第12話:尊敬する作家はいますか?②

 さて前回、高村光太郎の人生についてお話をしましたので、今回は、妻の智恵子との話に焦点を当てて書いていきますね。


 高村光太郎と長沼智恵子との出会いは共通の知人がいたことからはじまります。具体的には、光太郎のアトリエに智恵子が知人の紹介で訪れたことがなりそめです。そして光太郎は、智恵子に一目惚れをしてしまいます。しかしその時、智恵子には婚約者がいて……、みたいなテンプレ小説みたいな話で二人のラブストーリーははじまります。


 ちなみに智恵子に婚約者がいて動揺した心境を、光太郎は「人に」という作品にのこしています。さわりの部分だけ書いておきますが、全文を読みたい人は下のリンクをどうぞ覗いてみてください。


人に

いやなんです

あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな

種子よりさきに芽の出るやうな

夏から春のすぐ来るやうな

そんな理窟に合はない不自然を

どうかしないでゐて下さい

型のやうな旦那さまと

まるい字をかくそのあなたと

かう考へてさへなぜか私は泣かれます

小鳥のやうに臆病で

大風のやうにわがままな

あなたがお嫁にゆくなんて


 ここまでにしておきますね。続きは青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html)にありますので、興味がある方はのぞいてみてくださいね。


 でも、こんなの文壇に発表されてしまったら、智恵子の婚約者は怒り狂うに違いないという内容ですね。そして自分の嫉妬を全国民に知らしめるという「若気の至り」、ある意味、純愛でかっこいいですよねw


 ま、そんなことはおいておいて、このことからも、光太郎がどれだけ智恵子のことを想っていたかが分かりますね。ここからのドロドロした恋愛の部分はおいておいて、とにかく光太郎と智恵子は結婚し、夫婦になります。まさに略奪愛ですねw


 ちなみに智恵子は油絵画家を目指しており、光太郎は、彫刻家にして、作家。まさに芸術家夫婦であったわけです。しかし、芸術家にはちゃんとしたパトロン、つまり後見人の金持ちが必要です。当たり前ですよね。画業で食えるわけないのは、昔から同じことなんですよ。では、この夫婦のパトロンは誰だったのでしょうか?


 光太郎の家は、息子を留学させるほどでしたから、モチロン裕福でしたが、芸術論で父と口論になり援助がもらえる状況ではありませんでした。実はパトロンは、智恵子の実家であったのです。ちなみに智恵子の実家は酒造家で、大量の女中を雇える相当な資産家だったのです。そのため傍から見ると、お金の心配もなく芸術に打ち込める道楽夫婦と映ったかもしれませんね。しかし、そんな幸せは長く続きませんでした。病気の魔の手が智恵子に迫っていたのです。


 智恵子は夫の才能に追いつけ、追い越せと努力を続けていましたが、光太郎は残念ながら天才です。いっこうに夫に追いつけない自分を情けなく思い、常に心に悩みを抱えた状態で結婚生活を14 年間続けてきました。そして1928 年、智恵子の父が亡くなり、実家が破産し、一家離散してしまいます。


 この事実が智恵子を支えていた「最後の心の一本の糸」を切ってしまい、彼女は統合失調症を患うことになるのです。


 ちなみに当時の智恵子は芸術家としては二流でした。


高村智恵子「樟」(1913 年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E6%99%BA%E6%81%B5%E5%AD%90#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kusu_by_Chieko_Takamura.jpg


高村光太郎「柘榴」(木彫)

これは検索してください。転載OKのサイトがないもので……。


 どうですか? あなたはこの2つを比べてみて何を感じましたか? 一応、私の感想を載せておくと、智恵子の絵はドラスティックではなく、緊張感の欠けたどこにてもある凡作にみえます。しかし高村光太郎の木彫は、本物と見まごうような、まさに暗闇の中、崖と崖にかかる一本の細い糸のような緊張感がありますね。これが智恵子と光太郎の才能の差なのです。そう、智恵子はこのように才能の圧倒的な差を見せつけられる、自分の才能のなさを突き付けられる14 年間の結婚生活だったのです。


 しかし、ここからなのです。高村光太郎のかっこいいところはここからなのです。智恵子が統合失調症を発病した後も、高村光太郎の智恵子への愛は毛一本ほどもかわりませんでした。光太郎は心を軽くするために、智恵子の家族の住む九十九里浜に移住し、自分の芸術活動よりも妻の看病を優先させました。


 これは本当にすごいことなんですが、これは智恵子へのプレッシャーになってしまったのです。すなわち、自分のせいで夫の才能を食いつぶしてしまっているという自責の念につながってしまい、1932 年、睡眠薬アダリンによる智恵子の自殺未遂へと発展してしまったのです。愛する二人の不器用さが招いた悲劇とも言える本当に切ない話ですよね。


 でも、そんなことがあったとしても光太郎の妻への想いは変わらなかったのです。その後光太郎は、療養のため夫婦で東北地方の温泉を巡ったり、智恵子のために全力を尽くすのです。そう、尽くしつづけるのです。


 そして1937 年に一つの転機が訪れます。東京で一番と評判の南品川のゼームス坂病院精神科に智恵子が入院した際、精神病には易しい手作業が有効だと聞いた光太郎は病室へすぐに折り紙を持っていき、智恵子に手渡したのです。そして、ほどなく智恵子は病室で紙絵の創作をするようになり、病床から千数百点の紙絵を生み出します。


 その時代の私のお気に入りの作品が高村智恵子「くだものかご」(1937-38 年)になります。これ、個人のブログしか画像がなかったので、さすがにリンクを張るのはと思いますので、よろしければ調べてみてください。


 この紙絵は本当に素晴らしくて、最低限の色で、果物のもつ温かみを絶妙な調和で捉えているのがわかりますか? 高村光太郎のような「緊張感」はありませんが、温かみのある独自の芸術的世界に智恵子は到達することができたのです。智恵子の到達した世界は、まるでマリーローランサンを彷彿させる、女性でしか達する事のできない描写の極地であったのです。


 もちろん、智恵子の紙絵は現在でも高く評価されており、神戸文化ホールでは、智恵子の紙絵をモチーフにした壁絵が存在します。


智恵子の紙絵『あじさい』を原画にしたモザイクタイル壁画(神戸文化ホール)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E6%99%BA%E6%81%B5%E5%AD%90#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kobe-bunkahall18.JPG


 このように彼女をとらえていた心の悩みが解消され、精神病が少しずつ良化しているように見えたのですが、神というものは残酷な運命をこの夫婦に課すのです。つまり、1938 年(昭和13 年)夏ごろから智恵子の具合が悪化し、10 月5 日、長らく冒されていた粟粒性肺結核のため、52 歳でその人生を閉じてしまったのです。


 智恵子の死は、ある意味、芸術家高村光太郎の死でもありました。高村光太郎は、智恵子の死以降、自分の芸術の中心を常に智恵子に置くようになります。その典型が、1941 年に発表した智恵子抄(https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html)と、1953 年に作られた「乙女の像」です。


 って、これも転載できる写真がないのでネットで調べて欲しいのです。ほんとごめんなさい。てことで、この乙女の像は、女性が手を合わせるように立っています。モデルはもちろん「智恵子」です。


 この像の解釈は所説ありますが、私が信じているのは、高村光太郎が「統合失調症」で二つに別れてしまった「智恵子の心」が「天国で一つになっていてほしい」との願いを込めたという説です。高村光太郎は1956 年に亡くなりますから、乙女の像は高村光太郎の最後の作品になりました。つまり高村光太郎は、死の間際まで「智恵子」を想い続けた人生であったのです。


 周りの評論家からは、智恵子の為に自分の才能をすり潰したと言われた高村光太郎。そして、自らの人生すべてを智恵子に捧げた高村光太郎。そんな高村光太郎の言葉の中で、私が大好きな言葉を最後に紹介します。


「一生を棒に振りし男、ここに眠る。彼は無価値に生きたり」

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