ロボット掃除機奮闘記~彼は仕事を全うしたい~
藤枝伊織
ロボット掃除機
「ついに我が家にもルンバちゃんが来ました!」
夫、
「よかったな。掃除が楽になりそうで」
勇人は由岐子の機械音痴とネット音痴を知っていたため心の底からは喜ぶことができなかった。一抹の不安とともに口の端だけで笑うようなその箱を見つめた。
その予想は一部当たっていた。おそらく由岐子はロボット掃除機を総じてルンバと呼ぶのだと思っているのだろう。ロボット掃除機がほしい妻がロボット掃除機を買ったのだからそれは間違いではないのだが、ルンバではなかった。
箱を開け、梱包から解放された薄型の黒い円盤は真新しい艶のあるボディであった。傷などもなく見た目の異変はない。
しかし箱の中にあった説明書の漢字は所々日本語ではない簡体字が混ざっていた。「简单に使える。軽い机体。静かな作业」怪しさだけは満点である。
スマホとの連動はもちろんできないし、自動充電機能もない。
「これね、すごいのよ! 税込みでも五千円しなかったの!!」
由岐子の言葉に納得し、勇人はルンバ(仮)に無言で充電プラグを突き刺した。
物事は概ね良好に進んでいるように思えた。ルンバ(仮)はフル充電でも三時間しか活動できないし障害物をあらかじめ捉えてよけるような器用さはなかった。それでも由岐子のおおらかさにより大体は大目に見られていた。もともとこまめに掃除をするような家ではなかったため、無いよりはましという感覚で二人とも過ごしていた。
事件が起きたのは三ヶ月後だった。由岐子がルンバ(仮)を購入したときと同じようなテンションで友人からショコラちゃんをもらい受けたのがきっかけである。
ショコラちゃんは生後一ヶ月のチワワだ。本来ならばもう少し年のいったしつけに手がかからなそうな柴犬をもらうはずであったが友人の事情によりチワワになったそうだ。元来より家犬に憧れを抱いていた由岐子は喜び、勇人は不安から額に深いしわが刻まれた。
家には犬用のゲージやおもちゃが用意され、ルンバ(仮)は以前にも増してよくひっかかるようになった。ゲージに突っ込んだまま充電切れにより息絶えるルンバ(仮)はもはや珍しくなくなった。
少しずつショコラちゃんも家に慣れ、家の中を走り回る電動掃除機の存在を認知し始めた。
その日、夫婦はそろってショコラちゃんを初めてのドッグランに連れて行くことにした。スマホの充電は一〇〇%、ついでに一眼レフを引っ張り出した。子供のいない彼らにとって、ショコラちゃんは初めての子供のような存在だった。
ルンバ(仮)はいつものように掃除を始めた。たった三時間の活動時間。これが彼の存在意義である。よく引っかかるソファや犬用のおもちゃ、ゲージを除けば彼にとっても慣れ親しんだ安全な行程といえた。
そのはずだった。
いつもなら勇人がショコラちゃんの汚物はきちんと確認するはずであった。賢いショコラちゃんは早い段階できちんとトイレを覚えた。しかしその日、おそらく夫婦二人が楽しみのあまり無意識にショコラちゃんの排便を急がせたのだろう。トイレシートから小さな便がはみ出して落ちていたのだった。
その家に住む人間が気がつかぬものを正規品でもないルンバ(仮)が除けられるはずもなかった。
ホコリを吸い込むついでに便を引っかけ、家中引きずり回した。運の悪いことにそれは活動開始とスイッチを押され、生き物たちが外出してからわずか十五分後の出来事であった。
残りの二時間四十五分、ルンバ(仮)はきっちりと仕事をこなした。家中隅々までホコリを吸って回った。そうして床にショコラちゃんコーティングを薄く、薄く施していった。職人芸である。
家に帰ってきてすぐにショコラちゃんが異変に気づいた。慌ただしく鳴き始めると、由岐子はショコラちゃんを抱きかかえた。
「どうしたの。今日楽しかったからまだ興奮しているのかしら」
そのまま、片手で玄関のドアを開けた。
そうして正面に力尽きたルンバ(仮)の姿を認めた。
ゆっくりとその状況を認識した由岐子は青ざめ震えだした。そして叫んだかと思うと、あまりの惨状を理解することを拒むかのように失神した。
勇人は不安が的中し、それは怒りへと変わった。土足のまま家に上がり、ルンバ(仮)をつかむと床にたたきつけた。
「こんなもの! ゆき、もう二度とネットショッピングはしないでくれ」
家の掃除は悲惨だった。勇人も翌日、妻の体調を理由に仕事を休み、一日を床の拭き掃除に費やした。由岐子は掃除中も何度もめまいを訴え涙を流し、ソファに横たわった。
そんな妻の姿を見るたびに勇人は怒りがわき上がりルンバ(仮)を破壊した。一度床にたたきつけられてからもう起動することはなかったが、何度も踏みつけ叩いているうちに電源のスイッチが陥没した。
そうしてルンバ(仮)は高橋家を掃除するという使命を完全に終えた。
ショコラちゃんのブツのにおい漂うそのかつて掃除ロボットだったスクラップは粗大ゴミとして捨てられた。指定のシールを貼りながら「こんなものに金をかけるなんて」と勇人は憎々しげにつぶやいた。
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