第10話 夢の終わり
「それで、一体、何の用?」
宗谷さんが冷たい声で言った。夕日が眩しい空き教室に、僕と宗谷さんは二人きりだった。この教室は文化祭の会場ではなく、生徒達のスタッフルームになるらしい。
様々な教室が装飾されて、ここが学び舎であることさえ忘れてしまうこの期間、この教室だけが現実に取り残されている。この無機質な教室に立っていると、どれだけこの祭りに参加しようが、どれだけこのちっぽけな世界で目立とうが、僕達が唯の生徒に過ぎないことを否応無しに思い知らされる。喧騒が微かに聞こえるからこそ、隔絶されている感覚を強く得た。
「宗谷さんもわかっているでしょ?」
僕は宗谷さんを睨んだ。
「『高校オカルト部』の謎について、だよ」
「なにそれ。私、わかんない」
「あの作者が、つまり、事件の犯人が、君だって言ってるんだよ」
「へえ」
彼女は、驚いた風もなく、平常を保っていた。いつかは僕に追及されることはわかっていたのだろう。
「何を根拠に言ってるのかな?」
「ラノベ研のポスターだよ。上手で感心したんだ。ラノベ研の人に聞いたけど、あれ、宗谷さんが描いたんでしょ? そして、『新・高校オカルト部』の作画とそっくりだった」
そう言うと、宗谷さんは少し目を見開いて、言った。
「驚いたな。絵柄変えたつもりだったんだけど、わかっちゃうもんなんだ」
「……」
正直、今のは本心でない。結局、犯人が宗谷さんである決定的な証拠は見つからなかった。しかし状況的に彼女以外あり得ない。だから、証拠をでっち上げた。
そして、彼女はそれで納得すると確信していた。何故なら、彼女の目的は既に達成されているのだから。
「あ、やば。認めちゃった。やっぱ今の無し」
彼女はからかうように笑った。
「石澤くん。あの漫画には謎があったよね? それを解くまでは、認めるわけにはいかないかな?」
「うん。わかってるよ」
「じゃあ、聞かせて?」
彼女は楽しそうに言った。お望みならば、聞かせてやろう。もう手遅れで、披露したところで何の意味もない推理を。
僕は小さく息を吐いて、始めた。
「まず、あの漫画には不可解な謎があった。それは速さだ。漫研の部長さんから聞いたけど、一ヶ月で六十ページ描くのは無茶があるらしいね」
「うん。そうだね。言っておくけど、私、筆は遅い方だよ。あのポスターだって、締め切りギリギリになっちゃったんだ」
きっと彼女の言葉に嘘はないだろう。彼女は学生。夏期休暇の課題だって少なくはなかった。その状況で、プロ漫画家と同じような量を描くのは無茶だ。
「だったら、一ヶ月で描いたんじゃないってことになるね。君は、もっと長い時間を掛けて描いたんだ」
宗谷さんは呆れたように笑った。
「石澤くん忘れたの? 結羽はネームを誰にも見せなかった。当然、私も見てないよ。だから一ヶ月で完成させなきゃいけなかった」
「そうだね。漫画は、一ヶ月で完成させなきゃいけない。でも、絵は違う。前もって描くことができるよね」
「無茶言わないでよ」
無茶ではない。「高校オカルト部」ならば、それは可能なのだ。
「ところで宗谷さん。少し話が変わるけど、『高校オカルト部』を漫画としてどう思う?」
唐突な質問に、宗谷さんは怪訝そうな顔をした。
「下手っぴだと思うよ。一から描き直す手間なんて掛けたくないほどには」
そう。あの漫画は不出来。例え宗谷さんの筆が速くても、作画を全て綺麗に描き直すことなどしないだろう。その労力を掛けるに値する魅力が、あの漫画には無い。しかし、実際にあの『高校オカルト部』はリメイクされた。
ならば
「なら、『新・高校オカルト部』はやっぱり、真面目に描かれたものじゃない。トリックを使って楽に、そして速く描き上げたとしか考えられない」
もしも、描かずとも漫画が完成するトリックがあるのなら、一ヶ月で完成させることも可能だろう。その程度の手間ならば割けるだろう。
「そんな方法があるなら、世界中の漫画家が使っていると思うけどね」
「いいや、このトリックは君にしか使えない。そして、『高校オカルト部』にしか使えないんだよ」
僕は「高校オカルト部」を思い浮かべた。
「『高校オカルト部』のコマ割や構図は下手だ。会話を中心にしてしまって、絵が動かない。結果、人の顔だけが映る漫画になっちゃったんだ」
「ふうん」
「でもその構図は、初心者がよく陥るらしいんだ。よくある失敗例なんだよ」
漫画を描いたことがある人ならば、誰もが陥る難点。会話が中心の場面で、一体何を写すべきかわからなくなってしまうのだ。その難しさ故に、誰もが失敗する。ありふれた構図に逃げてしまう。
そして、そこにこそトリックの謎が隠れている!
「つまり、あの構図に限った話をするなら、誰もが描いているんだ。みんな、やや左を向いた人間の顔を、漫画の中に沢山描いてしまうんだ!」
宗谷さん、と彼女に呼びかける。
「君の小説を読んだよ。ライトノベル的で、面白かった。でも、もっと言うなら、あれは漫画的だった。漫画で描いて絵で見た方が、きっと僕は楽しめたよ。そして、あのポスター。あれもそうだ。イラストというよりも、漫画のタッチに近かった。……宗谷さん。君は、本当は漫画を描いたことがあるんじゃない?」
「……」
彼女の反応を見て、僕は断言する。
「君は、漫画を描いたことがある。そして、当然、君にも初心者だった時期はあるわけだ。言い換えよう。やや左向きの顔ばかりが描かれた、不出来な漫画を、君だって描いたことがあるんだろう?」
それならば、トリックは使える。彼女が過去に漫画を描いていたというのなら、あのトリックが使える!
「宗谷さん。君はその過去に描かれた漫画を、コピー&ペーストしたんだ!」
彼女がどうして筆を折ってしまったのか、その理由はわからないが、しかし彼女は過去に漫画を描いていた。そう考えれば謎が解ける。
彼女が過去に描いていた漫画。まだ初心者だった頃の漫画。そこに描かれていたのは、やはり左向きの顔だろう。そんな単調なコマが沢山並んでいたはずだ。
彼女はそれを利用したのだ。「高校オカルト部」に似た構図のコマを、過去に描いた漫画の中から探し出し、複製した。山崎先輩曰く、デジタル環境では漫画が複数のレイヤーに分かれており、キャラや背景を、それぞれ別の層に保存することができるらしい。それを利用すれば、キャラや背景を個別にコピーすることができる。
キャラクターデザインが変わっていたのも、当然だろう。あれは「高校オカルト部」のキャラクターではなく、宗谷さんが描いていた、別の漫画のキャラクターなのだから。
また、複数のキャラクターが映っているコマの構図が変更されていた理由も、説明できる。二人以上が映っている、似たような構図のコマは見つからなかったのだろう。やや左向きの顔だからこそ、過去の漫画の中に一致する構図があったのだ。複雑なコマでは、そう上手くはいかない。だからこそ、構図を変更するしかなかった。構図の違うコマを複製せざるを得なかったのだ。
さすがに全てのコマをコピーで済ませることは不可能だろうが、多くの絵を貼り付けることができれば、圧倒的に時間は短縮できる。そして、絵をコピーしてしまえば、あとは台詞を入れるだけだ。
「絵が元々描かれていたというのなら、漫画を一ヶ月で完成させることだってできる」
僕は宗谷さんの顔を正面から見つめ、言った。
「これが、君が使ったトリックだよ」
「……別に知恵比べで勝てるとは思っていなかったけど、まさか本当に見破られるとはね」
宗谷さんは感心したように言った。
「うん、正解。犯人は私だし、一ヶ月で完成させたトリックも正解。今見ると、ほんと酷い漫画だよね。顔ばっかり。漫画の意味が無いんだもん。こんな漫画を二百ページ近くも描いてたんだから、昔の私もアホだよね。まあ、そのお陰でトリックに使うことができたんだけど」
彼女は「新・高校オカルト部」を懐かしむように見つめた。彼女にとっては、元の漫画も、「新・高校オカルト部」も、そして事件すら、過去の話なのだろう。
だが。
「勝手に話を終わらせないでよ、宗谷さん。まだ解けていない謎があるだろ」
「……」
宗谷さんは最早笑っていなかった。
「宗谷さん。君はどうして、こんな事件を起こしたの?」
コピー&ペーストを用いれば、速く楽に漫画を描くことができる。しかし、それでも手間は掛かる。何か理由が無ければ、そんなことしないだろう。
「この事件の最大の謎は動機だよ。不出来な漫画をどうしてわざわざ描き変えたのか。君は一体何がしたかったのか。それが一番、重要だ」
「柚月ひな」の事件から始まり、宗谷さんは様々な事件を引き起こした。橘さんの活動を先生に密告し、配信活動を辞めさせた。そして橘さんの漫画を奇妙な形で描き直した。
この九月。夏休み明けの、この二週間。彼女は一体、何がしたかったのだろう。何が目的だったのだろう。彼女の行動の末に、何が起こっただろう。
その答えは、きっと僕達が知っている。
「宗谷さん。君が『柚月ひな』のことを先生に密告したことは知ってるよ」
「……溝口か」
「いや、僕が推理で導いた。まあ、確認はとったけどね。とにかく、君は橘さんをU Tubeから引退に追い込んだんだ。ところで宗谷さん。君は橘さんが一番重きを置いていた活動を知っているかな。当然、知っているよね。だって、君は彼女の、たった一人の友達だ。U Tubeの活動だって教えちゃうほど、気の置けない仲なんだ」
「……うん。知ってるよ。漫画活動でしょ」
僕は頷く。橘さんの夢は漫画家。しかし橘さん自身、実力で漫画家になることは不可能だと悟っていたのだ。だからこそ、U Tubeでの過激な活動でファンを取り込んだ。「柚月ひな」のファンであることと共に、「高校オカルト部」のファンになることを強制したのだ。
「だけど、宗谷さんにとって、それは許しがたいことだったんじゃない? 筆を折ったとはいえ、君は漫画の才能がある。プロに届きうる才能を持っている。そんな君は、色香で読者を増やそうとする橘さんが許せなかったんだ」
「……」
宗谷さんの眉がピクリと動いた。
やはり、宗谷さんの密告は、橘さんの身を案じたが故の行動ではない。
「宗谷さん。君も橘さんと同じで、一番重要視していたのは漫画だったんだ。橘さんの活動の中で、漫画だけが許せなかった。だから、事件を起こしたんだ」
僕は指を一本立てた。
「そこで第一の事件だ。君は『高校オカルト部』の不当な評価を取り下げたかった。そのためにすべきことなんて一つだよ。『柚月ひな』の引退だ」
「柚月ひな」のファンは「高校オカルト部」を絶賛していた。けれど、それは「柚月ひな」が好きで、彼女を肯定したいが為に口から出た言葉に過ぎない。だから「柚月ひな」が消えてしまえば、「高校オカルト部」を評価する者は誰もいない。彼女の漫画を、誰も褒めない。
「これが第一の事件の動機だ」
言うと、宗谷さんは軽く手を打ち、乾いた拍手を鳴らした。
「うん、正解。だって、あんな評価のされかたないよ。漫画の評価に作者のことを持ち出すなんて、あっちゃ駄目だよ」
彼女は吐き捨てる様に言った。
「それで? 二つ目の事件の動機は? 不当な評価を取り下げたんだから、私は満足したんじゃない?」
「いいや。それだけじゃ不十分だ。だから、第二の事件を起こした」
僕は二本目の指を立てた。第二の事件。漫画の複製だ。
当然、宗谷さんは画力の高さを誇示したかったわけではない。自分の実力を見せつけたいのならば、山崎先輩の言う通り一から全て描いた方が効果的だろう。
そして何より、僕は本当の意図を知っているのだ。
……そう難しく考える必要はなかった。
探偵役という役割を与えられてしまったが故に、僕は何だか当事者になったような錯覚をしてしまった。しかし、基本的に僕は外野の人間で、ただ事件を見つめることしかできない。
今回の事件で僕は「読者」に過ぎないのだ。
だからこそ、僕には動機がわかる。今回の事件で宗谷さんは漫画を描いた。そしてそれは漫研の部誌に載る。つまり、事件の末に「新・高校オカルト部」を読む人がいるのだ。……当然だ。漫画は読まれるためにある。
ならば、そこに動機があるはずだ。読まれて、その結果引き起こされることが、宗谷さんの狙いだ。
僕はただ、あの漫画を読んで抱いた感想を思い出せばいい。
「宗谷さん。僕は『新・高校オカルト部』を読んで、こう思ったよ。『少し、読みやすくなった』ってね。やっぱり、絵の力って凄いね。内容に変わりは無いのに、絵がすっきりするだけで漫画全体の質が上がったように見えたんだ」
だからこそ、読み進めてみようと思えた。ページを捲る気になった。
そして、もう一人、あの漫画を読んだ人間の感想を思い出す。
「漫研の部長、山崎先輩も『新・高校オカルト部』を読んでいたよ。あの人は、『絵が上手だったから、どんな内容か期待半分、焦り半分で読んだ』って言ってたよ」
尤も、「焦り」は彼が漫研だったから抱いた感情だろう。
「つまりね、宗谷さん。絵が上手ってことは、それだけで興味を引くんだ。何か、素晴らしい内容が描かれているんじゃないかって、上手な漫画なんだって印象を作るのに充分なんだ」
「つまり、どういうこと?」
彼女は半ば諦めたように、僕に尋ねた。僕は、続けた。
「第一の事件の動機は、不当な評価を取り下げる為だって言ったでしょ。でも、それで君が満足するはずないじゃないか。おべんちゃらを取り下げたって、賞賛されていた過去は無くならない。橘さんは過去に受けたその褒め言葉を、ずっと信じてしまう」
宗谷さんはそれすら嫌悪した。彼女が受けた評価を、全て否定したかったのだ。橘さんが色香で惑わせた感想が、全て偽物だと証明したかったのだ。
「だったら、不当な評価を取り下げた後に行うことなんて一つしかない。……それは、正当な評価の付与だよ」
しかし、そこで問題が一つあった。今まであの漫画が読まれていたのは、「柚月ひな」の活動があったからだ。「高校オカルト部」は絵が下手で、構図が単純で、コマ割が平凡で、文字が多かった。あの漫画だけをひと目見て、読み進めようと思う人がどれだけいるだろう。あの漫画をそのまま部誌に載せたところで、誰も読まないかもしれないのだ。
そして、誰も読まないならば、感想は生まれない。……評価を下せない。
だからこそ、宗谷さんは絵を描き直したのだ。
絵が改善されたことで、見掛けの魅力は上がった。あの漫画を見掛けた人間は思わず手に取るだろう。どんな素晴らしい漫画が描かれているのだろう、と胸に期待を膨らませて。それこそが宗谷さんの狙いだ。上手な絵で、読者を釣ったのだ。
しかし、結局「高校オカルト部」は不出来なのだ。どんなに絵が上手になったところで、質が上がった様に見えるだけだ。上手な漫画だと期待させるだけだ。
あの漫画を読んで、読者は内容について、正当な評価を下す。
「橘さんは元々、自分の絵には自信がなかった。僕も彼女から直接聞いたよ。でも、彼女は内容に自信が無い、なんてことは一言も言わなかった。橘さんは、内容には自信があったんだ。褒められるだけの、確かな魅力があるって信じていたんだろう」
けれど……。現実は違う。素人目に見ても、そして漫研の実力者から見ても、あれは面白くなかった……。絵に惹かれて読み始めた読者の感想は、言うまでもない。
「整理しよう。宗谷さん、君は『高校オカルト部』に正当な評価を下したかった。けど、元の漫画は不出来だ。それを部誌に載せたところで、やっぱり誰も読まないだろう。それじゃあ評価は下せない。
だから、君は描き直した。絵を改善した。そうすれば読者の興味を引くことができて、その上、画面が綺麗になる。そうすれば、読者は読む。読んで、感想を抱く」
絵の善し悪しはひと目でわかる。何より橘さんも実力不足を自覚している。だからこそ、絵以外の内容全てが……ストーリーが、コマ割が、構成が、劣悪であることを知らしめる。
現在、「新・高校オカルト部」は、驚異的な速さで描かれた奇妙な漫画として話題になっている。文化祭で漫研の部誌を買う人も多いだろう。そうすれば、いずれ、校内のどこかから聞こえてくるはずだ。
「『新・高校オカルト部』、絵は上手だけど、それ以外はちっともだね」
と。
「これが動機だよ。君は橘さんに、実力を知らしめたかったんだ」
宗谷さんは、薄ら笑いを浮かべた。それが、僕の推理の正しさを証明した。
「それで? 今さら謎を解いて、どうするの? 何で私にわざわざ聞かせたの?」
宗谷さんは視線を外し、呟いた。
「それは」
僕は言葉に詰まった。
「今から漫研に行って、発行を辞めて貰う?」
言われて、少し考え
「いや、多分無理だ」
「そうだね。石澤くんが今さら何を言っても、漫研のヤツ等は取り下げないよ」
文化祭は今週の金曜日。今から冊子の構成を変えるのは難しいだろう。
それに、「新・高校オカルト部」は既に、オカルト絡みの奇妙な漫画として話題になっている。思い出してみるに、漫研の部員は少なかった。部費は削られているはずだ。文化祭では部費獲得のため、意地でも冊子を売りたいはずだろう。「新・高校オカルト部」の奇妙な話はうってつけなのだ。
いや、もっと明確な理由。今から事情を説明すれば、あるいは「新・高校オカルト部」の発行を取り下げることもできるかもしれない
しかしそれには、当然漫研部員全員が納得できるだけの説明が必要になる。特に、当事者の橘さんは意地でも理由を聞き出すはずだ。だがこんな理由を、誰が橘さんに説明できるだろう。「君の漫画が酷評されてしまうから、売るのを辞めたんだよ」などと。
……販売は、止められない。
「それに、もし取り下げられたとしても、そんなの私が許さない。どんな手を使ってでも、この学校に広めてやる」
追い打ちを掛けるように宗谷さんが言った。確かに、漫研の部誌に掲載しなくとも、「高校オカルト部」を普及させる手段はいくらでもある。
「いい? 石澤くん。この事件はもう終わった。私の目的は達成された。もうどうしようもないの」
彼女は笑った。そうだ、事件は終わった。謎を解いたところで、今さら何も変わらない。ならば、僕は一体何故、彼女に向き合っているのだろう。
彼女を追及したかった?
反省して欲しかった?
謝って欲しかった?
多分、どれも違う。
「わからないんだ」
僕は呟いた。
「僕には、君の動機がわからない」
「わからないって、さっき自分で推理したじゃん」
「それでも、やっぱりわからないんだ」
それはきっと、僕の夢が探偵だからだ。
「どうして、そんなに橘さんを敵視するんだ。どうして、わざわざ彼女の実力を知らしめようとするんだ。君と橘さんは友達じゃなかったの?」
橘さんは「柚月ひな」のことすらも、宗谷さんにも打ち明けていた。唯一の友達と言っていたのだ。
しかし、宗谷さんは、漫画を描いていたことすら橘さんに隠していた。橘さんは「新・高校オカルト部」を読んでも、犯人に心当たりがなかったのだ。もし宗谷さんが橘さんに漫画を見せていたのなら、橘さんは絵柄を見て犯人を瞬時に悟ったことだろう。
宗谷さんは、橘さんのことを友人だとすら思っていなかったのだろうか。何故そこまで酷い仕打ちをするのか。
「僕は、わからないんだ。だって僕は、夢を巡って競争なんてしたことがないから」
僕の夢は探偵。非現実的な夢だ。そんなものを真剣に追いかける僕には、ライバルらしいライバルも、共に夢を語り合う仲間もいなかった。だからこそ、わからない。同じ夢を追う友人に対して、どんな感情を抱くのか。
空想の中に生きているからこそ、これから直面するであろう現実を、僕は知らなくてはいけないのだ。
宗谷さんは小さくため息を吐いた。
「別に、嫌っているわけじゃない。結羽とは、今でも友達だと思ってる」
「だったら!」
「でも、漫画描きとしては、絶対に認められないの」
彼女は強く言った。そして少し言葉につまり、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……石澤くん。私のお兄ちゃんの話、覚えてる?」
「宗谷さんのお兄さん?」
そういえば、部室で一柳さんと何か話していた。うろ覚えだが、確か、
「バンドやってて、夢中になりすぎて、大学を中退しちゃったんだっけ」
宗谷さんは小さく頷いた。
「バカだよね。良い大学行ってたから、安泰だったはずなのに、人生を棒に振ったんだ。でもね、お兄ちゃんは怠惰だったわけじゃないんだよ。寧ろ逆。本当に真面目で、一生懸命で、本気でプロを目指してた。だから人生を賭けて、音楽の道を選んだ。まあ、結果は駄目だったんだけど」
宗谷さんは、自分の身を抱いた。その肩は少し震えている。
「私は知ってるんだ。お兄ちゃんが一生懸命だったこと。だから、怖くなった。あんなに頑張ったのに、人生全部捨てたのに、それでも夢は叶わなかった。人生を賭けるだけじゃ、スタートラインに立つことすらできない。全部捨てるなんて、夢を追う人にとっては当たり前で、夢を追うために必要な資格に過ぎないんだ」
夢を追う人間など、この世には溢れている。そしてその全員が人生を賭けている……。
「私にとっては絶望だったよ。だって、私にも夢はあったから。石澤くんの推理通り、漫画家になりたかったんだ。でも、お兄ちゃんを見て諦めた。だって人生を賭けて夢を追いかけて、それでも叶う保証なんてなくて、その結果、引き籠もりだなんて、笑うしかないよ。私には、無理だ」
久瀬高校は進学校だ。このまま順当に行けば、僕達は大学に進学して、無謀な夢など持たず就職するだろう。
無論、それだって大変な道であることに変わりはない。……だが、多くの人が選ぶ道だ。落ちていく者もいるだろうけど、きっと、夢を追いかけて奈落へと落ちていく人間は、その比じゃない。
「特に漫画家はさ、人生捧げなきゃなれないよ。週刊で二十ページ。月刊でも三十ページ。そのノルマを達成するために、漫画家がどれほど苦労しているか。兼業なんて絶対無理だし、デビューが決まったら、漫画家専業になるしかない。
だけど、デビューできたって、それで生活が続くとは限らないんだ。つまらなければ即打ち切り。専業になった以上、他のアテは無い。
……いや、打ち切られずとも、漫画だけで食べていける人なんてほんの一握りだ。本当に、険しい道なんだ」
だから、諦めた。と宗谷さんは呟いた。
「無理なんだ、私には。折角高校に入って、今は成績も良くて、お兄ちゃん以上の大学だって狙えるってお母さんは言ってくれた。……それなのに、全部棒に振るなんて、そんな勇気ない。今すぐデビューが決まっても、私はその未来をきっと選べない。お兄ちゃんと同じ道は辿れないんだよ」
だからね、と宗谷さんは言った。
「だから私は、ライトノベルを書いているんだ。新しい夢だよ。今の時代、小説家は基本的に兼業してるんだ。だから、安定を得ながら、夢を追っていられる。……いや、追うふりができる、かな」
「追うふりって……。きちんと追えばいいじゃないか。戦略は間違ってない。それに、君は実力がある。きっと小説家になれるさ」
しかし、見当違いだとでも言うように、彼女はかぶりを振った。
「言ったでしょ? 夢を追う人間は人生を賭けてるって。逆に言えば、人生を捨てる程度の覚悟もないヤツは、夢を追う資格なんてないの。兼業だから安心なんて、そんな中途半馬な人間が、全てを賭して挑む人間に勝てるはずがない。勝っちゃ駄目なんだ。
それに私はさ、ライトノベルを逃げ道に使ったんだ。漫画が描けないから、時間と手間が掛かるから、小説で妥協したんだ。小説が書きたかったんじゃなくて、漫画を諦めたから、小説で書いてるだけなんだよ」
宗谷さんは吐き捨てるように続けた。
「そんな人間の作品が、認められるはずがないでしょ。本気で小説に向き合ったことのない人間が、小説家になんて、なれない。……なれたとして、兼業を続けられるはずがない」
……徐々に、彼女の言葉を理解してきた。彼女の中には絶対のルールがあるのだ。
人生を夢に捧げられない人間は、夢を叶える資格など無い……。
「でも、そんな中、そのチケットを法外に入手する人間がいる。結羽だよ」
宗谷さんの眉間に、段々と力が込められていく。
「アイツ、私の言葉を曲解しやがった。全てを捨てるって意味を、プライドを捨てることだって理解したんだ! その結果が、アレだよ。
本当は、人生を賭けて技術を磨かなきゃいけない。それで初めて資格は手に入る。でも、アイツは、靴を舐めて、欲望を利用して、それで買い取ったんだ」
彼女は声を震わせてまくし立てた。
「結羽だけじゃない。今や、そんな不埒者は溢れている。実力が無いなら黙っておけばいいものを、餌をぶら下げて、『私って天才でしょ?』なんて、馬鹿げてる。私は、媚びを売った漫画も小説も、それによだれを垂らす読者も、何もかもが嫌いだ。なにより、それが許されて、そんなまがい物が占めているこの状況が、嫌いなんだ……!」
……僕には、あまり理解の及ばない話だった。結局、彼女が何と言おうと、市場を占めているものが、消費者の望むものであるはずだ。ならば、そこには何らかの魅力があるはずだ。
それが実力であろうと、付加価値によるものであろうとも、関係はない。宗谷さんは「媚び」と言ったけれど、どの道、人気商売だ。人に好かれなければ生き残れない。
だからこそ、彼女の話を今の今まで聞き届けて、つい口にしてしまった。
「宗谷さん。結局君は、成功に対して嫉妬してるだけじゃないか」
しまった、と思った時には遅かった。
「そうだよッ!」
その声に、びくりと震えた。それは、ほとんど、絶叫だった。
「するだろ! するに決まってるだろッ! だって、私は、私は! ずっと絵を描いてきた! 漫画を本格的に描き始めたのは、中学生からだけど、それでも! 一生懸命やってきた! 面白い漫画を追及して、伏線を張って、納得のいくオチを考え抜いた! 初めは上手くいかなかったけど、構図だって、コマ割だって上手くなった! それでも、届かないって思い知った! 私じゃ届かないって理解しちゃったんだ!
なのに、なのに! アイツは読者に媚びただけで賞賛されたんだ! 人気が出たら、実力があるってことにされちゃうんだ! 結局欲望に訴えた者が勝つなんて、そんなの、そんなの……!
……才能に追い抜かれるのは、別にいい。いつの時代だって、文化を創るのは天才だ。寧ろ、その才能がうち捨てられることの方が、ずっと悔しい。
でも、私より遙かに劣った人間が、私の上に行くのは……夢を追う資格を得ることだけは、絶対に許せない。許さない」
宗谷さんは笑った。
「石澤くんにはわかんないよ。わかるはずがない。探偵なんて夢、追いかけてる君には」
「……」
「いや、夢とも言えないよね、そんなの。だって、そんな職業存在してないんだもん。見てればわかるよ。石澤くん、君は「探偵が夢だ」なんて言いながら、真面目にその夢を追いかけたことはないんだ。全てを押し切る決意も無いし、かといって諦める勇気も無い。だから追いかけてる風な顔をして、手近な賞賛を得て浸ってるだけ」
「そんなこと……」
「石澤くん。君、一柳さんの小説読んだ時、なんて言ったか覚えてる?」
「……」
思わず、口を噤む。覚えている。あれは、一柳さんを自分の言葉で褒めることができず、口に出たものだから。「いい? 石澤くん」と宗谷さんは笑いながら、されど確かに怒気を含めて言った。
「本気で夢を追いかけたことがある人間は、『文豪』なんて、軽々しく口にしない。それは小説家の中でも、確かな実力と歴史を積み重ねて、過酷な淘汰の中で生き残ることができた、本当の偉人にしか許されない称号だよ」
「……」
「プロになれるなんて、プロより上手なんて、言えるはずがない。その言葉がどれほど無責任で、無神経か、わかってないんだ。そういう実力に合わない甘言が……」
彼女は少し考え
「私の嫉妬に、繋がるの」
そう言った。
「それと、もう一つ。石澤くん」
まだ、何かあるのだろうか。僕は耳を塞ぎたかった。しかし、そうするわけにもいかず、僕はただ、目を逸らした。
「君が謎解きをした理由は、『動機がわからなかったから』って言ったよね。それ、嘘でしょ」
「……嘘じゃないよ」
「ああ、ゴメン。嘘っていうか、それだけじゃないでしょ?」
「それだけじゃない?」
要領を得ない僕に、彼女は深くため息を吐いた。
「アンタは、謎解きを披露したかったんだ。自分が解いたって私に知らせたかっただけなんだ」
「そんなこと!」
「あるんだよ。だって、アンタの夢は探偵なんだろ? それが唯一のアイデンティティじゃん」
「……」
「アンタは役割を手放したくないだけだ。この世界に、自分だけの居場所が欲しいだけなんだよ。でも、それはみんな同じなんだ。みんな特別になりたくて、役割が欲しくて、必死なんだ。だからこそ、命も人生も賭けられない私達が、叶えられるはずがない。何の目的もなく、ただ将来の安定を図って進学校に真面目に通ってる程度の人間が、その資格を得られるはずがないんだよ」
彼女は教室の扉を開けた。廊下からは生徒達の喧騒が聞こえる。先ほどの、宗谷さんの叫びは、その喧騒に飲まれ、かき消されてしまっただろう。
「石澤くん。今は良いよ。探偵って役割を独占してれば良い。……でも、将来はどうなるんだろうね。君が座りたい椅子は一体何人掛けで、その椅子に座りたい人間は一体何人いるんだろう。……楽しみだよ」
彼女はそのまま喧騒の中へと消えていった。僕はその背中を黙って見送るしかなかった。
廊下や窓の外からは依然、生徒達の話し声や楽器の音色が響いている。校舎は弾む音で彩られていく。聴いているだけで生徒達の浮かれる心や、未知への期待、果てはこの学校が世界の全てであるかのような全能感が伝わってくる。
誰もが何かの役割を持っていて、自分が世界から必要とされている。自分だけは、この世界から欠いてはいけない存在である。そんな幻惑が学校を取り巻いているのだ。
きっと文化祭が近いからだろう。クラス企画か、それとも部活動か。生徒達は何かの形で役割を負った。大きな何かを成し遂げようとして、学校という世界に干渉できたのだ。
僕だって……役割があった。文芸部として文集を書いた。一年五組としてオブジェをいくつか作成した。
そして何より、探偵として謎を解いた。
だが今になって、その役割としての自負は崩れかけていた。
結局、僕は何も見抜けてなどなかったのだ。
きっとこの時、夢を語る資格も、夢を追いかける気概も、僕は既に失っていた。
「あ、石澤くん!」
空き教室でぼうっと立ち尽くしていると、廊下の女子と目があった。クラスメイトの金本さんだ。彼女は僕を見つけるや否や、教室に入って詰め寄ってきた。
「もう! いっつも放課後サボるんだから! 今日こそは準備手伝って貰うからね!」
そう言ったところで、放課のチャイムが鳴った。
「あ、もうこんな時間! もう! 明日こそ、ちゃんとやってよ! ただでさえ男子は手伝ってくれないし、無茶な予定立てるし、余計なことしかしないし! これじゃあ間に合わないよ!」
彼女は自然と僕に愚痴をこぼした。思わず苦笑し……ふと、訊ねた。
「僕にも、何か役割はあるのかな?」
聞くと、彼女は少し怪訝そうな顔をして、
「オブジェ制作係でしょうが!」
「そうだったね」
僕は微笑んで、明日の約束をした。もう謎は残されていない。全ての真相は明らかになったのだ。探偵役はひとまず休業だ。これで、クラス企画に参加する時間を作れる。それにクラス企画が間に合わなかったら、それは困る。だって僕は一年五組なのだから。
そのままの流れで、金本さんと一緒に放課後の廊下を歩く。隣で彼女の愚痴を聞き流しながら、昇降口へと向かった。
と、その時
「あ、石澤くん……」
一柳さんと出会った。一柳さんは、やはり五人組で行動していた。
「やあ、一柳さん。お疲れ」
「……うん。お疲れ」
一柳さんは少しばつが悪そうにしていた。
……憐憫。
彼女の顔には、やはり僕に対する憐れみが見えた。執筆活動を隠した時と同じように、そして四人が一柳さんを迎えに来た時と同じように。
そして僕には、その表情の理由も、彼女がこの二週間何をしていたのかも、今しがた理解した。小さく息を吐く。
「本番、楽しみに待ってるよ」
努めて平常を装うと思ったが、予想外に小さな声になってしまった。
「やめてよ」
照れたように顔を逸らした一柳さんの声もまた、小さかった。
「じゃ、私達、支度あるから。バイバイ」
「うん。バイバイ」
一柳さんに手を振りながら、その背中を見送る。
「ねえ、石澤くん」
先ほどまで静かにしていた金本さんが、遠慮気味に僕を上目遣いで見た。
「一柳さんとケンカでもした?」
「どうして?」
「いや、なんか、空気が、ちょっと」
僕は思わず吹き出した。
「いいや、ケンカなんてしてないよ」
僕は一柳さんの背中……そこに背負われた荷物を見つめながら、言った。
「ただちょっとだけ、一柳さんの背中が思いの外遠かったことを今さら知ったんだ」
西日が眩しい。僕は少し、目を細めた。
文化祭は、もう近い。
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