汚くて、綺麗

汚くて、綺麗


 小学生のときの話だ。江波雫は頻尿に悩んでいた。

 頻尿は厄介である。ふとしたタイミングで凶暴な尿意が襲い来るのだから。

 事実、それは幼い雫に「いつか公衆の面前で漏らしてしまうのではないか」という恐怖を植え付け、生活に多大な影響をもたらしていた。


 そして六年生になった年、とうとう「その日」は訪れた。

 思い返す度に今でも後悔がよぎる。あのとき雫は、廊下側の一番後ろの席だった。すぐ横が教室の入り口なのだから、こっそりとトイレに行ってしまえば良かったのだ。しかし引っ込み思案だった雫にとって、授業中にトイレに行くことは勇気がいることだった。

 我慢を選んだ結果、案の定、雫は教室で漏らした。


 漏らした瞬間は気持ち良かった、と雫は思う。

 我慢から解放され、まさに自由! といった心地。しかし、当然だがその解放感を感じられたのはほんの一瞬のこと。流れ出る尿でじわじわとスカートが色濃くなっていくのと比例して、背中には恐怖が這い上がってきた。

 ……バレたら終わる。

 雫はパニックに陥った。幸いすぐ気付かれることはなかったけれど、いずれこの醜態が露見することは必然だった。

 足を伝い零れ落ちていく尿を肌で感じながら、雫は思った。……おしまいだ。

 明日からどんな風に揶揄われるのか。いや、腫れ物を扱うかのごとく遠巻きにされるのか。ありとあらゆる最悪が、雫の脳内を駆け巡った――そのときだった。


 バシャ! と叩きつけるような水音が響いた。

 一気に冷たさが雫を襲う。

 一体何が起きたのか、雫は隣の席の男子が叫び声を上げるまでわからなかった。


「うわっ!」


 彼が叫んだことで、雫はハッと我に返った。彼は、雫を指差しながら喚いていた。

 漏らしたことに気付かれた!? と雫は青褪めさせたけれど、よく見たらその男子の指先は、雫ではなく教室の入り口に向けられていた。


 その内、近くにいた女子が私に駆け寄ってきた。

「雫ちゃん、大丈夫!? スカートが茶色くなってる!」

「え?」

 黄色ではなくて? とまず思った。

 確認のために自らを見下ろすと、本当だ。白いスカートは、茶色く染まっていた。しかもそこからは、何だかほろ苦い匂いがする。

 疑問に思っていると、雫は背後からトントン、と肩を叩かれた。

 振り向くと、そこには水筒――後で気付いたことだが、あれはタンブラーだった――を手に持った、クラスメイトの水橋由紀が立っていた。

 どうやら彼女は私用で遅刻してきたらしい。騒然としている教室に、場違いなほど凛と透き通った彼女の声が響いた。


「ごめん、江波さん。私が溢しちゃったの」

 

 その一声で、波を打ったように教室が静まり返った。

 何故なら、彼女は綺麗に笑っていたからだ。その目鼻立ちの整った綺麗な顔には、この場面に似つかわしくない薄らとした笑みが浮かんでいた。


 きっとそのとき、誰もが思ったはずだ。

 水橋由紀は江波由紀を虐めるために、こんな事態を引き起こしたのだ、と。

 途端に、教室中が彼女に非難めいた眼差しを向けたのがわかった。

「お前、何してんだよ!」

「由紀ちゃん、なんでこんなことしたの……?」

「つーか、この匂いコーヒーじゃね? 学校に持ってくるのは違反だろ」

 それを皮切りに、彼女を責め立てる声が教室に轟いた。教師が慌てて仲裁に入って一旦は収まったものの、由紀は非難めいた視線に晒されたままだった。


 ただ、そんな喧騒の中。

 雫はただ一人、当事者のくせにまったく別のことに注視してしまっていた。

 

――魔法みたいに、消えてる。


 雫は幻を見たかのように、自らの濡れた衣服と、コーヒー浸しになった教室の床を眺めていた。

 何度も何度も雫は確認した。しかし、そこにはなかったのだ! 雫が漏らした痕跡が!


「なんで……?」

 そう小さく呟きながらも、実際のところ雫は理解していた。

 ――そう。まるでイリュージョンのように、雫が尿を漏らした痕跡は、由紀の溢したコーヒーによって、奇跡的に消されてしまっていたのである!

 コーヒーは濃い茶色だ。ほろ苦い香りもする。よって、尿から漂うアンモニア臭はコーヒーによってまあまあ相殺されてしまっていたし、黄色く染まるはずだったスカートも茶色に上書きされてしまった。

 パンツにまで染みる冷たいコーヒーは、ありがたいことに雫の恥を覆い隠してくれていたのだ。

 雫はコーヒーに――いや、由紀に感謝した。

 由紀にコーヒーをかけられたことで、雫はちゃっかり窮地から救われてしまったのだから。


 そろり、と由紀の方を向く。

 意外なことに、集中砲火を浴びていた彼女は、じっと此方を見つめていた。当然、二人の目が合う。由紀がゆっくりと口を開いた。


 ――良かったね。

 

 彼女はちら、と床を見ながら、そのように唇を動かした。

 雫は途端に頭が真っ白になった。そして、ようやく理解したのだ。

 由紀がコーヒーをぶち撒けたのは、雫が漏らした尿を隠すためだったことに!

 

 その後、雫は羞恥に耐えられず、教室を飛び出した。同級生にお漏らしを庇われたことがあまりに惨めで、トイレに籠って泣いた。

 しかも、暫くしてから友人から聞いたことだが、コーヒーの――尿の後始末は、全て由紀が一人で行ったらしかった。誰も彼女を手伝わず、見かねて手伝いを申し出た教師すら、彼女は断固として拒んだという。

 あまりのことに、雫はその場に卒倒しそうになった。

 水橋由紀はこの世でただ一人、江波雫が教室で漏らした事実を知っている。あまつさえ床を浸していたあれが、尿の混じったコーヒーだと知っている。

 申し訳なくて、恥ずかしくて、死にたくなった。

 


 しかし、雫の悪夢はそれだけでは終わらなかった。

 何せあの日をきっかけとして、水橋由紀はクラスの爪弾き者になってしまったのだから!


 それまでの由紀は、孤高の存在だった。

 彼女は元々一人でいることを好んでいたけれど、話しかければ普通に返答するし、何より彼女はとびきり綺麗だったから疎外されたりはしていなかった。というか、ただでさえ美しい彼女のそういったところは、皆の仄かな憧れであった、と思う。

 しかし、だ。

 彼女はあの日、雫にコーヒーをぶち撒けたことにより、「ミステリアスな美少女」から、一気に「何を考えているんだかわからない不気味な存在」に凋落してしまった。


 雫は思う。由紀は言い訳をすべきだったのだ。

 あれは、雫が漏らしたのを庇おうとしてやったことだった、と。確かにエキセントリックな庇い方だった思うけれど、それでも事実はそうだった訳なのだから。


 とはいえ初めの内は、雫だって由紀が黙っていてくれることを願っていた。皆に漏らししたことがバレたら、どんな扱いをされるかわからず恐かったからだ。

 しかし。由紀への陰口が教室内に降り積もる内に、いつしか雫は望むようになっていた――彼女が何もかもを暴露してくれることを。

 由紀が班決めでどのグループにも入れてもらえずにいるとき、面と向かって揶揄われているとき、息苦しくて堪らなかった。もういっそ「本来あるべきだった形」に戻して欲しかった。由紀が受けている仕打ちは、本来雫に向けられるものであったはずなのだから。

 それでも由紀は何も言わなかった。言い訳もしなかった。

 雫も何も言えなかった。恥ずかしくて恐くて、何も打ち明けられなかった。雫はそんな浅ましい自分が恥ずかしくて堪らなかったけれど、やはり何も変えられなかった。

 だから、雫はせめてもの償いとして、班決めのとき由紀をグループに誘ったり、二人一組になるときに彼女と組んだりした。しかしそれは由紀をクラスの輪の中に入れることには繋がらなかった。

 むしろクラスメイトや教師から褒めそやされる度、こんな自分の姿をきっと由紀は軽蔑してるだろうな、と雫は縮こまっていた。



 それから二人は小学校を卒業し、中学に上がった。

 中学校は人数が多かったせいもあり、雫と由紀は三年間クラスが違ったけれど、それでも雫は相変わらず由紀の存在を気にし続けた。


 中学生になっても、由紀の引き起こした「コーヒー事件」の噂は依然として残っていたけれど――小学校とは明らかに変わったことが一つだけあった。


 爪弾き者になっていた由紀が、再び「ミステリアスな美少女」へと返り咲いたのだ。


 十代半ばになり、由紀はこんな片田舎に似つかわしくない美しい少女へと成長していた。そんな圧倒的な美の前に、あの噂など吹けば飛ぶようなものと化していたのだ。

 彼女は相変わらず一人でいることを好んでいたけれど、勉学でも部活でも活躍していた彼女は、いつしか同じ部活の友人達に守られるようになっていた。

 彼女は昔から、話しかければときたま表情を和らげて話してくれる子だったのだ。デフォルトが無表情で、しかも腫れ物扱いされている水橋由紀が、自分だけには心を開いている――。そんな特別感を一体何人が感じたのかは知らないが、周囲の人間に彼女は愛されていた。

 だからだろうか。あの噂も、中学二年生になる頃には、殆ど立ち消えてしまった。


 その過程をじっと見守っていた雫は、心から安堵した。

 由紀は雫を救ったせいで、しなくても良いような辛い思いをするはめになった。しかしそんな日々が終わったことで、雫はようやく罪悪感から解放され、肩の力を抜くことができたのだ。

 また、それだけではない。

 コーヒー事件と雫のお漏らしは表裏一体だった。だから、あの噂が残っている限り、雫の人生最大の汚点がいつ曝け出されるかもわからない。そんな日々とも、おさらばできた。

 どこまでも私は自分本位だったな、と雫は当時を振り返って思う。


 その後、雫は水橋由紀とは別々の高校に進学した。

 それ以来、由紀とは会っていない。

 会うこともないだろう、と思っていた。



 

 

 江波雫は大学生になり、今現在初めて酒の場に来ていた。

 入学者説明会が終わった後、キャンパスで新入生勧誘をしていた先輩に押し負ける形で連れて来られた先が、このテニスサークルの飲み会だったのだ。しかもこのサークル、どうやらテニスはほとんどしておらず、実態は飲みサーらしい。この場は宴会並みに騒がしかった。

「うるさくてごめんねー」

「あ、いえ」

 ふいに隣から声が掛けられて、雫はへらっと愛想笑いを返した。

 先程から隣に座るこの男――このサークルに所属している三年生らしい――はやたらと雫に話しかけてくる。正直鬱陶しかった。

「ねえ、雫ちゃんも飲もうよ」

「私は未成年なので……」

「関係ない、関係ない。ほら、これなんかまだ度数低いよ」

 彼はそう言うと、ずいっと私の前にレモンサワーを差し出した。雫は受け取るつもりはなかったけれど、先輩は続けた。

「ほら、大学生なんてアルコールで友だち増やすわけだしさ!」

 そう言われて、雫は一瞬悩んでしまった。

 現在、雫には大学に友人がいない。東京に知り合いもいない。端的に言って、心細かった。

 しかし、目の前に差し出された酒を飲めば、そんな憂いは消え去ってくれるかもしれない――。

 悪魔の囁きに、雫が手を伸ばしかけたときだった。


 ざわ、と場にどよめきが走った。

 雫の角度からは見えないけれど、どうやら入り口に一番近いテーブルで何かあったらしい。皆がそちらに注目している。

 隣にいる先輩も気を取られたらしく、雫そっちのけで別の先輩と話し始めた。

「誰? あの子、すげー美人なんだけど」

「一年?」

「じゃね?」

 どうやら、大層美人な新入生がやって来たようだ。

 雫もそちらが気になったが――しかし、今は絶好のチャンスだと思った。

 先程は揺れかけたが、やはり雫にルールを破る度胸はない。だがここにいたら、いずれ自分は押し流されるままに酒を飲む羽目になるだろう。

 だから、アルコール頼りに友人を見つける期待は破り捨てて、この隙にお金だけ置いて帰ろう――と。それがきっと最善だという確信があった。


 しかし、二千円ほどを用意したところで、再び雫は先輩に捕まってしまった。

「え、帰っちゃうの?」

 先輩は表情こそ笑顔だったけれど、肩を掴んだ力は思いの外強かった。

「あ、帰りたくて……。二千円で足りますかね?」

「さすがに新入生に金払わせらんねーから大丈夫。てか俺達、君が飲んだ分も奢ってるわけだしさ。そんな優しさに免じてもうちょっと一緒にいてくれてよくね?」

「う、うーん……」

 雫は、私が飲んだのはソフドリなんだけど、とつい悪態を吐きたくなったけれど、そんなことをしたら明日からの大学生活がどうなるかわからない。

 それに――私はこの人を断れるだろうか? 

 雫は一気に不安になった。先輩は背が高い。性格も強引だった。気に食わない態度を取ったら睨まれそうで、恐かった。

「で、帰っちゃうわけ?」

「えー、っと」

「ね、いいじゃん、いいじゃん」

 そう言って此方に伸びて来た手が、雫の肩に回されそうになった――そのときだった。

 

「………は?」

 突然、先輩が呆気に取られたような、間抜けな声を溢した。

「え?」

 雫もすぐ違和感に気付いた。視線の先で、ぼたぼたと床に何かが垂れていくのが見えたのだ。

 なんだあれ? なんかコーヒー牛乳、みたいな……。

 と、同時に、雫はいつかの記憶が甦り、一気に胸騒ぎがした。

 誰かが、背後に立っている。


「すみません。手が滑りました」


 静まり返った部屋の中に、凛とした声が場に響く。

 雫はこの声を知っていた。だって、自分はこれに良く似たシチュエーションを、過去に体験している――。

 雫は恐る恐る、顔を上げた。


「………あ、」

 やっぱり。

 彼女を視界に入れた瞬間、雫は納得してしまった。

 何せ、そこに立っていたのは、間違いなく水橋由紀だったからだ。

 彼女はすっかり空になったグラスを手に持ちながら、じっと此方を見ていた。

 目が合うと、彼女はわずかに目を細めて、その形の良い唇を動かした。


「久しぶり」


 雫は彼女を呆然と見上げたまま、硬直した。

「み、ずはしさん、何して――」

「立って」

「え?」

「はやく帰ろう」

 由紀がそう言って、雫を立ち上がらせたときだった。

「おっまえ、何してくれんだよ!?」

 隣にいた先輩が、怒鳴り出した。当然といえば当然の反応だが、ガタイの良い男の激昂を目の当たりにするのは恐い、

 それでも由紀は平然とした面持ちのまま、雫を先に部屋から出し、それから先輩に対峙した。

「私を殴りますか? なら、通報します。警察は身分証を確認するでしょうけど」

「……っ」

 先輩は苦虫を噛み潰したような顔で立ち尽くした。

 この場では公然と未成年飲酒が行われている。だから先輩は、警察を呼ばれるわけにはいかない。由紀はそれを逆手に取ったのだ。

「クリーニング代、そこに置いたので。諭吉で足りないことはないと思います」

 由紀はしれっとそう呟くと、挨拶もせずに雫の元へとやって来た。

 


 店の外に出ると、由紀は自然に雫の手を取り、まだまだ肌寒い春の夜道を歩き出した。

「家、どこ?」

 由紀が前を向いたまま、そう訊いてくる。

 最寄り駅を伝えると、由紀は「なら私の家の方が近い」と、雫が断わる隙も与えないまま、方向転換した。

 カツ、カツ、と彼女の履いているヒールの音がコンクリート上に響く。

「……あの、水橋さん?」

 雫は由紀の名を呼んだ。由紀の足が止まり、音が止んだ。

 由紀はゆっくり振り返ると、一言だけ口にした。

「私の名前、覚えてる?」

「え? 由紀、ちゃん……?」

 彼女はわずかに口元を緩めた、ように見えた。

「さんはいらない」

「え」

「由紀って呼んで」

「ゆ、由紀……?」

 彼女はうん、と頷いた。

 

 それから十五分くらい歩いただろうか。

 二人は由紀が住んでいるアパートに辿り着いた。どうやら本当に近かったらしい。

 いかにも上京した学生が住んでいそうな趣の古びたアパートは、彼女の美貌からすればセキュリティ面でやや頼りなく、雫は心配になった。


 部屋に通されると、由紀はテーブル脇を指差しながら雫に告げた。

「勝手にそこらへん座って」

「あ、はい」

 雫は言われた通り、クッションの上に座った。すると暫くして、由紀が手ずからお茶を運んで来た。

「ごめん。お茶くらいしかなくて」

「ううん、ありがとう」


 雫は早速茶に手を伸ばすと、沈黙を埋めるように唇をしめらせた。

 二人きりの部屋に、ズッ、とお茶を啜る音だけが響く。正直、めちゃくちゃ気まずかった。何せ、二人は殆ど話したことがないのだ。

 暫く経って、雫は意を決して由紀に話しかけた。

「あの、さっきのことだけど。あれは一体……?」

「ああ、あれ? カルーアミルク」

 飲み物の種類が聞きたかったんじゃない! と雫は突っ込みたかったけれど、残念ながら、雫と由紀の間にはそうできるだけの親しさがなかった。

「あっ、へえー……。その、お酒詳しいんだね?」

「カラオケでバイトしてたから。メニューにあったドリンクは覚えた」

 由紀はそう言うと、思い出したかのように続けた。

「ちなみに、カルーアはコーヒーリキュールを牛乳で割ったもの」

「……あ、そうなんだ」

 雫は思わず言葉に詰まった。何でそれを付け足す?

 雫が由紀と話すとき、一番思い出したくない単語は「コーヒー」と「お漏らし」であった。こうしてわざわざ彼女に持ち出されたことに、嫌な予感しか感じない。

 雫はその予感を振り払うように一気にお茶を飲み干すと、すっくと立ち上がった。

「あの……もうそろそろ遅いし、迷惑かけるわけにはいかないし、帰るね」

「え……」

 珍しいことに、由紀は驚いていた。ただでさえ大きい目をこれでもかと見開いている。

 それでも、雫はそれに構わずそそくさを部屋を出ようとした。

 ただ、これだけは言っておかなくてはならないと、後ろを振り返った。


「その、ずっと助けてくれて、ありがとう」

 

 雫は自分の浅ましさを知っている。今だって、かつての恥から逃れるために、由紀の元から逃亡しようとしているのだから。

 それでも、ずっと感謝を伝えたかった。これが彼女への報いになるなんて傲慢なことは思っていないけれど。

 

 礼を告げられた由紀は果たして、目を丸くして驚いていた。

 余程衝撃だったのだろうか? まあ、雫は彼女に対して恩を仇で返したようなものだったし、素直に礼を言われるなんて思っていなかったのかもしれない。


「じゃあ……」

 居た堪れなくなった雫が玄関へ向かおうとしたとき、ふいに「待って」と引き止められた。

「……怒ってないの?」

「え?」

「私のこと……嫌いじゃないの?」

 雫はその台詞が何故由紀の方から発せられているのか、わからなかった。それはむしろ、雫が言うべき台詞だろう、と。

 それでも、問われたことに対して、雫ははっきりと答えた。


「嫌いじゃないよ」

 

 雫がそう告げた途端、由紀はぐっと唇を引き結んだ。

 それから数秒経ってようやく、彼女はゆっくりと口を開いた。


「……ずっと雫に謝りたかった」

「え?」

 雫が驚いたのは、その台詞でもあったし、由紀に「雫」と呼ばれていた事実でもあった。

「……私、昔コーヒーかけたでしょ。あのとき初めて目が合ったのが嬉しくて……。良かったね、なんて、全然良くないのに言っちゃって……。ごめんなさい」

「……え、いや、私の方こそごめんなさい! 助けてもらったのに」

「……雫、あのスカート気に入ってよく履いてたのに」

 由紀は随分と悔やんでいるようだった。

 雫なんて、その気に入ってたらしいスカートの記憶がまったくないのに。

「よく覚えてるね……?」

「いつも見てたから。すごく、姿勢がいいなって思ってた。背筋が伸びてて、綺麗だなって」

 由紀は即答した。そして、ふっと微笑む。

「だから、近くで見たら、思ってたより小さくて……可愛くて。睫毛長くて、目が大きくて、可愛いなって」

 ずっと思ってた、と由紀は呟いた。


「………そ、うなんだ」

 雫はそう返すので精一杯だった。由紀の口から出てくるすべてが、衝撃的すぎる。しかし、それはまだ終わらなかった。


「……あのとき、本当は。雫を助けようと思ってやったわけじゃなかった」


 由紀はそう呟いた。

 どういうことだ? と、眉根を寄せた私は、次の瞬間、由紀の言葉を聞いてその場に立ち尽くした。


 ――だって、隠さなきゃって思ったの。みんな雫の魅力を気づいたらどうしようって。注目が集まったら、皆この可愛さに気づいちゃうって。


「雫、あの後、皆に庇われてる内にクラスに馴染み始めたでしょ? やだなって思った。全部バラしてやろうかと思ったよ。でも、私自身が爪弾きにされるようになってからわかったの。一人でいるより、埋没してくれてたほうが助かるって。気を隠すなら森の中っていうでしょ? 雫が漏らしたってバラしたら、もっと注目浴びちゃうと思って。だから言わなかった」


 嘘のように饒舌に話す水橋由紀は、とんでもないことを話していた。


 ――私が尿を漏らしてクラスメイトに注目されたら、みんなが私の魅力に気付いてしまう? 


 一体どんなロジックで、そんな仮定が生まれるんだ! 雫は意味が分からなかった。

 しかし、由紀は至って真剣な様子だった。

「私、嬉しかったよ。雫が仲間外れにされてる私に罪悪感を持ちはじめて、たまに相手になってくれて。良いことだらけだった」

「………辛くなかったの? 孤立して、陰口言われたりしてたのに」

「辛かったよ」

「あ……そうだよね、ごめ――」

「雫に嫌われたなって思ってたし。私がその罪悪感につけ込んでペアになるたびに、つらそうな顔してるし。あー、もう終わりだって」

 由紀は淡々と、しかし熱っぽく雫を見つめている。


 ……なんで、そんな。


 とうとう雫は、呆然としたまま呟いた。

「………私、あなたのことがわからない。なんで、私に、そんな……」

 雫の要領を得ない曖昧な問いに対して、由紀の回答は実に明朗だった。


「雫が好きだから」


 由紀は当然のようにつらっとそう告げた。

「昔から、ずっと好き。高校が別になって、断ち切れるかと思ったけど、ダメだった。三年間、長かった」

「………」

「カラオケによく雫の高校の人が来るから、頑張って仲良くなって。受験先教えてもらったの。……キモくてごめん」

 由紀は静かに、淡々と喋っているけれど、その瞳には燃えるような熱が浮かんでいた。

 その形の良い唇が、動く。


「ねえ。私のこと、嫌いじゃないって……本当?」


 由紀は小さく首を傾げながら、そう訊ねてきた。

 雫は緊張した。返答次第で、きっと雫と由紀の人生はこれから大きく変わる。そんな確信があったから。

 けれど――。雫はもうとっくに、覚悟を決めていた。

 小さく息を吐いて、目の前の水橋由紀に向き合う。

「私は、」


「――私は、お漏らししたことがある。教室で」


「え? うん……そうだね……?」

 脈絡のない返答。由紀はあからさまに戸惑っていた。しかし雫は構わず続ける。

「それをね、コーヒーをかけられて誤魔化してもらったことがあるの。意味わかんないでしょ?」

「……うん」

「私、ずっとその人のこと気にしてた。私をコーヒー塗れにしたせいで、一気にみんなに遠巻きにされちゃったから。ずっと謝りたかったけど……私、いつバラされるかわからなくて、怖くて。そんな風に躊躇ってたら、彼女はまた愛されるようにになっちゃって――。ずっと、ずっと、遠かった。私は彼女に、あまりにも気を取られすぎちゃって、恋なんか出来なかった」

 顔を上げると、由紀が目を見開いて固まっていた。

 私は力無く微笑んだ。

「……私を好きなんて、趣味悪いなって思う。流されやすいし、すぐ保身に走るし。ねえ、きっとたくさん知ってるでしょ? 私の汚いところ。おしっこだって片付けたことあるんだから」

 すると、由紀はふるふると頭を振った。

「雫は、綺麗だよ。汚いなんて思ったことない」

「……マジかあ」

 雫は面食らって、それから思わず苦笑した。

「……私も別に、さっきの話をキモいとは思わなかったよ。びっくりしたけど。むしろ、私がずっと由紀に囚われてたのと同じくらい、由紀が私のこと気にしててくれて、釣り合いが取れたっていうか……。こっちばっかり気にしてたとしたら、かなしいし、むかつくし」

 でも、と雫は続けた。

「由紀と恋するとかは、いきなりすぎてまだ考えられない。私、女の子と付き合うとか、考えたことなかったし」

「うん」

「でもね、私、知ってるから。私がかなり流されやすいこと」

 雫はそう言って、諦めたように微笑んだ。

 雫は思う。自分は保身に走りやすい。女の子同士で付き合うことで待ち受けるあれやそれやを、本当に乗り越えていけるか、自信はない。

 ――それでも。


「私のことずっと見てくれるような人がいたら、流されちゃうかもね」


 雫がそう告げると、由紀が一瞬顔をくしゃっと歪めて――それを隠すように、雫をぐっとその腕の中に引き寄せた。

 肩口に顎を乗せられる。


「……雫が、こんなにズルいなんて、知らなかった。そんなところも……可愛い」

「私の汚いところ、きっとこれからたくさん知ることになるよ。幻滅するかもしれない」

「大丈夫。私にとっては、全部綺麗だから。私、雫の全てを愛せる。排泄物でも、体液でも」

「……由紀が言うと、洒落にならないなあ」


 雫は呆れながらも、つい笑ってしまった。

               


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