節子

「橘 節子です。今日からどうぞよろしくお願いします。」

そう言って節子はぺこりと頭を下げた。

節子の両親は先の空襲で死亡した。一人遺された節子は、田舎に住む親類の家に身を寄せる事になった。M村の太夫を務める小松和夫は節子の母方の伯父に当たる。その和夫の家に今日からお世話になる事になったのだ。


「よう来たな。ご両親のことはお気の毒さまちや。今後はここを自分の家と思ってや。」

和夫とその妻であるすゑが節子を出迎えた。

小松家の子どもたち、節子より二つ歳上の勇と一つ下の幸子が遠巻きにこちらを窺っている。


「ありがとうございます。」

これまで殆ど会ったことがないにも関わらず温かく受け入れられ、節子は感謝の思いでいっぱいになった。早く村の生活に馴染んで、少しでも役に立てるようにならなくては。

両親を喪ったばかりの十歳の少女は、こうして小松家の一員となった。



戦争はどうやら節子が村に来てから程なくして終わったらしい。ラジオを所有する人間はこの村にはほとんど居なかったので、終戦の話も口伝てで聞いた。


村には東京から来た節子には奇妙に感じられる風習があった。小松家は周囲の人々から「狗神筋いぬがみすじ」と呼ばれていた。太夫である和夫は、村の人々から様々な相談を受け、呪術を用いて医者では治せない病気を治したり、神々や精霊の《お叱り》を伝えたりするのだった。


ある時、節子の同級生の母親から「娘の目にできよった腫れ物が治らん」という相談を受けた。すると、和夫は米占ふまうらをして原因を探る。どうやらこの腫れ物はどこかで神霊の怒りを買った事による《お叱り》のようだ。


「近頃、川でなんかの生き物を捕っとらんか?」

和夫が尋ねる。

「そう言えば、蛙を取っちょったっけなぁ。」

「そい蛙が霊気りょうげなんじゃ。霊気を怒らせたき、ほらん障りが娘に出ゆうんじゃ。」

そうして和夫は御幣を振り祈祷を行った。

数日後、相談者から「腫れ物が治っちゅう。」という報告と謝礼が入った。


こんな具合で、小松家にはひっきりなしに相談者が訪れた。相談の内容は小さなものから大きなものまで様々であった。生霊に悪さをされるとか、誰それに呪いを掛けて欲しいというような物騒なものも度々あった。そういう依頼を受ける場合は太夫も慎重になる。人を呪うとかやりの風が吹いて、依頼者のみならず太夫自身にも危険が及ぶ事があるからだ。大抵の場合は依頼者を説得して思い留まらせるため、節子はまだ和夫が呪詛すその祈祷をするのを見たことがない。


和夫は有能な太夫として村の人々に敬われていた。祈祷の報酬が入るため、小松家は周囲の家に比べると裕福であった。しかし、「あの家は“狗神憑き”やき」と、隣近所の人たちがひそひそと囁き合うのを節子は幾度も耳にした。“イヌガミツキ”の意味は分からないものの、どこか疎んじられているような気配は幼い節子にも伝わった。余所から来た自分を家に引き取った事も関係があるのかもしれない……そう思うと居た堪れない気持ちになるのだった。


節子が呪術に興味を持つと、和夫は呪術に纏わる物語を記した祭文を出して来ては読ませてくれた。達筆な行書体で書き記された文字を読むのは節子には難しかったが、読める箇所だけを拾って読んだ。


……四方さんざら みぢんと乱れや ・・・ 向ふわ知るまい こちらわ 知り取る……


「伯父さん、これは何の呪文なの?」

節子が無邪気に尋ねる。「どれ」と覗き込んだ和夫の面持ちが、す、と引き締まった。

「これは呪詛すその祭文やき、迂闊に口にせんときよ。」

嘗てなくぴりっとした空気を感じ取り、節子はそれ以上深く尋ねるのをやめた。



節子と小松家の長男である勇との関係は、何処となくぎくしゃくしていた。

幸子とはわりとすぐに打ち解けて、節子の事を「お姉ちゃん」と慕ってくれていたが、勇の方は余所者である節子に向ける苛立ちを隠そうとしなかった。節子が標準語を話すことや、呪術や祭文に興味を持つ事も勇のカンに触るようだった。そのため勇とはあまり口をきくことはなかった。

伯母のすゑはというと、表立って節子に冷たく当たるようなことは無かったものの、やはり微妙に他人行儀だった。和夫が実の息子である勇よりも節子を構うように見えるのもすゑには面白くなかった。

そんな調子で、いつの間にか節子が村に来てから六年が経過していた。


季節は冬から春に移り変わろうとしていた。

その日、外出先から帰宅した勇は傍目にも感じ取れるほど苛々していた。夕飯もそこそこに、勇は荒々しく音を立てながら自室に籠もった。

「何かあったやろか?」といぶかしがる幸子に、「どうしたんだろうね?」などと答えながら食事を終え、節子は自室に向かった。

学習机に向かい本を読んでいると、唐突に背後の襖が開く音がした。幸子が遊びに来たのだろうか?と思い振り向くと、そこに立っていたのは、勇だった。勇は相変わらず苛々とした空気を放ちながら部屋の中に入って来ると、節子ににじり寄った。


「な……に?」

「おまんはこの村が好きかよ?」

「どしたん、突然。」

「俺はこの村が嫌いだ。伊邪那美流やらいうのも大嫌いだ。おまんは楽しげに見ゆうけどよ。」

「……。」

「俺等が“狗神憑き”じゃ言うて毛嫌いされとんも知っちゅうが?」

「……。」

「おまんのその“自分わが他人事ひとごと”みたいな顔を見ゆうとな、俺はまっこと腹が立つがちや。」


そう言い捨てながら、勇は節子の手首を掴むと強引に引き倒した。


「……やめて。」

大声を出したかったが、恐怖のあまり声にならない。か細い声を絞り出すのがやっとだった。


「穀潰しなら、せめて俺の役に立てよ。」

そう言うと勇はズボンのベルトを外し始めた。


──こんな所を幸子に見られてはいけない。和夫に、すゑに……気付かれてはいけない。


恐怖と混乱の渦中にありながら、節子の理性は妙に冷静に状況を判断していた。

全力で抵抗しても腕力で勇に敵う訳がない。

声を圧し殺し、勇にされるがままになりながら、早く事が終わるのをひたすら願った。

感情が麻痺してしまったのか、涙も出なかった。


その日を最後に、勇は忽然と姿を消した。

あの日、勇は長らく想いを寄せていた女性に交際を迫り、すげなく断られたという話を後に聞いた。その会話の間にも聞き取れる「やっぱり“狗神憑き”やきにゃぁ。」という言葉が、勇の失踪の理由を物語っていた。

あの日以来、節子は笑わなくなった。勇が居なくなったことで、すゑの節子に対する態度は目に見えて冷たくなった。ともすれば塞ぎ込みがちになる節子に、和夫や幸子は「何かあっちゅうがか?」と尋ねた。しかしあのことを話す気にはなれなかった。


その年の秋に差し掛かる頃、節子は村を出る決心を固めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る