第8話
「蒼馬君」
飯田の運転する車から降りようとした蒼馬は、シートベルトに手をかけたままの状態で、「はい」と目線だけで応じた。
「なにか、隠してることない?」
「え~?」
蒼馬は半笑いのまま、飯田をミラー越しに見る。
飯田は視線を逸らす気はないようで、目線がぶつかっても臆することなく蒼馬を見ていた。
ささいな嘘も、見逃さないとばかりに。
「仕事一筋で、頑張ってますよ?」
飯田は何も言わなかった。
何も言わないまま、車のロックを解除する。
蒼馬は早くこの場を去りたいという気持ちを悟られないように、あくまでいつも通りにシートベルトを外した。
「蒼馬君」
ドアを開けて後部座席から腰を浮かせたまま、目線だけ飯田に移す。
「君だってもう、いい大人だ。恋人くらい、おかしなことではないと思うよ」
蒼馬は目を細めると、眉尻をわずかに下げた。
「今は、仕事が恋人ですよ」
滑るように車から降り、「お疲れ様でした」と笑ってドアを閉める。
どこか解せない顔をしていた飯田だが、車はマンションから去っていった。
それを見送ると、蒼馬はエントランスに逃げるように入ると、膝に手をついて大きなため息をついた。
心臓がここまで大暴れするのは、三年前の幽霊ドッキリ以来だ。
しかしまずいことになってきたぞ、と蒼馬は心の中でグルグル考える。
(この調子だと、飯田さんにバレるのは時間の問題だよな~。知ったら絶対、反対するだろうし)
蒼馬は頭をかき回すと、もう一度ため息をついてエレベーターの上ボタンを押した。
どこかレトロな音をたてて、エレベーターのドアが開く。
心臓が早く脈打つのにつられて、蒼馬は必要以上に、自分の階のボタンを連打した。
(イチかバチか、打ち明けるか?)
エレベーターの扉が閉まり、内部の小さな液晶の表示が一階から二階に変わる。
(いや、ただの恋人じゃない。隠し子はイメージダウン確実だしなぁ。間違いなくアサとは引き離される)
蒼馬が慣れない頭のフル回転をしている間に、エレベーターは再び軽快な音をたてて扉を開けた。
廊下を数歩歩くと、見慣れた玄関ドアがあった。
カードキーでロックを解除して、蒼馬はドアをあける。
「ただい──」
蒼馬はそこまで言って、家の中が暗いことに首を傾げる。
アサがいつも履いている靴が、見当たらないことに気がついた。
アサは、初めてこの家に来た時に履いていた運動靴しか履かない。
それがないということは、どこかに出かけているということだ。
アサの不在を特に気にすることなく、靴を脱いで廊下を歩いた。
蒼馬自身が、今日は少し早く帰ってきたというのもある。
蒼馬は誰もいないリビングに入る気が起こらず、自身の寝室に向かう。
カバンを床の空いているスペースに置いて、着替えずにベッドに寝転んだ。
そういえば、普通はこんな生活だった、と蒼馬はぼんやり思う。
たった一ヶ月半で、暗い部屋を当たり前と思わなくなった。
人の慣れは怖いな、と蒼馬は目を閉じる。
それを起こすように、家のインターフォンが鳴った。
ひょっとして、アサは家のカギを忘れたのではないか。
蒼馬はすぐに起き上がって、廊下を小走りで進んで玄関のドアを開けた。
「きちんと相手を確認してから出るようにしなよ」
ドアの前にいたのは、飯田だった。
蒼馬は血液の流れがおかしくなったかと思うほど、体がうまく動かなくなる。
ドアを開けたまま呆然とするだけの蒼馬に、飯田は不審そうな顔を向けた。
「蒼馬君?」
「あっ、すみません。なんの用ですか。わ、忘れ物でもしてました?」
飯田は俯いて「ごめん」とつぶやくと、玄関に入って靴を脱いだ。
「飯田さん!」
「これが、取り越し苦労であってほしいと思うよ」
蒼馬の静止を振り切り、飯田は遠慮なく廊下を進む。
なんのためらいもなく、彼はリビングのドアを開けて中に踏み込んだ。
ソファの横にあるブランケットは、アサが寝るときに使っているものだが、彼は気にも留めない。
アサの痕跡があちこちにあるリビングを、飯田は早々に立ち去り、蒼馬の寝室に入る。
蒼馬は、飯田が恋人の存在には寛容であったことを思い出した。おそらくは、飯田が疑っているのはそれ以外。
(なら、アサを恋人と偽れば帰ってくれるはず!)
アサがまだ帰ってきていないことを、蒼馬は天に感謝した。
「飯田さん、実は」
「蒼馬君」
飯田が、蒼馬の部屋の片隅にしゃがみこんだ。
「これ、何?」
立ち上がった飯田の手に握られていたのは、ルカから送られてきた、アサに関する書類だった。
「あ」
蒼馬はそれ以上、何も言葉がでなかった。
頭の中は真っ白にはならない。
ただひたすらに、「ついに見つかった」という思考が意味もなく廻り続けるだけだった。
「子ども、か。想定外だな。てっきり薬物かと……」
飯田はうわ言のように一人でしゃべると、もう一度、蒼馬の目の前に書類を差し出す。
「なに考えてるんだ」
「これには訳が」
「訳? まず、君の子か?」
蒼馬はグッ、と喉の奥が詰まったような感覚に襲われる。ハッキリ言えば、九割、いや十割の確率で蒼馬の子ではない。
「いや、この際本当の子かなんてどうでもいい。問題は、その子を君が自分の子として育てようとしていることなんだよ!」
飯田の言葉は蒼馬を責めるようだった。
ただ、彼の声色はあまりにも悲痛で、蒼馬は自分が飯田を責め立ててしまったような気持ちになる。
「頼む、考えればわかるだろう? 今まで離れていたんだ。元に戻るだけだ。蒼馬君、君は……この芸能界で、ここまでこれたんだんだよ。それを捨てるのか?」
飯田が蒼馬の肩をつかむ。
諭すように、縋るように。
それを振り払うことは、蒼馬にはできなかった。
「児童養護施設は探す。当然、いいところを探すよ。子供に罪はないから。でも、関わっちゃだめだ。今はどんな些細なこともスキャンダルになる。君の足を引っ張るんだよ」
「飯田さん」
「蒼馬君、君は自分で今後を潰すつもりか!」
飯田はそう叫ぶと、膝から崩れ落ちた。
「飯田さん、ごめん」
蒼馬は静かにつぶやく。
「俺は、あの子の父親です。血のつながりはたぶんないです。けど俺は……あの子の父親になりたいんです」
最愛の恋人に別れを告げられたように、飯田は苦し気に顔をゆがませた。
「はぁ、ひとまずは帰るよ。でも、この件は終わってないからね。君の意志が変わらないようなら……最悪の場合だってありえるからね」
重苦しい空気の中、飯田を玄関まで見送る。
梅雨はもう明けたというのに、いつの間にか雨が降り出していた。
「あれ」
玄関のタイルが、わずかに濡れていた。
嫌な予感がして、蒼馬は備え付けの靴箱を乱暴に開ける。
アサの傘が、なくなっていた。
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