『鬼神の体』について
冬実の父である府本田端のことは幼いころから知っていたけれど、作品をはじめて読んだのは大学生になってからのことだ。
府本田端は、八十年代末から始まるミステリーの流行、いわゆる「新本格」ムーブメントの真っただ中にデビューした作家である。
田端の名前は、わたしたちの地元であり今いる幽静館の建つ田端地区にちなんでいる。初期作品では、明示的ではないけれど田端地区を舞台にしたものが多い。田端の体験談や住民の証言のようにして事件を語るというのが主な作風だった。固有の土地にまつわる民話のようにミステリーを書いた印象だ。
現実の集落を舞台にしたことへの配慮もあってか、田端の作品で殺人を扱ったものはあまり多くなく、主に日常の謎である。しかし結末では日常から異界へ引きずり込むような不気味な雰囲気のものが多い。
二千年代後半以降は、古代の日本を舞台としたファンタジーを書いている。問題の「鬼神の体」は、その直前の時期に位置する作品だ。
梗概は冬実が説明したとおりである。探偵が登場するようにミステリーの道具立てを使っている一方、謎はかなり非現実的で、結末には、実は探偵こそが主人公の身体を奪った鬼だったという落ちがついているけれど、推理できるような伏線もない。
ミステリーのようなファンタジーのような、中途半端な感じだ。
田端が得意の不気味さを押し出したホラーとしても書けただろうに、文体もあっさりしていて、主人公を観察した記録として結末まで表現されている印象がある。
件の文章は作品の冒頭部分だ。
わたしはページから視線をあげて言った。
「問題になっている短編なんだけど、帆村はその原稿とどういう関係があると思う?」
「それは、ちょっとわからないわ。この際、単に引用しただけなんじゃないの」
「でも少し変えてあるんだよね。まず三人称から探偵の二人称に、あと紙に書いて残しておくっていう文句もない。引用というより、やっぱり何かメッセージとして捉えるほうが妥当じゃないかな」
帆村は首を傾げた。
「さっきの話だと、小説の冒頭として書かれたのでしょう? 普通に考えて、この『あなた』というのは作品内の誰かを指していて、文章そのものは現実となんの関係もないんじゃないの。届いたのも偶然なわけだし」
「実際の真相としてはそうなんだろうけど。この際、冬実のゲームにもう少し乗ってみようと思うんだよ。この原稿を深読みしたい」
「なるほど」
「これは冬実に宛てたメッセージだったとして、どんな意図が考えられるかな」
帆村は再度原稿に目を向けた。
われながら無茶な提案だと思う。「第二話」の枚数を稼ぐための当てずっぽうだ。二人称になっていたからって、原稿に書かれた文言が非現実的なのは変わらない。
しばらくして帆村は首を振った。
「わからないわ。想像するだけにしても材料が少なすぎる」
「だよね」
「冬実さんにも言ったけど、あなたたち幼馴染にならわかることとかないの?」
「それをわたしも考えてるんだけど」
わたしも探偵らしくしたいところだが、面白い解決案は浮かばない。
と。
ふいにノックの音がした。
扉を開けると、夏樹と木崎君が立っていた。
「どうしたの?」
「例の原稿を見に来たんだ。現場検証。もう何も残ってないだろうけど。おまえが書くまで待ってたら時間ないからな」
「いちいち嫌味言わないでよ。今だっていいところだったんだから」
まだ何も案は出てなかったけれど。
「木崎君も一緒なんだ」
わたしが言うと、木崎君は曖昧な微笑を浮かべた。
「うん。ちょっと気になって」
一番交友のある冬実が去って、居場所に困っていた感じだろうか。
「あれ、秋穂は来てないんだね」
「あいつはリビング。仕上げなきゃいけない仕事があるからって」
夏樹が答えた。冬実といい秋穂といい忙しいことだ。
「なんだ。そこにあったのか」
夏樹が言った。わたしの手もとに置かれた『鬼神の体』のことらしい。
「布団の中に入ってたよ」
「なんだってそんなところに」
「冬実、寝ながら読んでたんじゃないの?」
わたしは夏樹に本を渡した。
みんなで話すなら場所を移動したほうがいいかも、などと考えていると、夏樹がこちらをふり返った。
「春花さ。この原稿と『鬼神の体』のこと、どう思う?」
「え、それは『第二話』を読むまで待ったらどうなの」
「いいから。別に知ってても問題ないだろ」
夏樹は毅然とした口調で言った。ふざけた返しは期待していないらしい。
「どう思うって、密室のこと?」
「いや、密室云々は正直どうでもいいな。おれが聞きたいのは、ふつうに、内容から何か思いつかないかってこと」
「えっと。全部想像なんだけど……」
わたしは先ほど帆村が話した内容を説明した。原稿は小説の引用で、さらに冬実が続きを書くための小説の冒頭部分として記されていた。だから、冬実に宛てた何かしらのメッセージは込められていない。それが、たまたま冬実の持ってきた本に挟まった。それが昨日落ちて、この部屋に突然現れたかのように冬実は錯覚した……。
「なるほど本に挟まってたのか。それは考えなかったな」
夏樹はまじめな顔で言った。秋穂も思いつかなかったのか。からかってやろうにもわたしも同様だし、今はそんな雰囲気ではない。
夏樹は続けて尋ねた。
「小説についての感想は?」
「わたしは、あんまり面白くなかったかな」
「というと」
「というとも何も、すごく直感的にそう思ったってだけだよ。ミステリーとしてもホラーとしても微妙っていうか。結末もすごい唐突だし、鬼の目的もよくわかんないし」
わたしの回答に夏樹は眉根を寄せ、再び原稿に視線を転じた。何か言うかと思ったけれど黙ったままだった。
わたしはちょっと苛々して言った。
「なんか、さっきから態度が思わせぶりじゃん。はっきり言ってよ」
「おれの想像っていうか妄想でしかないからな。おまえが同じこと考えてたらよかったんだけど。この小説読むとさ、七年前の事故のこと思い出さない?」
何を言いたいのかわからなかった。
ただ、木崎君が目を見張ったのが印象に残った。
「ごめん。なんのこと?」
「憶えてないのか」
「それだけじゃわかんないよ。なんかあったっけ」
「冬実の妹が亡くなっただろ」
あ。
思い出した。
いや、忘れていたわけではない。冬実と再会したときから、あるいは「鬼神の体」を読んでいるときにも、何か引っかかるものはあった。主人公の様子が連想させる記憶。罪悪感のような、意識したくない感情。
わたしは冬実の妹さんを直接は知らない。
彼女の名前。なんて言ったっけ。
「それが、この小説となんの関係があるの」
「似てるって思っただけだよ。おれは昨日はじめて読んだんだけど、そう思って、調べてみたらあの事故の直後に書かれてたから。もしかしたらって思って」
「なんの証拠もないよ」
「だから、妄想だって言ってるだろ」
堂々と言うなよ。
とは思うけれど、わたし自身、納得してしまっていた。
帆村が尋ねた。
「冬実さんの妹さん、亡くなっていたの?」
「うん。六年前にね。交通事故で」
ちょうどわたしたちが小学校を卒業するころのことだ。いつものように四人で遊んでいたとき、冬実の父から電話がかかってきた。たしか夏樹の家でのことだった。夏樹の母が冬実を家まで送り届けた。わたしたちは何も言えないまま帰った。
似ている、というのは、設定はもちろんなのだけれど、説得的なのはその描写だ。
冬実とその妹。探偵と死んだ姉。
入れ替わる二人の身体と魂。
身体を失い本当の自分を追う主人公の姿は、妹を失った冬実によく似ていた。
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