書くことの思い出
そもそも小説みたいなものを書き始めたのは、小学四年生のころだったと思う。
幼いころはお絵描きやぬいぐるみで遊ぶのが好きで、いつしか自分の描いた絵やぬいぐるみの物語を考えるようになっていた。
自分から書き始めたわけではなかった。きっかけは同じ趣味の春花と夏樹、秋穂がいたからだった。休み時間や放課後、A4のコピー用紙やチラシの裏に、テレビドラマや漫画の内容を参考にしてたくさん書いた。
彼らと疎遠になって以降も、親に買ってもらったノートパソコンでちまちま書いたりはしていた。当時流行っていたライトノベルだったり、はじめて読んだSFだったりと、やっぱり感動した本の引き写しみたいなものが多かった。
作家になりたいとは思わなかった。
小説を書くとなると、すぐに作家デビューの話になる。わたしは祖父も父も作家で、どういう生活をしているか多少見ていたけれど、自分がなれるなんて想像もしなかった。趣味でカラオケに通っているからって、必ずしも歌手を目指したりしないように。
ただパソコンに向かってキーを打って、文章が連なってまとまりをなしていくのが楽しかった。
書けなくなったのは、高校二年のころ。
主なきっかけは、いわゆる黄金期の英米ミステリーを読んだからだった。
基本的にわたしは読むのも書くのもミステリーだった。謎も論理的解明も考えなしにその場その場で書いていたけれど、それでも自分ではミステリーのつもりだった。
改めて読み返してみて、ミステリーの道具立てを使ったホラーやファンタジーでしかないと思った。
これではいけない、と強く焦った。
つまるところ、構築性の魅力に憑かれてしまったのだ。伏線をできる限り複雑に張り巡らせて、結末にはそれを華麗に回収する、そんな小説を書きたいと思った。
構築性がミステリーに限ったものでないことは今ならわかる。
たぶんわたしは、小説が示す意味を読み取る能力に欠けていたのだと思う。ミステリーならば、書かれた事実が持つ意味を、探偵たちが作品内部で解説してくれる。その「わかった感」もミステリーに憧れた一因として考えられる。
書くにあたって、あらかじめ内容と構造をしっかり考えた。満足のいくものが完成すると、自信満々に伏線となるシーンを書いていった。
けれど、結局書き終わってみると、はじめ見ていた魅力はそこになかった。極端に簡潔で、あらすじが少し長くなっただけの文章にしかなかった。
次に、シーンを長めに書こうと頑張ると、当初決めていた結末に至らなかった。
無理して予定どおりに書こうとしたけれど、次第に書けなくなった。
それからは一作も書き上げていない。
この合宿で書けるかどうか、あまり自信はなかった。
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