5. 約束

1


「――ああ、……トリネコさま」


 浅い呼吸の隙間から、少女は僕の名を呼んでくれた。その命が続いていることを安堵するには、あまりにも時間が経ちすぎていた。

 

「わたし、みていました。世界のために、たたかってくれていたんですね。ご無事で、よかった」


 僕のことを心配している場合ではないだろうに。少女は嬉しそうに微笑んだ。

 その手に触れる。神の力を得た今ならば、生命力を分け与えられるかもしれない。願いを込めて、強く握る。しかし、消えかけた灯火の運命を変えることは、神の力をもってしても難しい。どんなに願っても、力を捧げても、灯は小さく揺れるだけ。どうすることもできない。歯痒くて、やるせない。胸の奥が苦しくなって。虚しくもただ、掌だけに力が込もる。


「……すまない。花畑を、君が望んでいた景色を。守ることができなかった」


 美しい神域の景色。その色彩のすべては執行者によって黒く塗り潰されてしまった。呼吸の度に肺を満たすのは、焼け焦げた臭気の苦みだけ。彼女が希望を寄せた鮮やかな彩色は見る影もなく破壊されてしまった。


「どうして?」


 少女は不思議そうに首をかしげた。


「ちゃんと、守ってくださったではありませんか……」


 そんなわけない、言いかけた僕の鼻腔をやわらかな芳香がくすぐった。

 まさか、後ろを振り向く。


 ――色彩。

 澄んだ風がそよぐ、命たちの賛歌。美しい色とりどりが、今もまだ丁寧に咲き誇っていた。


「…………」


 なにが起こったのか、理解が追い付かない僕の頭上に、ひらり、なにか落ちてきた。思わず手に取ったそれは一枚の葉。神樹のものだ。上空を仰ぎ見た僕の視界に新たな色彩が生まれていた。


「花だ」


 茂る大樹の葉に寄り添うように、白い花が咲いていた。無数の小さな花たちが集まって、まるで淡雪のようだった。愛らしいその姿は穏やかな風に揺れながら、甘く爽やかな香りを漂わせている。

 見上げたまま、ぽかんとしていた僕の頬に少女の手の感触。そのまま引き寄せられる。


「神様。あなたの力なんでしょう?」


 視界を埋め尽くす微笑み。ここにしかない可憐な美しさは、何よりも守りたかった一輪だった。僕は首を横へと振る。


「違うよ」


 僕が本当に神様だったのなら、君の命も救えたはずだ。


「僕は神様なんかじゃない――もっと最低の存在さ」


 言葉がこぼれ落ちてゆく。


「本当はずっと、この世界を壊そうと思っていたんだ。こんな世界は在っても意味がないと。だから、亡くなっても構わないと。そんな風に考えていた。酷いだろう?」


 まっすぐ僕をみる少女の大きな瞳が、情けなく歪んだ笑顔を映している。


「そうやって多くの世界を、これまで壊してきたんだ。僕は君を騙していた。先の災厄となにも変わらない、破滅をもたらすこの世界の敵。ただの、大罪人だ」


 死にゆく少女への告解。

 秘めたままにするつもりだった言葉たちが止めどなく溢れてしまうのは、僕の弱さ。その優しい瞳を騙し、裏切ったまま別れることに耐えられなかったから。


「許してほしいとは思わない。恨んでくれたっていい。すべては僕がこの世界に訪れたせいなのだから」


 少女は唇を閉ざしたまま、ずっと僕を見つめていた。その瞳がやわらかく細められる。


「どうして、そんなことおっしゃるのです」


 少女の腕が僕の身体を包み込んだ。


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