聖女

 青空と豊かな緑。風が吹くたびにどこからか歌声が聞こえてくる。


「今日の精霊もご機嫌みたいね」


 アマルタは白銀の長髪を風になびかせながら、一緒になって歌った。

 最近は気候が安定しているためか暴動もなくフェルナントの民草はとても落ち着いている。おかげで彼女が呼ばれることもここ最近はめっきり減った。


 自分など、忘れられているくらいでちょうどいい。


 アマルタが口笛を吹くと、雨も降っていないのに虹が架かった。

 彼女は神から祝福された【神の愛し子】であった。彼女の存在はどの種族の王や高位の神官でも脅かすことはできない。

 彼女の機嫌がいいと、精霊たちも安堵する。それはすなわち神が干渉してこないということになる。アマルタが心から嘆き悲しみ、世の破滅を願ったのならば神は叶えるだろう。神に従順な双頭の狼メニファンが生きとし生けるものすべてを喰らい尽くすはずだ。それを知っているからアマルタは常に笑顔を浮かべ誰にでも愛想よくした。自身の気持ち一つで誰にでも理不尽な運命を押しつけることができる能力を嫌というほど理解していた。


「あら?」


 アマルタは道に黒く薄い円形のものを見つけた。それは初めて見るものであった。

 抱え上げるとかすかに音がした。鳴き声かもしれない。体温は感じない。そういう生物なのか。それともこれが死の淵にあるのか。

 体はわずかに婉曲しており、磨いた石のように滑らかであった。


 体を撫でれば大抵の生き物はその聖力に触れることですぐに元気になる。しかしこれはその"大抵″に当てはまらなそうであった。不思議に思いアマルタは少し聖力の出力を上げた。


 簡単なことではない。聖力をわずかながら持っている者は稀にいるが、それを操ることなど不可能である。


【神の愛し子】聖アマルタはそれを、少し速く走るようなものだと思っていた。


「あなたは、やっぱり別のところから来たのね」


 撫で続けていると、笑顔の女性と黒いそれが箱のようなものから生まれる瞬間のヴィジョンが見えた。

 産婆は通常女性だと思っていたが、この文化圏ではどうやら男性だったらしい。箱状の母体を押さえる女性と、黒いそれを取り上げる男性。


 女性の口が動いている。おそらくそれは生まれたときにつけられた名前であろう。女性の笑顔とは対照的な男性の硬い表情に、アマルタはこの生い立ちに何かしらの事情があるのだと思った。



「ドゥ、ドゥンパ? ちがう? この国の発音じゃないから、難しい」


 種族の違いがありながらも彼らは共存していたらしい。

 次に見えたヴィジョンでは元気に動き回る黒い姿。

 

 ヴィジョンは完璧ではない。時系列ごとにすべてを読み取ることは出来ないのだ。

 何枚かの絵画を観ているような感覚であった。


「ちがうわね……ルンバチャン……わかったわ! あなたの名前はルン=バ=チャンね!」


 アマルタは自国フェルナントから出たことがなかった。生まれた瞬間から聖女であった彼女は自分の国の文化しか知らない。聖女に会うために多くの異民族や異種族が聖女が親しみやすく呼びやすいようにフェルナント風の名前を名乗っているということを知らない。


「よろしくね、ルン。待ってね、また元気に走り回れるようにしてあげるから」


 ゆえに彼女はその黒いものの名前を、三分割するものだと思ったのだ。


 かくしてそれは"ルン″と呼ばれるようになった。

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