第17話 301号室

 翌日、私は受講する講義もないのに朝早く大学に来ていた。


 大学の入口から多くの人が通り抜ける場所……301号室のあたりで私は壁に体重を預ける。

 301号室は大学の中でもかなり広い教室だった。説明会とか、保護者を集めての話し合いとかは大抵がこの301号室で行われる。


 かくいう私も1年生のときに、301号室で発表会を行った。結構な人数が集まっていたので緊張したものだった。


 とはいえ今日は301号室の中に入るわけじゃない。そのあたりが学生の通り道だからいるだけだ。


 今日は夏場だと言うのに肌寒い空気だった。もう1枚くらい服を増やしてきたら良かったな、なんて思いつつ私は道行く学生たちに声をかけ始める。


 といっても早く来すぎてしまったので、なかなか人が通らない。


 ……もう少し時間を遅らせればよかったかな、なんて思っていると……


「あ……」最初に見つかった学生は、「……ねこ先輩……?」


 くろねこ先輩だ。昨日会ったばかりだから見間違えることはない。


 ……こうして遠巻きに見るとホントにイケメンだな……話し方はちょっと変わっているけれど理性的な人だし……悪くないかも。


 ともあれ、なんとなくねこ先輩に話しかけてみる。


「おはようございます先輩」


 ねこ先輩はこちらに気づいて、


「おや、キミは昨日の人か。なにか新しい手がかりでも見つかったのかい?」

「いえ……まだなにも」

「そうか」昨日も思ったけど……案外表情が柔らかいんだよな。「朝からご苦労だね。こんなところでなにをしているんだ?」

「えっと……講義動画をダウンロードした人がいないか確認しようと思って。チャットだと返事を返してくれる人が少なかったので……」

「なるほど。では幸運を祈っているよ」


 それだけ言い残して、先輩はさっさと歩いて言ってしまった。


 なんとなくもう少し世間話がしたい気分だったので、私は先輩の横に並んで歩く。


「先輩も早いですね。講義準備ですか?」

「人混みが苦手でね。早めに来るようにしている」

「なるほど……私も人混みを避けたいんですけど、ついギリギリまでボーッとしちゃうんですよね……」


 早く家を出れば人混みを避けられることはわかっている。

 それでも……ついつい時間ギリギリまで粘ってしまう。10分でも早く行動を始めれば違うと思うんだけどなぁ……


 そうしてしばらく歩いていると、突然ねこ先輩が立ち止まって、


「なぜついてくるんだ?」

「え……?」言われてみれば……なんで私はねこ先輩についてきているのだろう。「……なんとなく、世間話をしたくて……?」

「なぜ疑問形なんだ」

「……わかりません……」本当に私はなんで彼についてきたんだろう……「お邪魔、でしたか?」

「そういうわけじゃないが、キミにはやるべきことがあるんじゃないのか?」

「やるべきこと……?」言われて、思い出した。「あ、そうか……講義動画をダウンロードしに来た人を探しに来たんだった……」


 忘れてた。ねこ先輩を見つけた時点で本来の目的なんてすっかり忘れていた。


 ねこ先輩は呆れ気味に、


「キミ、大丈夫か? 悩み事とか、他に考え事があるんじゃないのか?」

「悩み事、ですか?」

「ああ。うつ病の症状の1つに記憶力の低下や認知機能の低下がある。なにかしらキミが追い詰められていないのか、それが気になるな」

「うつ病ではないと思いますけど……」今のところ心身ともに元気である。「でも……心配してくれてありがとうございます」


 私は記憶力が悪くて、結構バカにされてきた。こうやって心配してくれる人は稀だ。


 だけれど……


「記憶力が悪いのも、結構役に立つものですよ」

「そうなのか?」

「はい。嫌なこととか、思い出したくないこととか……そんなものはすぐに忘れちゃいます」それはかなりお得なことだろう。「ですから……自分の記憶力のことは結構、気に入ってますよ」


 嫌なことなんて覚えていてもつらいだけだ。さっさと忘れてしまうに限る。そして私の記憶力は都合の良いことに、忘れることができるのだ。


「そうか。それなら良かった」


 そう言って、ねこ先輩はなぜか来た道を戻り始めた。


「……? どこに行くんですか?」

「301号室の前だ。キミが最初にいたところだな」

「そこで講義があるんですか?」

「キミ……本当に大丈夫か? 目的を忘れ過ぎじゃないか?」

「……あ……」


 そうだった……301号室の前で講義動画をダウンロードした人を探すのだった。また忘れていた。


 相変わらず私は2つのことが同時にできない……先輩と世間話をするという目的を得たら、他の目的はすぐに忘れてしまう。


 ……嫌なことを忘れられるのは良いことなのだけれど、大切なことも忘れてしまうのが問題だな……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る