第4話 変わりゆくもの

 僕の夢は探偵である。そして、その夢を追いかけられるのは高校生までだ。謎が生まれ、その謎を解くことができるのは、学校という限られたコミュニティの中だけなのだ。だから僕はこの三年間を、探偵活動に費やそうと考えている。

 とはいえ、学校は教育機関。学生の本分は学問だ。探偵活動に夢中になるあまり、学問を疎かにすることはできない。

 そして、現在は高校一年生の五月中旬。そう、高校生活初めての学力試験、中間テストが迫っているのだ。

 その状況で、僕は文芸部の部室でペンを弄んでいた。向かいには幽霊のような少女、一柳さんが教科書を睨み付けている。

 僕達文芸部は、とびきり優秀というわけでもない。僕は探偵だけれども、だからといって勉学が得意かと訊かれると、それはまた別の話なのだ。

 一柳さんも、それほど優秀というわけでもないらしい。彼女の興味はオカルトに注がれている。オカルトは勉学から最も離れている分野だろう。

 そんな訳で、僕達文芸部は二人揃ってお勉強。二人で中間テストを乗り越えよう、という魂胆である。

 とまあ、そんな風に決意したところで、勉強が面倒という事実に変わりはない。僕は机に座って早々、飽きてしまった。

 向かいに座る一柳さんはじっと教科書を見つめている。よく集中力が続くものだ。彼女はカフェインが苦手らしく、コーヒーもエナジードリンクも飲んでいない。それで居眠りしないのだから、羨ましい話だ。

 僕は半分眠り始めた脳を叩き起こすため、コーヒーを一口飲んだ。

 その時

「ねえ、石澤くん。久瀬高校七不思議の『その七』を知ってる?」

 唐突に、一柳さんはそう訊ねた。どうやらたった今、集中が切れたらしい。静かな空間に辟易していた僕は、彼女と会話できることが無性に嬉しかった。

 しかし、テーマはオカルト。無論、知る筈が無い。僕は首を横に振る。そう、と一柳さんは短く返事をすると、引き出しから古びた冊子を取り出した。文芸部出版、久瀬文集だ。

「あのね、『その七』が変なの」

 久瀬高校七不思議。僕達の高校に残された七つの怪談。一柳さんは「その七」が変、と言ったが、先日聞いた「その一」も「その六」も、変だった気がする。怪談のくせにあまり怖くなかったのだ。

 一柳さんは机の勉強道具を全て端へ寄せ、久瀬文集を開いた。今日のお勉強はこれでお終いらしい。僕も自然とノートを閉じていた。

 彼女が開いたのは、七不思議が載っているページだった。彼女はそのページを眺め、読み上げる。

「その七、存在しない最上階。放課後に一人で最上階へ行くと奇妙なことが起こる。最上階の筈なのに、登りの階段がそこにあるのだ。階段には『やつねちゃん』という少女が立っており、『上に行こう』と誘われる。その階段は随分長く、終わりが見えない。それでも『やつねちゃん』に手を引かれるまま上っていくと、階段の終わりが見え、存在しないはずの最上階へと到着する。……そして振り返ると階段はなく、そしてそこは……冥界なのだ」

 ほう。よくある話だが、七不思議「その一」「その六」と比較すると幾分かマシだ。きちんと怪談になっている。最後に冥界に放り込まれるところは、少しぞくりとする。

「それで、何が変なの?」

 「その一」「その六」と比べ、この七不思議の出来が良い、というのは確かに妙だが。しかし一柳さんが言っている不思議とは異なるようだ。彼女は不気味な笑みを浮かべ、冊子を僕に見せた。

「見て」

 僕は冊子を覗き込む。そして思わず頷く。

「なるほど、確かに不思議だ」

 その冊子に書かれていることは、概ね一柳さんが読み上げたことと一致する。しかし、久瀬文集には、具体的な階数が記載されていた。

「最上階である三階の上に、本来存在しないはずの四階が現れる」

 そう書かれていたのだ。ちなみに、我らが久瀬高校の階数は四階。つまり、最上階は四階で、幻も何も、元々四階は存在している。

「ね、不思議でしょ?」

 彼女は不気味な笑みを浮かべる。

「どうしてこんなことが起こると思う?」

 一柳さんの、その幽霊めいた瞳が僕を捕らえて放さない。

「この校舎には四階が存在している。でも、本当の最上階は三階なの」

 僕は思わず唾を飲む。そして、彼女は言った。

「つまりね、きっと幽霊の仕業で……ここはすでに冥界なのよ」


 ふと気が付くと、辺りに校舎など存在しておらず、そこにはどこまでも続く草原が広がり……なんてこともなく、ここは普通に久瀬高校のメイン校舎、その最上階だ。

 ここが冥界だなんて、いつもなら笑い飛ばす冗談だが、しかし一柳さんが言葉にすると迫力がある。勘弁してほしい。

 僕は件の七不思議の秘密を探るため、四階に来ている。とはいえ、四階を調査したところで、何か手がかりが見つかるとも思えないが。

 恐らく手違いか、イタズラか。調査するなら久瀬文集を漁るのが一番良いのだろうけど、しかし今は脚を動かしたかった。座ってばかりいると、腰が疲れてしまう。

 四階をぶらぶら歩く。すると、いつの間にか見覚えのある教室の前まで来ていた。

「そういえばここも四階だったな」

 僕の目の前には「開かずの教室」。四階の一番奥ということもあり、人の気配が無く、少し不気味だ。ふと扉に手を掛けてみるが、やはり閉まっていた。

 ……随分と歩いた気がする。僕は廊下の突き当たりの窓から外を見た。そこからは古びた文化棟が見える。

 七不思議その七は、もしや文化棟のことかと考えたが、しかし残念。文化棟は二階建て。こちらも外れだ。

「まあ、考えても仕方ないか。帰ろう」

 もたれかかった体を起こし、文芸部を目指して再び歩き始める。文芸部の部室は二階の特別教室。現在地のほぼ真下にある。しかし、現在地である「開かずの教室」付近には階段もエレベーターも存在していない。また少し歩かなければならない。

「しんどいな」

 せめてエレベーターが使えればいいのだけれど。しかしエレベーターは原則使用禁止となっている。バリアフリー化が目的で、後は荷物運びに用いられるだけ。一般生徒は階段を歩くしかない。

 まあ、下りだからいいけどね。僕は階段に到着し、一段一段降りていく。そして

「あ」

 ふと、気づいた。それは偶然のひらめきで、推理でもなんでもなかった。「その七」の謎が解けたのだ。

「なんで今になって解けるかな」

 思わず苦笑する。

「また階段を上らなきゃいけないじゃないか」

 僕の推理を確認するためには、開かずの教室の隣にある資料室を利用する必要がある。ぶつくさ文句を言いながら、階段をまた上る。そして、上り終えたところで、また気づいてしまった。

「あ、職員室で鍵借りなきゃ」


「一柳さん。謎が解けたよ」

 文芸部へと戻り、一柳さんに報告する。彼女は「そう」と、つまらなそうに呟いた。オカルトの真相を暴かれることが悔しいのだろう。

「それで、どうして四階が存在しないことになっているの?」

 さして興味無いように、彼女は僕に尋ねた。

「うん。まあ、考えてみれば当然なんだけどね」

 僕は資料室から持ってきた紙を広げる。

「これは……見取り図?」

「そう。見取り図」

 一柳さんは不思議そうに顔を傾げた。

「でもこれ、見たこと無いよ。どの校舎?」

 その見取り図には三階建ての校舎が記されている。確かに、現在の久瀬高校にこのような建物はない。だが、

「どこって、ここだよ」

 僕は床を……正確には、現在校舎が建っている土地を指す。彼女が怪訝そうな顔をしていたので、説明を続ける。

「真相に気づいたのは、文化棟を見た時。そしてエレベーターを見た時だよ」

「それが一体何だって言うの……あ」

 彼女は途中で気づいたように、口を噤む。そう、古さの残る文化棟、そしてエレベーター搭載のメイン校舎。

 久瀬高校の歴史は七十年だが、しかし七十年前の校舎にエレベーターなどある筈がない。つまり。

「久瀬高校の校舎は、新しく建てられたものなんだ。言い換えれば、新校舎ってことだね」

 久瀬高校の歴史は七十年。少なくとも一度は改築されているだろう。そして重要なのは、校舎が新しくなる前の旧校舎だ。

「そう、この見取り図は、旧校舎のものなんだ」

 僕は机に広げた紙を指でつついた。恐らく七不思議は旧校舎時代に製作されたのだろう。その当時の生徒達にとって、最上階は三階。ただそれだけの話だ。

「なんだ。確かに考えてみれば当然ね」

 一柳さんを見ると、やはり興が冷めたような顔をした。

「真相なんて、こんなものね」

「うん、こんなものだ」

 謎の真相は、退屈なものばかりだ。謎は謎であるから面白い。僕は少し申し訳なくなって苦笑した。

「あ」

 その時、ふと気づいた。

「何?」

 一柳さんは怪訝そうな顔をして僕に尋ねた。

「……いや、何でもない」

 僕は顔を逸らす。「何でもない」というのは嘘だ。しかし、これは推理ではない、ただの憶測だ。だから、口にはしない。しない、けれど……。

 僕はずっと不思議に思っていた。「開かずの教室」の調査の時、何故、大河原先生は「四階の物置では何も起きていない」と断言したのだろうか、と。

 しかし、この校舎が建て替えられたというのなら当然だろう。久瀬高校が新校舎となってから恐らく十数年。そして大河原先生は教員生活三十五年。現在の校舎の、「あの」物置で何も起きていない、と断言できたとして、何の疑問もない。

 ……だけど、その前は? 旧校舎時代はどうだったのだろう。

 「その七」に出てくる校舎は三階建てだ。ならば、七不思議が製作されたのは新校舎建設の前、旧校舎の時である。つまり「その一」の舞台は、現校舎の「開かずの教室」ではないのだ。

 あの教室は不良行為に用いられていた。僕は、その不良行為抑制のため、怪談を普及させることで教室への立ち入りを防いでいるのだと推理した。しかしそれは違う。七不思議の舞台は旧校舎なのだ。「その一」は不良行為抑制を目的として作られた怪談ではない。

 ならば、「七不思議その一」の作成に至る、別の「何か」があった筈だ。そして、七不思議に度々出てくる「やつね」という少女。あの少女は、本当に創作の存在だろうか。七不思議に登場するだけの、キャラクターなのだろうか。或いは、本当に……。

 僕と一柳さんは静かに見取り図を見つめ、そしてやがて

「勉強しよっか」

 どちらかともなく、教科書を開いた。


 数週間後。

 気怠い一日が終わり、放課の鐘が鳴った。これでお勉強の時間は終わり。そして探偵の時間が始まる。

 僕は部室へと向かう前に、教室の机に数枚の紙を並べた。そして手には先ほど入手したばかりの最後のピース。

「うむ。悪くない……だろう」

 僕以外、誰も残っていない教室で呟く。今更こんな紙切れを眺めたところで、何かが変わるわけではないのだが、しかし眺めているだけで勇気と期待が湧いてくる。

「さあ、決戦だ。一柳さん」

 僕は宿敵の名前を口にし、紙切れを手に部室へと向かった。

「来たよ! 一柳さん!」

 僕は部室のドアを開ける。一柳さんはすでに着席しており、何か冊子を読んでいた。

「あ、石澤くん」

 彼女は少し顔を上げると、また冊子に目を落としてしまった。

「また久瀬文集?」

 僕が訊ねると彼女は小さく頷いた。

 久瀬文集。僕達もいずれ書くのだろうが、しかしまだ何も考えていない。夏休み中に完成させる必要があるらしいので、少し焦ったほうが良いのかもしれない。

 そして、そんな久瀬文集を、彼女が熱心に読んでいる理由は、とある特集にあった。

「やっぱり、七不思議のページだね」

 僕が言うと、これまた小さく頷いた。

 久瀬文集が発行されるのは年二回。夏休み明けと、冬休み明けだ。つまり夏と冬。そして夏の文集に組まれる特集といえば、悔しいことにオカルト、ホラーだ。久瀬文集の夏号では、毎年久瀬高校の七不思議が紹介されているのだ。

 毎年載せる必要はないように思うが、しかし新入生が七不思議に触れる機会になるだろうし、何より書き手側がコピー&ペーストで済むので楽なのだろう。

 しかし、今はオカルトなどどうでもいい。

「一柳さん。今日の約束、忘れたわけじゃないよね?」

 僕はコンコン、と机を叩いた。彼女は「わかってる」と少し名残惜しそうに久瀬文集を閉じた。

「今日はオカルトとミステリーの頂上決戦、でしょ?」

 一柳さんは不敵ににやり、と笑った。その笑顔を見て、思わず唾を飲んだ。この顔、彼女も自信があるのだろう。まあ、いいだろう。僕だって自信がある。

 とはいえ、今日は謎の正体に関する議論ではない。僕と一柳さん、二人の学生としての実力を競うのだ。

 学生の本分といえば、勉強。先日、高校に入って初めての定期試験が行われたのだ。

 中間テストの教科は、現代文、古文、数学一、数学A、英語、物理、化学、現代社会、世界史の九教科。これを一度に頭に詰め込むのでもうパンパンだ。そのくせ、試験自体は三日間に亘って行われる。あの期間、緊張がずっと続いたので、もう参ってしまった。

 何はともあれ、僕達はその苦痛から解放され、地獄のテストから約一週間が経った。そして今日の六限に最後の教科が返却され、全ての結果は出揃ったというわけだ。

「一柳さんのクラスは、昨日で全部のテストが返却されたんだよね?」

「うん。だから、準備はできてるよ」

 一柳さんはそう言うと、スクールバッグの中からクリアファイルを取り出した。中に結果が入っているのだろう。準備は万端。相手にとって不足なし。

「いざ、勝負!」


「や~……たあ!」

 声を上げたのは、果たして……僕だった。

「……」

 一柳さんは黙って不服そうにしている。ざまあみろ!

「一柳さん。勝負の約束忘れてないよね?」

「はいはい。負けた方は罰ゲームでしょ? 後で何かお菓子でもジュースでも買ったげる」

「やった!」

 勝負は九教科の合計点で競うことになっていた。そして、彼女との点差は僅か八点。途中まで拮抗しており、最後まで勝負はわからなかった。

 しかし、最後の最後に残された切り札が、彼女の点数を圧倒した。

「まさか、石澤くんがここまで国語が得意だったなんて」

 そう、僕の切り札とは国語。特に現代文だった。僕は探偵に憧れ、小さい頃から推理小説を読み漁ってきた。文を読む速度には自信がある。その上、僕は推理力を鍛えるために、犯人やトリックを明らかにするまで続きを捲らなかった。

 それはつまり、文章の全てを読み落とさず、作者の意図をくみ取るということだ。それはまさに現代文において求められる力、読解力というものだろう。

「証拠が文の中にあるのなら、僕は真相にたどり着けるんだよ。探偵だからね」

 僕にとって現代文とはミステリーそのものだ。答えは全て文中にある。ならば探偵に解けない道理はない。

 しかし反面、答えを外から持ってくる教科は苦手だった。つまり、暗記科目は大の苦手なのだ。その点、一柳さんは暗記に長けているようで、僕の成績を上回っていた。

 とはいえ所詮は暗記科目。僕だって一つも覚えられないわけではないし、授業中に自然と覚えた範囲もある。

 そしてなにより、世界史と現代社会の先生はどちらも優しい先生で、テストは比較的簡単に作られていた。いくら一柳さんが暗記科目に自信があろうと、僕の覚えが悪かろうと、点差はあまり開かなかったのだ。僕の勝因は、はっきり言ってこれだろう。

「各科目の勝敗だったら、私の方が勝ち星は多いのに」

 彼女は負け惜しみを言った。いやあ、全くだ。合計点数の勝敗にしておいてよかった。

「それにしても、二人とも理系科目が壊滅的だね」

 僕は苦笑した。特に物理。僕の点数は二十四点。一柳さんは二十八点。もう散々だ。とはいえ、今回の物理は平均点も異常だった。平均点が三十六点。赤点ギリギリの平均点など存在していいのだろうか。

「難しすぎたよね、物理」

 そう言って、一柳さんは封印するように答案用紙の右上を何度も折り込んだ。一体何から隠しているのやら。それにしても、本当に難しかった。なんでも、大学入試の過去問を拝借したらしい。僕達はまだ高校一年生なのに。

 まあ、平均点から見て、絶望するほどでもないのだろう。しかしそれでも平均以下であることに間違いはない。もう少し力を入れなければなるまい。

 因みに、僕のクラスにいる秀才は、その物理のテストで八十六点を取っていた。恐らく人間ではないのだろう。

 その時、ふと一柳さんが僕に訊ねた。

「というか、石澤くんはいいの? 探偵のくせに理系科目が苦手で」

「うぐ」

 確かに、論理的思考という意味で理系科目の成績も大事だろう。実際、最近の探偵は科学と近しいような気がする。先日図書館に行ったとき、有名な探偵漫画のキャラクターが「まんがでわかる物理」の表紙に描かれていた。

「で、でも、物理の知識を持っていたところで、探偵の役には立たないよ。多分」

「ふうん。無駄な知識なんてあるんだ。じゃあ物理を使ったトリックは解けないんだね」

「……」

 僕の負けである。精進して勉学に励みましょう。それにしても、僕より一柳さんの方が物理の点数が高いのは何故なのだ。科学はオカルトと真逆の存在なのに。化学だって一柳さんの方が上だ。悔しい。

「なんだか、勝った筈なのにあんまり釈然としないな」

「私も、なんだか落ち込んじゃった」

 中間が終わっても、すぐに期末がやってくる。これを三年間も繰り返すのだ。それを考えると少し憂鬱になった。結局、テストから開放された直後が一番楽しかったなあ。


 勝負は終わり、僕達も日常をとり戻す。僕は文芸部の棚にあった適当な文庫本を読み、一柳さんは久瀬文集を見ていた。

 と、そこで少し気になった。一柳さんが久瀬高校の七不思議に興味があることは知っているが、だからこそ彼女は七不思議を全て把握している筈だ。いまさら久瀬文集を読んでいるのは何故だろう。

 すると、彼女は棚から一枚の紙を取り出した。それは以前、僕が資料室から持ち出してきた旧校舎の見取り図だった。借りたのは中間テストの前なので、もう随分と借りてしまっている。早く返さなければ。

「というか、なんで見取り図見ているの?」

 彼女が見ている見取り図は、現在の校舎が建設される前の旧校舎のものだ。そして久瀬高校の七不思議が制作されたのは旧校舎の時代である。だから関係があるといえばあるのだが。

「うん、少し気になることがあって」

 一柳さんは見取り図と久瀬文集を見比べていた。

「見て、これ」

 彼女は久瀬高校七不思議、その一を指し示した。

「その一? 前に見たよ」

 僕は改めて久瀬文集に目を通す。


 久瀬高校・七不思議:その一 端の教室

 久瀬高校の最果てに存在する教室をご存じだろうか。最上階の一番奥に存在するその教室には、幽霊が出るという噂がある。その霊の正体とは、「やつねちゃん」なのである!


「これがどうしたの?」

 最上階の教室。七不思議に登場する教室はあくまで旧校舎のものだ。そこで何が起こったのかは、現在の僕達には知る由もない。

「石澤くん、旧校舎の見取り図見て」

 一柳さんは紙面を広げ、最上階の地図を見せた。

「最上階の一番奥、この見取り図でいうと、この教室だと思うの」

 そう言って、彼女はとある教室をトン、と指で叩いた。一番奥に配置された教室。七不思議その一の示す教室はここで間違い無いだろう。そして、その教室を見て

「げえ」

 思わず僕は顔を顰めた。

 最上階の一番奥。そこの教室は「文芸資料室」。そして手書きで、次の文字が追加されていた。

「文芸部、部室」

 思わず読み上げる。僕の反応を見て、一柳さんは満足したように笑った。

「そう、『七不思議その一』の舞台は、文芸部の部室だったの」

 少し、ゾッとした。しかしすぐに冷静になった。七不思議なんて作り話に決まっている。それに七不思議が作られたのは、旧校舎の時代だ。現在の部室には「やつね」という少女の怨念は存在していない。

 しかし、僕のそんな浅はかな現実逃避を見透かしたように、彼女は言った。

「実際の舞台が旧校舎だったとしても、『久瀬高校の文芸部』であることに変わりはないでしょ? つまり、新校舎となった現在でも、七不思議が現実になる可能性はあるの」

 その言葉を聞いて、僕は何となく背筋の寒気を感じ、軽く周囲を確認してしまう。当然何もいないけれど、僕は少し怖くなった。

 すると

「まあ、『やつね』の怨念が実在していたとして、この部室に現れることはないと思うけどね」

 彼女は少し残念そうに、肩をすくめて言った。

「どういうこと?」

「うん、私が前に言ったこと覚えてる? 霊が存在するためには、怨念と噂が必要だって」

そういえば、以前彼女がそのようなことを言っていた。僕が頷くと、彼女は続けた。

「怨念と噂は、どっちも大切なの。つまり、元々の怨念とは違った噂が流れてしまっても、その噂通りの怪異が誕生する可能性があるってこと。そして現在、噂として広まっている七不思議その一の内容は?」

「最上階の、奥の教室……あ、そうか」

旧校舎におけるその教室は文芸部の部室だった。しかし、現在の校舎では違う。現在の最上階の一番奥にある教室とは

「開かずの教室」

 僕は四階の教室を思い浮かべた。一柳さんは頷く。

「つまり、どんなに七不思議が広まっても、幽霊が発生するのは文芸部じゃなくて、『開かずの教室』ってこと」

 一柳さんの説明に、僕は納得した。確かに彼女の言う通りならば、この部室に霊が発生する可能性は少ないだろう。

「実際『開かずの教室』では霊の目撃情報が多いでしょ?」

 一柳さんはさらりと言った。

 そう。確かにこの部室で出現する可能性は低い。しかし、その代わり「開かずの教室」では現れてしまうかもしれないのだ。

 そして、何を隠そう、この僕自身も「開かずの教室」で幽霊を目撃しているのだ……。

「……いいや、そんな筈はない。お化けなんてそもそもいないんだから」

 危ない、危ない。あまりの恐怖に自分を見失うところだった。僕は探偵なのだ。全ての謎を解き明かし、全ての真相を明らかにする者。

「ただの見間違いだって、この間も言ったよね」

 あの教室の壁は汚れていた。その汚れを幽霊と見間違えたのだ。幽霊の正体なんて、そんなものだろう。

 ……と、思いたいのだけれど。

 そう自分に言い聞かせたところで、恐怖心が完全に消える筈もない。僕は少し震えた。その上、追い打ちを掛けるように、一柳さんは鋭い眼光をとり戻した。

「……さっきは、この教室では出ない、なんて言ったけど、もしかしたら出るかもしれないよ」

 僕は彼女の威圧感に思わず身を固める。彼女はにやりと笑った。

「七不思議が書き換えられて、舞台が文芸部の部室に変わったら、きっと『やつねちゃん』はここに出る。それに、それだけじゃないよ」

 彼女は部室の隅をじいっと見た。僕は彼女の視線を追い、少し震えた。

「霊は物にも宿るの。もしも、アレが『やつねちゃん』に縁の深い物だったら、或いは……」

 彼女が見つめる先。そこには不気味な机が置かれていた。


 文芸部の部室は少しばかり不気味だった。

 まずは本棚。心霊特集を組むためか、部室の本棚には、オカルト関係の本が多く置かれているのだ。

 そして、もう一つ。とりわけ不気味な物が、部室の端に置かれた一組の机と椅子である。普段使用している教室の机と同じ物だが、机の上が奇妙なのだ。

 使用禁止、処分禁止。

 その文言が書かれた紙が、貼り付けられている。使ってはいけないが、捨ててもいけない。一体何が目的なのか、はたまたただのイタズラか。とにかくこの一組の机と椅子の所為で、文芸部のオカルト要素が増している。

 六月とはいえ、もう初夏。湿度も上がり、熱気が纏わりついて暑い。一柳さんも水筒を持ち込んでいる。彼女は、じゃぼん、と涼しい音を立てて水筒を飲んだ。学校で許可されている水筒の中身は、水かお茶かスポーツドリンク。そのどれかを冷やして入れているのだろう。一柳さんは額に浮かんだ汗を拭った。

 だというのに。僕はすっかり凍えてしまった。僕は久瀬高七不思議「その一」を思い出す。まさか「その一」の舞台が……「やつねちゃん」が出る教室というのが、文芸部の部室だったなんて。

 使用禁止にして処分禁止の机。それに加えて七不思議の「その一」。これは偶然なのだろうか。「やつねちゃん」の霊は実在しているのではないだろうか。一柳さんの言うとおり、この机は「やつねちゃん」に関係しているのではないだろうか。

 それはとても恐ろしい。それは心霊的な怖さもあるが、しかしそれ以前に、言い表しようの無い不快感がある。だってそうだろう。彼女の怨念が実在するならば、恨みや悔いがこの机と椅子に染みついているのかもしれないのだ。そう考えるだけで、悍ましい。

 そんな恐怖に震える僕とは対照的に、一柳さんは涼しい顔をして水筒で遊んでいる。じゃぼじゃぼと音が聞こえる。そして不意に呟いた。

「でも、オカルトとは別にしても、少し不思議よね」

「不思議って?」

「七不思議のこと。七不思議その一の舞台は文芸部の部室でしょ?」

「そうだね」

 久瀬文集と旧校舎の見取り図を見る限り間違いないだろう。

「でも、久瀬文集の記載は『最上階の一番奥の教室』。これ、少し変じゃない? どうして『文芸部の部室』って書かなかったのかな」

 確かに言われて見れば妙だ。わざわざ「最上階の一番奥」なんて位置で書かなくても、「文芸部の部室」、または「文芸資料室」と記載した方がわかりやすい。その上、具体的に教室も思い浮かぶので、怪談として臨場感が出るだろう。

 僕が少し頭を捻っていると、彼女はお決まりの台詞を吐いた。

「きっと、幽霊の仕業ね」

 ……どういう幽霊だ。何が目的なんだ。

 と、普段ならば、取って付けたかのような彼女の口癖に呆れるのだが、しかし、今日は「やつねちゃん」の話を聞いて、少し臆病になっている。彼女の口癖にも、少し鳥肌が立ってしまった。

 すると、そんな様子の僕を見て、彼女は不意に立ち上がった。

「ねえ、石澤くん。ちょっと外行かない?」

「外? いいけど、何処行くの?」

「ちょっと、お散歩」

 中間テストも終わって、そして依頼もない。一柳さんの目的は不明だが、僕は彼女に付き合うことにした。


 怪談に震えていた僕だったが、しかし教室を出てしまえば恐怖は紛れる。加えてこの気温と日差し。僕の頬を汗が流れる。……暑い。

「それで、ここに来たってことだね」

 僕が訊ねると、彼女は頷いた。目の前には自動販売機。高校の中にある、学生プライスの安い自販機だ。なんと、500mlのジュースがたったの百円! 高校生万歳!

 まだ夏の本番とは言えないが、暑いものは暑い。一柳さんもこの暑さに喉が渇いたのだろう。彼女は小銭でパンパンに膨れ上がった財布を手に、自動販売機の前に立ち、じっと見つめている。

「何買うの?」

 本当に気になったわけではないが、自然と僕は訊ねていた。すると

「そうね」

 彼女は悪戯に笑った。

「何買うと思う?」

「え? さあ」

 僕はメンタリストではない。そんなこと僕の知るところではないのだ。そして興味も然程ない。しかし、彼女はくすりと笑った。

「ねえ、石澤くん。私が何を買うのか当ててみて。推理してくれたら、奢ってあげるよ」

「本当?」

 それは願ってもいない話だ。僕も喉が渇いているし、高校生は常に金欠なのだ。その上、外したところで罰があるわけでもない。俄然、彼女の選択に興味が湧いてきた。

「いいよ。乗った。絶対に当ててみせるよ!」

「うん。じゃあ、どうぞ」

 一柳さんは横にずれ、自販機の前を僕に譲った。

 さて。僕はラインナップを眺める。販売されているのは、500mlと250mlの飲み物。500mlは百円で、250mlは八十円。しかし例外も存在する。500mlの炭酸の缶ジュースは、何故か八十円だった。これは久瀬高校が特別というわけでもない。炭酸の、大きな缶ジュースは何故か安い。何故だろう。あと、水も八十円だった。味がついていないからだろうか。

 まあ、今はそんなことどうでもいい。問題は、この多くの選択肢の中から絞らなくてはいけないという点だ。

 とはいえ、全く見当がつかない、というわけでもなかった。

「一柳さんって、確か炭酸駄目だよね」

 彼女はそっぽを向いて答えなかった。だが、前話したとき、「炭酸苦手なの」と言っていたのを覚えている。これで多くの選択肢を潰すことができる。

 ここで候補を書き出してみよう。

 まずは500mlの飲み物。水、緑茶、スポーツドリンク、アセロラジュース。続いて250mlの飲み物。缶コーヒーの微糖、カフェラテ、オレンジジュース、アップルジュース、緑茶。

 炭酸が消えたことで候補はかなり絞ることができたが、それでも多い。と、よく見るとアップルジュースは売り切れていた。これでまた一つ候補が減った。

「うーん」

 まず、500mlか250mlか。たった二十円の違いで二倍になるのだから、僕ならば迷わず500mlを選ぶ。しかし、女子はどうなのだろう。ちょっとで充分、なんて思うかもしれない。……いやいや、ペットボトルならば蓋をすればいいだけではないか。

 というより、そもそも500mlか250mlかで決めるのは正しいだろうか。仮に一柳さんがオレンジジュースを飲みたがっていたとしよう。そうなれば彼女は250mlを選ばざるを得ない。味か、量か……。いやでも、この暑さだ。量を優先する可能性は高いのではないだろうか。

 うんうんと頭を悩ませていると、退屈になったのか、彼女はぶっきらぼうに僕に尋ねた。

「石澤くんだったら何を買う?」

「僕? そうだなあ」

 改めて眺める。そして僕はあることに気が付いた。500mlのジュース、レモンスカッシュが無くなっている! 売り切れではなく、そもそも存在していない。僕はレモンスカッシュが好きで、頻繁に購入していたので少し悲しい。不人気だったのだろうか。中間テストの間に、こんな悲惨な事件が起こっていたなんて。

 まあ、無いものは仕方無い。レモンスカッシュ以外ならば……。

「そうだね、ファンタオレンジの缶かな」

 500mlにして八十円。コストパフォーマンスは最強だ。缶のため蓋はできないが、しかし暑いので一気に飲めそうだ。

「ふうん」

 折角答えたというのに、彼女はやはり適当に相づちを打った。本当に暇なのだろう。先ほどから、財布のジッパーを開け閉めして遊んでいる。小銭で太っているため、つっかえ、ぎこちない。

 というより、彼女も早く何か飲みたい筈だ。待たせるのも悪いので、すぐに見当をつけたいところだ。

 僕はじっと自動販売機を見つめた。……まず、水はないだろうな。水道で飲めるのだから、わざわざ買う必要も無い。あと、一柳さんはカフェインが苦手だと言っていた。飲むと頭が痛くなるらしい。コーヒーも候補からは外れる。カフェラテはどうだろう。微妙だが可能性は低いのではないだろうか。こちらも外していいだろう。

 纏めると、残る選択肢は四つ。500mlは緑茶、スポーツドリンク、アセロラジュース。250mlはオレンジジュース。

 緑茶という選択肢は僕なら取らないが……しかし一柳さんはどうだろう。緑茶を好んでいても不思議ではない。

 それに、そもそも彼女が甘い物を嫌っていた場合、狙い撃ちができる。……いや、この間は普通にジュースを飲んでいたな。ううむ。

 四択が限界なのだろうか。ここまで来たら後は運だろうか。

「いや、違うな」

 僕は思わず呟く。一柳さんは「推理して」と言ったのだ。探偵である僕の前で「推理」と口にした。

 それはつまり、「全ての条件は揃っている」ということではないだろうか。この問題は当てずっぽうではなく、推理で当てることができるのだ。

 であるならば。まだ何かある筈だ。見落としている証拠が。特定に至る重要な証拠が! 今日、彼女と交した会話を思い出す。

「……なるほど」

 僕は笑った。

「決まった?」

 一柳さんが僕に尋ねた。僕は頷く。

「一柳さん。君が買おうとしているのは、これだね」

 僕はアセロラジュースを指し示した。


「理由を聞いてもいい?」

 もちろん、と頷く。僕はまず、四つの選択肢まで絞ったところまで簡単に話した。

「それであとは四択だ。だけど、ここからが問題だ。ここから特定していくことは難しい。今、一柳さんが何を飲みたいのかなんてわからない」

 量か、味か。今彼女が求めていることなど知りようがない。

「だけど、思い出したよ。教室での出来事を。一柳さん。君が求めていたのは、少なくとも量じゃないね」

 先ほど、部室で話していた時。一柳さんは水筒を飲んでいた。そして彼女が水筒を傾けた時、「じゃぼん」と音を鳴らした。つまり、水筒にはまだまだ飲み物が入っている。

「それなのにわざわざ自動販売機まで来たんだ。つまり、一柳さんは喉が渇いたわけじゃない。だから、候補からお茶とスポーツドリンクは外してもいいかな」

 久瀬高校で認められている水筒の中身は、水、お茶、スポーツドリンクの三種。水筒の中身と同じ飲み物を買うとは思えない。

 そして、水筒に入れるとしたら好きなものを入れるだろう。つまり、仮に水筒の中身がお茶だった場合、彼女はスポーツドリンクよりお茶の方が好きということだ。だからこそ、自動販売機でスポーツドリンクを買う可能性も低い。逆の場合も然り。

「さて、残る選択肢は二つ。500mlのアセロラジュースか、250mlのオレンジジュースか」

 一柳さんは量で決定していない。では味だろうか。しかしそれは彼女の気分次第で変わってしまう。特定は難しいだろう。

 でも、味ではなかったとしたら?

「一柳さん。君が求めているのは、量でも味でもなかったんだ。値段、でしょ?」

「値段? 量と何が違うの?」

 アセロラジュースは500mlで百円。オレンジジュースは250mlで八十円。確かに量によって値段が変わるが、しかし値段と量は全く別だ。

「ああ、私がけちん坊だから、安いものを買うと思ったの?」

 彼女はそう言った。観点は近い。しかし、僕が思うに、逆だろう。

「一柳さんの、その財布がヒントだったんだ」

 僕は彼女の手元を見る。そこには小銭でパンパンに膨れた財布があった。

「一柳さん。君は小銭を減らしたかったんだ。小銭が増え過ぎて、歪んでしまった財布を元に戻したかったんだ」

 膨らんだ財布は少し不格好だし、なによりジッパーが壊れてしまうかもしれない。少しでも小銭を減らしたい筈だ。

「だからこそ、一柳さんの選択は確定するね」

 八十円と百円。十円玉で支払うとして、百円の方が多く小銭を消費できる。

「だから、アセロラジュース。どう?」

 僕は彼女をじっと見つめる。彼女は薄く笑った。太った財布のチャックを開けていく。そして

「残念でした」

 一柳さんは財布から十円玉を八枚取り出した。合計八十円。

 なる程、財布は膨らんでいたけれど、十枚はなかったのだろう。だからこそ八十円のジュースを選択した。理にかなっている。

 しかし、財布の中身まで見通せる筈もない。ミステリーの問題としては不出来だね。そして一柳さんはオレンジジュースを選んだ。

「……は?」

 思わず声が漏れる。一柳さんは確かにオレンジジュースを選択した。

 ……八十円の、500ml缶のファンタオレンジを。炭酸の、オレンジジュースを。


「えっと、本当にそれなの?」

 僕は唖然として訊ねる。彼女は炭酸が苦手だった筈。まさか、ずっと騙されていたのだろうか。

「うん、これ。決まってたの」

「本当に? 途中で変えたりしてない?」

「それは、どうでしょう? 石澤くん次第かな」

 さっぱり意味がわからない。僕は少し狼狽えた。本当に、これは解ける問題だったのか? そんな僕の様子を見て、彼女は微笑んだ。

「それに、石澤くんの推理には穴があるよ」

「穴?」

「うん。喉が渇いたから買いに来たわけじゃないって推理したよね。そして、味でもないって」

「そうだね。小銭を減らしたいって推理したんだ」

「わざわざ部室から自動販売機に来てまで、小銭を減らそうとしたって思ったの?」

「あ」

 確かにそうだ。あの時、彼女は不意に席を立って自動販売機に来たのだ。小銭を減らしたい、という動機だとすると突飛だろう。

「じゃあ、やっぱり味で決めたの?」

 そんなの、推理のしようがない。というより、彼女が炭酸を選んだ理由も謎のままじゃないか。しかし彼女は首を横に振った。

「だから、それも石澤くん次第」

 そう言うと、一柳さんはファンタを僕に差し出した。

「はいこれ。あげる」

「え?」

「私、飲み物を買うとは言ったけど、自分で飲むとは言ってないよ」

「……あ」

 それで気づいた。500ml缶のファンタオレンジ。それは正に、僕が欲していた飲み物じゃないか! つまり

「僕にプレゼントするためってこと?」

 一柳さんは頷いた。彼女は僕にプレゼントするために自動販売機まで来たのだ。

 答えは推理するまでもなく、僕の中にあったのだ。

「でも、なんで急に?」

「だって、私負けたから」

「うん?」

「罰ゲーム。敗者には、ペナルティーが必要なんでしょ?」

「あ」

 確かに、中間テストの罰ゲームとして、一柳さんから何か買ってもらう約束だった。

「それに、お詫びも兼ねて、ね」

 一柳さんは少し申し訳なさそうな顔をした。

「お詫び?」

「うん。石澤くん、怪談苦手でしょ? それなのに、私調子に乗って怖がらせちゃった」

「……」

 僕が怖がりだと、ついに見抜かれてしまった。

「い、いや、別に怖くないし。幽霊なんていないし。だからいいよ。気にしないで。僕も探偵のこと話しちゃうし、お互い様だよ」

 思わず口籠もる僕を見て、

「そう」

 と、一柳さんは優しく笑っていた。


「あ、そういえば」

 僕は唐突に思い出した。

「怪談といえばなんだけど、七不思議その一に不思議な点があったでしょ?」

 わざわざ「最上階の一番奥」と記載した理由。文芸部の部室、と書かずに場所で指定した理由。

「それ、解けたかも」

「本当?」

 一柳さんは目を見開いた。

「うん。あくまで推測だけどね。……多分、ずっと残すためだよ」

「残す?」

 そう。僕は自動販売機を見る。僕の好きだったジュース。レモンスカッシュは、もうそこには無い。不人気のため、失われてしまった。それと同じだ。

「『文芸部の部室』って書いても、いつか文芸部はなくなってしまうかもしれないでしょ? 実際、今の文芸部の部員は二人。いつ廃部になってもおかしくない。だから、場所で書いたんだ」

 文芸部がなくなっても、ずっと残るように。

「でも、それなら『文芸資料室』でもよかったんじゃない?」

「それも同じだよ。部屋の名前なんてコロコロ変わるし、位置が変わることもある。久瀬高校の校舎が残る限り、ずっと『最上階の一番奥』の教室は変わらないからね」

「なるほど。納得ね」

 彼女はぽん、と手を叩いた。

 しかし、久瀬高校の旧校舎は取り壊され、新校舎となってしまった。結果、七不思議の舞台は文芸部の部室でも、文芸資料室でもなくなってしまったわけだが。

「まあ、そこまでしてどうして七不思議『その一』を残そうと考えたのかはわからないけどね」

 そう言って、僕は缶ジュースのプルタブに手を掛け、そして躊躇した。

「……これ、貰っちゃっていいの? 僕、結局一柳さんが選んだジュースを当てられなかったのに」

「いいの。罰ゲームなんでしょ? それに、当たったら奢る、なんて言ってないよ、私」

「え?」

「私、『推理したら奢ってあげる』って言ったの。なかなか楽しい推理だったよ」

 そういえばそうだった。結局、僕の推理は穴だらけじゃないか。僕は苦笑し、プルタブを引っ張る。

「じゃあ、遠慮無く。いただきます」

 しぶきを上げ、柑橘の甘い香りが漂った。僕はその香りごと、爽やかな炭酸を喉に押し込んだ。……美味い。乾いた身体に染み渡っていく。

 思わず顔がほころんでしまった。やはり夏は炭酸に限る。

 そんな僕の様子を見て、羨ましくなったのだろうか、一柳さんは財布を開け、自動販売機の前に立った。

「折角だから、私も何か買おうかな」

 そう言うと一柳さんは少し悩み。

「うん、決めた」

 ピッ。ガシャン。

 彼女はアセロラジュースを選択した。

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