原稿の出現

 昼食後、しんと静まり返った館内を足早に自室へ戻った。

 改めて机に向かったところで、四つ折りにされた紙を見つけた。

 広げてみると四百字詰め原稿用紙で、お世辞にもうまいとは言えない丸みのある筆跡で短い文章が記されていた。


 あなたは身体を失ってしまいました。

 今のあなたは誰でもなく、ただ宙をさまよう魂でしかありません。目も耳も、手も足もなく、世界と関わるすべを一切もたない存在なのです。

 ここに、ひとつの身体があります。

 今のままでは指一本動かせない、まだ若者の身体です。これをあなたにお貸ししましょう。あなたはこの身体を使って、あなたの本当の身体を探し出してください。

 ただそのとき、わたしが今ここで話したことをあなたはきっと忘れてしまうで

 しょう。なにか紙にでも書いて、後日あなたの目にとまるよう残しておきます。

 あなたが本当の身体を取り戻せるよう、願っています。


 部屋を出る前に目にした記憶はなかった。

 念のため室内を確認した。

 今日から三日泊まる予定の簡素な部屋。机の上には、昨日持ち込んだノートパソコンや小説執筆のための資料が広げてあった。布団の中、ベッドの下に人が隠れていたりはせず、クローゼットもさっき脱いだコートが確認できるのみ。ボストンバックの着替えがなくなっているということもなかった。

 犯人?は、この原稿を届けるためだけに部屋に入ったとみていいだろう。

 しかし、どうやって?

 部屋を出るときには必ず施錠していたはずだ。

 出入りできる通路は廊下へ通じる扉一つと庭に面した窓だけだ。扉はもちろん鍵をかけていたし、今は冬なので窓もカーテンも閉めている。そもそも、わたしたちが泊まる部屋はすべて二階にあり、ベランダなどはついていないので、窓が開いていたとしても、入ることはおろか原稿を机に落としたりするのも不可能と思われる。

 密室に突然現れた怪文書というと、いかにもミステリー染みた展開だ。

 魂だのなんだのと、書かれている内容はさらに現実離れしている。

 今日集まった面々とその目的から考えて、小説として書かれたと考えるべきかもしれない。原稿用紙に書かれている点からも、現実とは関係のない内容として捉えるほうが相応しい気がする。

 でも、「あなた」とは誰のことだろう。

 まさか、わたしではあるまい。

 二人称で書かれた小説というと、あまり読んだことはないけれど、実験的な小説ではよく導入される手法で、「あなた」とは読者を指していたりするのだったと思う。

 では、やはり「あなた」とは、読者であるわたしということになるのだろうか。

 今のわたしの身体は本当のわたしのものではない、そのことを忘れてのうのうと生きているのだ、とでも指摘したいとか。

 しかし、本当の、とはなんだろう。たぶん「わたし」とは、今この瞬間の身体のことでしかないと思う。身体と魂が独立していて分離できるというのは、想像できなくはないけれど、かなり古臭い印象がある。魂は身体によって規定されていて、身体が変わればその新しい身体こそが「わたし」になるのだ。

 大袈裟に意図を読みすぎかもしれないけれど。

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