタバコのポイ捨て然り、何にでも明確に人を陥れようとする考えがあるとは限らないからだ。里巳は人を信じてはいないが、夢を見ることを諦めた少女ではなかった。

 ただし今回は、両親のことを彷彿とさせるような事案である。犯人は宮路の名前を公にしている。宮路と教え子の不倫の真偽はわからないにしても、里巳からすれば報道を行った者は間違いなく悪者に他ならなかった。

 ――これは自己満足だ。私の鬱憤を晴らすための。

 しばらくは他のことに集中できそうにない。期末テストが終わった後で良かったと、里巳は心底思わされた。


 夜の食卓に並んだのは、粟の入ったご飯に手作りの餃子、さらにベーコンの入った野菜スープというラインナップだった。見た目は簡素だが栄養価は気にかける。そして和洋中様々に入り混ぜるのが枝都子流だ。

 二人はよく似た声で「いただきます」を重ねてから箸を動かし始めた。食欲をそそるニンニクの香りを里巳が遠慮なく頬張っていると、枝都子が思い出して尋ねた。


「さとちゃん。来週は面談だよね?」


「……あ、うん。そうだね」


「前はただの面談だったけど、今回は来年の文理選択に向けてってプリントに書いてたよ。さとちゃんはどっちにするつもりなの?」


「まだ決めかねてるの。国語も生物も好きだし」


 どちらも里巳の得意科目だが、文理のどちらを選択しても、両方とも授業自体は受けることができる。しかし専門性に偏りが出るため悩みどころであったのだ。


「そうかい。まあ、前の先生も『里巳さんは優秀』って褒めてくれてたからねえ。どっちの道を選んでも、さとちゃんなら大丈夫だよ」


「うん、頑張る」


「そう言えば今回は、担任の先生と話すのかい? それとも前みたいに進路相談の先生?」


「今回も乙部先生にお願いするつもりなんだ。私のことをよく知ってくれているから」


「じゃあ前の先生と一緒なのね。おばあちゃんも緊張しなくて助かるわ」


 枝都子はわざわざ胸を撫で下ろす仕草まで含めるが、孫娘には軽いジョークにしか聞こえない。枝都子は「誰とでも」とまでは言わずとも、柔らかな物腰で大概の人間と打ち解けることができる。一度は喋ることもままならない程の人間不信になった里巳の心を開いたのは、ひとえに祖母の根気ある優しさだったのだ。


 話を元に戻すと、少しだけ人を信じられるようになった里巳の中では、進路相談の乙部はかなり信用の置ける教師だ。彼女は担任こそ持たないが、教育熱心で生徒の進路を第一に考えており、禁煙の駐車場でタバコを吸っていた教師とは大違いだと思っている。だから一緒に暮らしている祖母を悲しませないために、こんな嘘にも協力してくれた。


 ――もしこれが嘘だとバレて、おばあちゃんを傷つけてしまったら、私はお母さんを殺した記者と何が違うの?


 この嘘をついてからずっと付き纏う疑問が里巳の心で反芻される。

 嘘を吐くとは、痛みを与えること。フェイクニュースによって家庭を壊された彼女が人一倍気にかけるようになった現実だ。祖母もそうして気に病んでいる里巳を見てきたから、彼女が自分に嘘をついていると知ればきっと傷つくだろう。物事全てに善悪の区別があるのなら、里巳は自分の居場所をよく理解していた。

 決して祖母に知られる訳にはいかない秘密。考える度に喉につっかえそうになる気持ち悪さを粟入りのご飯で飲み込んだ。

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