第11話 彼方の君

 金曜日、文化祭はやって来た。久瀬高校の文化祭は、金曜に久瀬高内々で行われ、土曜に一般客にも公開する。

 つまり今日はまだ、外部からの客が来ない。明日に向けた予行演習と考えてもいいのかもしれない。一般客が来れば忙しくなるだろうから、他のクラスや部活の展示を楽しめるもの今日だけだろう。

 このシフトが終わったら色々遊んでみようか、などとぼんやり考えながら、「いらっしゃいませ」と声を上げる。

「ここ、入ってみようか」

「うん。楽しそう」

 ねんごろな男女が足を止め、一層身体をくっつけた。僕はにこやかに、覚えた台本を口にする。

「僕達一年五組の企画では、消化の仕組みを、アドベンチャーを通して皆様に体験して頂きます。きっと教室を出た時には、消化に対する意識がきっと変わっていることでしょう! 勿論、途中には楽しいゲームも沢山用意しています! 是非、体験してみてください!」

「いいね。入ってみよっか」

 僕は会釈し、歓迎する。

「はい。ありがとうございます!」

 僕は二人に食品が描かれた紙の帽子を渡し、「今から食品となって、一年五組くんに食べて貰います。彼の体内で消化されてください」等々の簡単な説明をし、

「では、行ってらっしゃいませ」

 僕はアルミホイルで巻かれた、巨大な段ボール製のフォークで二人の背中を押した。

「きゃ」

「あはは、面白いね」

 行ってらっしゃいませ。消化されてくださいませ。そして……その先は言うまい。

 ピッチフォークを持ちながら、不敵な笑みを浮かべる僕は、さながら悪魔のようであったに違いない。


「お疲れ、石澤。変わるよ」

 クラスメイトの中島くんが、たこ焼きを抱えながら来た。時計を見ると、もう一時間経っている。

「うん。じゃあ、よろしく。帽子はそこの段ボールに入っているから」

「おう」

 僕は巨大フォークを渡し、お役御免。小さく伸びて息を吐く。さて、どこに行こうか。客の少ない今日、文芸部はもう店を閉じている。クラス企画にも、文芸部にも、僕の仕事はもう無い。

 このままクラス展示の手伝いをしてもいいが、しかし折角の文化祭。少しばかり遊んでもいいだろう。僕は当てもなくぶらりと校内を巡った。

 文化祭は五時半に終わる。そして、五時には外せない用事がある。現在の時刻は四時。あと一時間は暇なのだ。

「いらっしゃいませ!」

「ぬいぐるみ、販売してます!」

「カフェで一休みしませんか」

 校内に、様々な勧誘が溢れている。目移りばかりしていても仕方無いので、適当に入って適当に遊んだ。

 それにしても。

 ふう、と一息。和風喫茶で抹茶を飲みながら、文化祭のことを考える。

 入学して間もない頃は、文化祭など遙か先のイベントで、成長した僕達が何か特別なことを達成するのだろうな、などと考えていた。しかし、夏休みが明けたらあっという間で、思ったより手間も時間も掛けることができなかった。所詮は学生の出し物なのだ。

 と、昨日思ったばかりなのだが、いざ当日を迎えて客が入ると、なんだか立派に見えてくる。素晴らしい体験を提供できたようで、少し誇らしい。……まあ、あまりクラス企画に参加していないのだけれども。

 それでも、中学生の時に久瀬祭で覚えた胸の高まりを、少しだけ思い出した。

「次はどこに行こうかな」

 パンフレットを広げ、企画一覧を眺める。隣の芝生というわけではないが、自分が関わっていない企画は、なんだか趣向が凝らされているように思える。こうしてパンフレットを眺めているだけでも、興味の引かれるものが幾つか見つかった。

 とはいえ、何か目的があるわけでもない。首を傾げながら、しばらくパンフレットを見つめる。

 今から一時間。決して短くはないが、しかし全てを楽しむには全く足りない。明日はクラス展示と文芸部の売り子で、大変忙しくなるだろう。遊ぶ余裕はないはずだ。

 必然的に訪れることのできない教室が出てくる。それは少し勿体ない気がしてしまう。選ばなかった教室で、一番の思い出ができる可能性だって捨てきれない。そんな気がかりで、僕は足踏みしてしまう。

「やめよう」

 パンフレットを閉じ、席を立つ。考えている時間が一番勿体ない。こういう時は、行動してしまうに限る。

 僕は謎を解くことが好きで、普段は考えることが多くなってしまう。今日くらい考え無しに行動したってバチは当たらないだろう。

「ご馳走様でした」

 僕は早速、和風喫茶を後にして、とりあえず目の前の教室に飛び込んでみることにした。

 そこはなんとお化け屋敷。

 僕は苦笑しながらも、暖簾をくぐる。大丈夫。だって幽霊なんていないのだから。

 ……数分後、その教室から男子生徒の情けない「うひゃあ」が聞こえたことは、言うまでもない。


 そうして遊んでいると、一時間などあっという間で。

「そろそろかな」

 時計の針は、もうじき五時を指し示そうとしていた。僕は階段を上って最上階へ向かう。校舎の最果て。そこに目的の教室がある。

 鉄製の少し重たいドアを開ける。中には生徒が数人入っていた。予想よりもやや少ない。目玉、とまでは言わずとも、注目度の高いイベントだと思っていたので少しだけ驚いた。しかし思えば、このイベントは一日通してタイムスケジュールが組まれている。さすがに文化祭で一日中、この教室に留まる人はいないだろう。その上、後夜祭でも彼等には出番があるそうなので、わざわざ最上階の奥まで足を運ぶ人は少ないのかもしれない。

 と言っても、すっからかんというわけでもなく、すいすいと前にはいけるけれど、人を避けて蛇行しなければ前に進めない程度には人が入っていた。

 今は準備中らしく、グランドピアノの横に作られた簡易的なステージには、誰もいない。ステージにぽつりと置かれたマイクスタンドと、その他諸々を眺めること数分。

「お待たせしました!」

 進行役の生徒が声を上げた。その声に反応して教室の照明が落ち、代わりにスポットライトがステージを照らした。

「続きまして、カルト・オ・カルトの皆さんです!」

 歓声が上がった。隣の合唱部屋(僕達が音楽の授業で合唱の際に使っているだけで、本来の用途は別かもしれない)から、五人の女子生徒が現れた。

 その内の一人と目が合った。彼女は少しだけ驚いたように目を見開き、そして呆れたように笑って、目を逸らした。

 彼女……一柳さんは、黒いギターを首から提げている。

 一柳さんはしゃがみ込み、足下の機材を弄った。音響関係の機材だろうか。赤いボタンを押したり捻ったり、少し忙しそうだ。

 そしてその僅かな静寂の後、機材の調節をしていた一柳さんが顔を上げた。由香さんと目を合わせ、二人は小さく頷いた。と思ったら振り返り、ドラムの前に座った小西さん、キーボード、ベース担当の子にそれぞれ目配せをした。

 そして。

 タンタンタンシャン、とドラムが鳴った。自己紹介も、バンド紹介も、曲の紹介もないまま、突然鳴り始めた音楽に少し肝を抜かれた。

 薄暗い教室で、横顔を照らされた一柳さんの髪がつやりと揺れ、

「……!」

 ギターの音が、音楽室に鳴り響いた。

 閉ざされた音楽室で、彼女が鳴らしたギターの音がアンプを通って反響している。割れてしまうほど大きく膨れ上がった音が……一柳さんの鳴らしたその音が、僕の胸に響いている。

 それは比喩表現ではなく、単純に、物理的に、大きな音の波が空気を震わせて僕の元にまでやって来て、そして心臓さえも揺らしてしまっただけなのである。

 けれども。本来それほどの大きな音を聞けば、誰だって不快になるだろうに、その振動を僕はとても心地良く感じた。

 胸が震えた。

 一柳さんのギターを追いかけるように、他の楽器の音も重なる。音楽室が、音楽で満たされていく。

 やがて、すっと息を吸い込む音が聞こえ、一柳さんの歌声が楽器の音に乗った。

 歌詞はわからない。

 恐らく日本語ではあるのだが、よく聞こえなかった。楽器の音が大きくて、マイクからの音がはっきりとは聞こえないのだ。

 しかし、それで良かった。胸を叩くような楽器の音圧に、柔らかく重なる彼女の歌声は、優しくすっと胸に落ちてきた。

 その歌を聴いて、僕は少しこれまでのことを思い出した。この歌が胸を叩いたからこそ、思い出した。

 一柳さんは小説が書ける。ギターを弾ける。歌を歌える。そして何より、それらで人の心を動かすことができるのだ。

 あの夏休み……僕が日陰の世界で停滞していたあの夏の日、彼女も僕の隣にいて、同じ倦怠感を共有しているのだとばかり思っていた。しかし違った。一柳さんは前に進んでいたのだ。小説を書いて、そしてバンドの練習もしていた。

 そう考えれば、謎が解ける。この二週間で、何度も一柳さんが見せた表情。僕に向けた憐憫。それの意味がわかる。

 あれはやはり間違い無く、僕を憐れんでいたのだ。夏休みという長期休暇、僕は何もしなかった。課題が唯一の作業で、その達成ごときに一喜一憂していたのだ。

 そして、あまつさえ僕は、一柳さんも同じ状況なのだと思っていた。オカルトマニアで文芸部に所属している彼女には、打ち込むべきものなどないだろう。そう考えてしまった。……否、その考えを一柳さんに押しつけた。

 仲間がいる状況に甘んじて、僕は安心してしまったのだ。

 そんな僕を見て、「実は私にはやるべきことがあったの」なんて言えただろうか。「小説にバンドに、とても充実した夏休みだった」なんて、その裏切りとも言える行動を白状できただろうか。

 ……一柳さんには、無理だったのだろう。

 思えば、勝手に文集を発行したことも彼女らしくない。小説を読まれることが恥ずかしいなどという理由で、僕の確認もなく印刷してしまうはずがない。きっと、僕が傷つくと思って言い出せなかったのだろう。

 ……僕は、一柳さんの行為が裏切りだとは思わない。結局、一柳さんは努力をして、僕はだらけていた。そして一柳さんを仲間だと勝手に思い込んでいた。それだけだ。

 彼女の才能に嫉妬もしない。彼女の小説は素直に面白かったし、歌は僕の胸に響いている。同じ部活の仲間として、本当に誇りに思う。彼女の新しい一面を垣間見たことも、ちょっぴりと嬉しい。これは、本心だ。

 けれど一柳さんの小説を読んだ時、心が乱れたことも本当だった。今だって音圧に震えるその裏で、僕の鼓動は嫌なリズムも刻んでいた。

 それは一体何故だろう。何がここまで僕の心を乱すのだろう。

 思うに、僕は寂しいのだ。

 高校生になって、初めて仲良くなった人。同じ部活の、唯一の仲間。入学してからまだ半年だけれども、その半年で僕達は多くの思い出を共に作った。

 だから、僕はもう、隣に彼女がいることが当たり前だと思っていた。一柳さんが居ない学校生活なんて、もう想像すらできないのだ。

 けれど、一柳さんは僕とは違う。部活の外にも世界が広がっていて、才能に溢れていて、とにかく、僕など及びもしないほど素敵な人間なのだ。

 それが堪らない。とんでもなく切ない。からっぽで、不釣り合いな自分が、どうしようもなく惨めに思えた。

 その時、今まで手元を見ていたはずの一柳さんが、不意に顔を上げた。

 音楽室は薄暗く、彼女達を照らす照明も疎ら。一柳さんの表情はわからない。けれど、

「……」

 スポットライトの光に濡れた黒髪が揺れ、仄かに照らされた一柳さんの口元が僅かに綻んだ。そしてその視線が、僕のものと絡まっている……ように感じた。

 転調。

 歌も大サビに入った。僕の心臓はより一層、大きく波打っている。僕は彼女から目を背けることもできず、眩い光の影に隠れた一柳さんの歌を聴き続けた。

 彼女のギターから流れてくる音の波に乗って、僕の心は揺れている。それが永遠に続けば良いと思った。

 けれど、それは叶わない。一柳さんはマイクから顔を離し、そして曲も終わる。

「ありがとう、ございました」

 途切れ途切れ、上がった息のまま一柳さんが小さく礼を言った。

「それでは、遅くなりましたが、バンド紹介をさせていただきます」

 彼女達の紹介が始まった。メンバーの名前、バンドの名前、結成の成り行き。今までどんな曲を演奏してきたのか……。一度聞いただけでは覚えられそうにないそれを、それでも僕は聞き逃すまいと耳を傾けた。

 しかし困った。あまりに長い間、音が胸を波打たせるので、当分震えが止まりそうにない。この胸の高鳴りは、暫く続くだろう。

 歌い終わって心地よさそうに髪をかき上げた一柳さんを見ながら、ぼんやりとそんなことを考えた。

 ライブは時間いっぱい続いた。僕は一歩も動かず、彼女達の歌を聞き届けた。こうして、僕達の文化祭一日目は終了したのだった。

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