第9話

『蒼馬君、君は自分で今後を潰すつもりか!』


アサの脳内で、男性の声が反響する。

彼はたぶん、蒼馬のマネージャーだ。

言っていることが正論すぎて、アサには反論の言葉が一文字も浮かばない。


人がごった返す東京駅を、のろのろと歩く。

帰宅途中のサラリーマンたちが、舌打ちしながらアサを抜かしていった。


(母親の新居は知らないし、第一行きたくもないし)

どうしたものか、と感傷に浸るように、あてもなく東京駅の地下街をうろつく。

(ほんとは、どうなろうと知ったことじゃないんだけどな)


アサの脳裏に、寝室で台本を読み込む蒼馬がよぎった。

(あの人、あの仕事好きみたいだし)


雨はさらに強まってきたようで、それに比例するように地下を歩く人が増える。

夏も本番になってきたからか、こうした夕立めいたものが増えた。


アサは人の流れに逆らうように、地上へ上がる。

いかにも東京駅といわんばかりの、駅の外観がよく見える場所だった。

観光客が慌てて地下へ避難する。

その光景を買い物袋を持った少年が見ているというのは、どうにも悪目立ちするものだ。


「今日の夕飯は、なんだ?」

「は?」

アサが振り返ると、この雨の中サングラスにマスクの、明らかに不審な男が立っていた。


「待て待てアサ! 俺だ!」

自分のことを、「アサ」と呼ぶのは彼しかいない。

アサは逃げるのをやめ、不審な男──蒼馬と向き合う。


「なんでここにいるのが?」

蒼馬はマスクでも隠し切れないほど、にんまりと笑う。

「スマホの右上」

アサはスマホを取り出し、画面の右上を確認する。


「あ」

キャリア契約していないはずなのに、そこには位置情報のマークと、アンテナが三本しっかりと表示されていた。


「意趣返しかよ」

「ふふん。アサはいつも家にスマホを置きっぱなしだからな。サプライズで契約してきた」

蒼馬は自信満々に「ギガも電話も使いたい放題だ」と腰に手をあててふんぞり返る。


「位置情報アプリとか悪趣味」

アサは傘を傾けて、顔を隠した。

「必要な時以外は見てないぞ、今みたいな」

言葉に詰まったアサを見て、蒼馬は一度肩をすくめると、右手を差し出す。


「アサ、帰ろう」

「帰らないよ」

「なんで?」


アサの声が裏返る。

「なんで? 考えたらわかるだろ! おれのことがバレたら、あんたの仕事は……」

蒼馬は首を傾げた。

そして、舞台上の悪役のように、優美でありながら歪んだ笑みを浮かべる。


「バレないよ」

それは、確信を持った言葉だった。

「バレないさ。演じきって見せる。ただの『独身若手俳優』を」

蒼馬は踊りに誘うように、アサの手を握る。


「だって俺、天才俳優だからな」


馬鹿だ。

本物の馬鹿だ、とアサは思った。


絶対にバレるはずだ。

もうマネージャーにはバレた。

なのに、バレない気がする。

蒼馬の不思議な説得力に、アサは心の中で首を傾げた。


「それに、俺はアサとの生活が楽しかった。アサは、どうだった?」

道路の街灯が、ポツポツと明かりを灯す。

水溜りがその光を反射して、蒼馬は輝くステージにいるようだった。


「自分が楽しかったから、相手も楽しいとか……ストーカーみたいな思考回路だな」

「えっ、そうなのか?」


犬だったら、耳と尻尾が垂れているだろう。わかりやすい蒼馬の態度に、アサは目じりを下げる。

「別に、楽しくなかったとは言ってねぇよ」

「え、何か言ったか?」

「なんでもない」


アサはスーパーの買い物袋を、蒼馬の方に差し出す。

「持ってよ。今日の晩ご飯、マッシュルーム入りのオムライスなんだから」

蒼馬は強奪するほどの勢いで、買い物袋を持つ。

「楽しみだよ、アサ! 早く帰ろう!」

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