第2話 トガリ出会いネズミ
すべての始まりは、駅からだった。
彩葉十六年。七月三日の月曜日。現在気温二十九度。夏の日差しが雲に遮られず直で降り注ぐ晴天。
「ええっと……平成の次は令和で……令和の次は
現代史の小テストがあることは知っていたので、電車を待ちながらスマフォで予習をする。
歴史の場合、範囲さえわかっていればスマフォで調べても学習効率は教科書と同じだ。運春は学校の供与タブレット含めて、あらゆる教材を学校に全部置いて登下校は手ぶらの置き勉スタイルだったので、そもそも今教科書を持っていない。
ほぼ空の学生鞄を脇に抱えながら、暑さに汗ばむ不快感を耐える。
「ええっと……平成が終わったのが三十一年……だったか。で、令和が終わったのが……」
ところで。現在時刻は九時三十六分。既に始業時間はとっくに過ぎている。ラッシュの時間も過ぎ去り、駅のホームにいる人もまばらだ。
本当にたまたまだった。スマフォの目覚まし時計をセットし忘れ、たまたまその日は親が出張でいなくなっていたのだ。
妹はいるが、起こしてくれと頼んではいなかったので遅刻確定の運春を完全に無視したのだろう。
結果として、いつもとはまったく違う始まりを迎えた今日。もはや急いでも仕方がないので、小テストのことを考えて気を紛らわせていた。
何故今日に限って、いつもと違う日になってしまったのだろうと後悔することを運春はまだ知らない。
異変と非日常に放り出されるそのきっかけ。それを決定づけたのは、視界の端できらめくなにかだった。
「ん……?」
スマフォから目を離し、右に目を向ける。
絵本から飛び出してきたかのような美少女がそこにいた。
日本人離れした、金とも銀ともつかない不思議な色の長い髪。差し色に青を使ったドレス型のワンピース。靴もピカピカのフォーマルな黒い靴。背は大体、隣に並べば運春の鳩尾あたりだろうか。年齢はおそらく小学生程度だろう。
ふと少女も
目はペリドットのような淡い緑色。暑い中汗をかいていないように見えるのも相まって、その顔は本当に高価な人形のようだった。
じろじろと見ているのも失礼だな、と思ってまた運春はスマフォに目線を落とす。
(……
と、適当に当たりをつけたが。
(いや。なんか違いそうだな。ランドセル背負ってねーし。ていうか鞄の類も持ってねぇ。完全に手ぶらだ)
旅行客、にしては彼女には親もいない。完全に一人だ。近くにいる別の子供たちは全員普通に親同伴だが、特に人形少女のことを気にしている素振りすらない。知り合いですらないのだろう。
漏れ聞く話では運動会だか学習目的の旅行だかの振り替え休日で、どこかに遊びに行く予定らしい。
変だな、と思って人形少女の方を見てみると、彼女はなにかを凝視していた。その表情から読み取れるのは『不安』だ。眉を顰めて、どこか落ち着かない様子を見せている。
(あん?)
その視線の先を追うと、振り替え休日の親子同伴グループが盛大にふざけあっていた。じゃれあっていた、と言ってもいい。
駅のホームの、割と端の方で。親は親同士での話に夢中で気付いていないようだった。
この駅は古く、各駅停車しか止まらない。そしてもう創設から何十年も経っているにも関わらず予算不足と過去に改修工事で起こった事故でのゴタゴタにより、ホームドアがない。
それに、もうすぐ通過の車両が来る。割と近くに既に見えている。
正真正銘、本当に危険だった。
子供たちに注意しようと、声をかけようとした途端だった。
子供の内の一人が、足を踏み外した。
◆◆◆
とあることに悩んでいた彼女は、気分転換に映画でも見に行こうと電車を待っていた。
このままじゃなにかが起こるから、声くらいかけようかと思っていたが、遅かった。
「ッ!」
瞬時に計算するのは、子供を助ける方法だ。
非常停止ボタン? NO。おそらくもう無理だ。命依が走ってもやや遠い場所にある。電車が到達する方が早い。おそらくブレーキも間に合わない。
今すぐ自分も線路に降りて子供を避難させる? NO。そんな筋力は彼女にない。
誰かに声をかける? おそらく一番可能性が高いがこれもNO。そんな都合良く頼りになる誰かなどいるわけが――
「……なっ!?」
思考がすべて中断されたのは、あれが躊躇ない動きを見せたからだった。
先程不躾な目線をよこしてきた、ピアスをしたチャラそうな茶髪の男子高生。
鞄とスマホをその場に落とし、スプリンターのような姿勢とスピードで線路へと落ちていく。
おそらく見ず知らずの他人のために、自分から危険へと身を落とす。
(安全な場所に避難させる気……? いや、ダメでしょ。彼のポジショニングじゃ)
電車と人間が超短距離でスピード勝負する場合、コンマ何秒、または数メートルレベルのロスが致命的だ。彼の初期ポジションとスピードでは子供のところに到達したとしても、その身体を持ち上げようとモダモダしている内に死ぬ。
基本的に人間は正しい計算を凌駕できない。
そのはずだったのだが。
(……え? 嘘? 冗談……だろう!?)
いよいよ電車が衝突する寸前、命依は彼の顔が見えていた。
到達して、あとできるのはワンアクションだけ。だというのに、彼は明らかに。
(なんでホッとした顔してるん――)
バギャ、とかゴリゴリ、とか。電車が出しちゃいけない異音が響いたのは、その直後だった。
血飛沫が天高く舞い上がり、その内の一筋が放物線を描いて命依の靴を濡らす。
しばらく時間が止まったかのような沈黙が続いたかと思えば、思い出したかのように駅のホームには悲鳴が響き渡った。
当然、電車は急停止。多くの人が右往左往する中を。
「お……おーい……」
間の抜けた声が通り抜けた。
「……まさか……!?」
血で汚れた靴のことはもう一切気にならなくなっていた。駅にいた全員がやがて、それに気付いた命依に気付いたかのように声の方へと走り出す。
間の抜けた呼び声と一緒に、子供の悲痛な鳴き声も響いていた。電車の前方の、車両の真下あたりから。
電車の前方はややひしゃげていた。夥しい量の血液が窓ガラスを彩っている。
だが駅のホームにいた全員が注目しているのは、そこではない。
「す……すみません。誰か手を貸してくれませんか……? 流石に一人じゃ難しくて……」
泣いている子供を抱えて、血塗れ傷だらけになりながらも五体満足の彼がいた。子供の方に至っては血塗れだが、ほぼすべて彼の流した血がべっとりとこびり付いているだけだ。大怪我は一切していない。
当然ながらこれはありえない光景だった。
(スピードについた電車に轢かれたら人体なんか紙粘土みたくペシャンコになって当たり前。なのに、この人は……! 何故? どうして? ありえない!)
どくん、と命依の心臓が鼓動する。まるで今まで死んでいたのかと疑うくらいに強く、大きく。
(見つけた。この人しかいない。逃がさない)
誰もが『本人』に目を奪われている中、命依の行動は早かった。
先程彼が投げ捨てた学生鞄の方に忍び寄り、中身を漁る。もしかしたら学生服の内ポケットにあるかもしれないから空振りかもしれない、とは思ったが。
それはあっさりと見つかった。
「……佐島運春」
学生手帳に書かれている限りの情報を即で脳に詰め込み、荷物をさっと戻す。
あとはもう、彼がどこに行こうと逃がすことはない。
あとはどうにか二人きりになれれば、それですべてが始まる。始められる。
いつ、どうやって会いに行こうかと考えていると――
「い……や、俺は! そんな、大袈裟にはしたくなくて……すみません!」
思ったより早くそのときは訪れた。
◆◆◆
痛む身体に鞭を打って、運春が考えていたのは現場からの逃走だった。
親からの感謝の言葉や、周囲の野次馬の感謝状ものじゃないかという賛辞やら、悪気がないことはわかっているもののひたすら煩わしい。
とにかくこの場から逃げ出したかった。先程投げ出したスマフォと学生鞄を回収してどこかに走ろう、と視線を巡らせる。
「はい」
すると、先程の人形少女が鞄とスマフォとを親切に差し出してくれた。
「あ……ありがとう!」
ひったくるような挙動にならないよう、ゆっくりとそれを受け取る。
そして、周囲の人をかきわけて運春は走り出した。とにかく誰の目も届かない場所へ。学校はもう、欠席かもしれないなとぼんやり思いながら。
「また後でね」
「……あん?」
すれ違う寸前の言葉は、聞き間違いかと思ってスルーした。まさか、それが本気の言葉だとは一切思わずに。
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