8

 身体の感覚が失われる。指先ひとつ動かない。心臓の奥、かすかに燃え残った火種が燻って、まだ終われないと喘いでいる。それでももう、どうすることもできなかった。

 這い蹲る僕の、もうほどんと真っ白な視界に見下ろす執行者が映った。その先に、沈黙する大樹がみえたような気がした。


 ――それでいいのか。お前は。


 かすれた喉から言葉に満たない想いがこぼれた。

 神樹、トネリコ。彼が生まれ、その成長とともにこの世界は育まれた。すなわち、世界は彼そのものだ。この世界に生まれ生きる命、それらが織りなす営みのすべてが彼の子に等しい。

 そんな世界が、今まさに踏みにじられ、壊されようとしているのだぞ?

 だというのに、お前は何も言わないのか?

 最後まで眠ったまま、目をそらし続けるのか?


 世界の音が遠くなる。その変わりに、自分の心音が大きく聞こえた。

 ドクン、脈打つその胸の奥から、ふつふつと熱がわき上がる。くすぶって、消えかけていた火種に衝動にも似た熱が注がれる。導火線のない爆弾が突然爆ぜるみたいに。一瞬で膨れ上がって、全身へと行き渡る。

 この熱は怒りだ。不条理な世界の摂理への。

 目の当たりにしてもなお何もいわない神樹への。

 何よりも、無力な自分自身への。

 どうしようもない、行き場のない怒り。だけどその熱は、最期に僕を突き動かした。


「――神樹トネリコ!」


 つぶれた喉を振るわせた、絶叫にも似た叫びだった。

 腕に力をこめて、使い物にならない半身を起こして。僕は叫ぶ。


「お前は、それでいいのか? この暴虐を、一方的な悪辣を、なにも言わぬまま許そうというのか!?」


 喉からせり上がった血が、咳とともに口からこぼれる。


「つまらない、ただそれだけの理由だ。それだけで、お前の愛する民も命もすべて無かったことにされるんだぞ。身勝手な価値観を押しつけられて、跡形も残らず消されてしまうんだぞ?」


 炎に囲まれて、神樹がゆれる。彼は何も言わず、静かに僕を見下ろしている。それまで様子をうかがうように沈黙していた執行者が視界の端で、刃を構えた。


「この世界で懸命に生きる命に何の罪もないというのに。そんな理不尽を、黙って見過ごすというのか? 悔しくはないのか! 守りたいと、足掻きたいとは思わないのか!」


 口を出る言葉は僕自身の願いに他ならない。あまりに浅ましく、見苦しい足掻きだとわかっていた。それでも、たとえ意味のない滑稽な一人芝居に他ならなくても。それを嘲る時間があるならば、命を燃やしてでも、叫ばなければと思ったのだ。


「聴け! トネリコ! 僕は、この理不尽を認めたくない! この世界は美しい! 踏みにじられていいはずがない!」


 美しいものばかりがあふれている訳ではない。当然争いや欲望によって生まれた、ゆがんだ醜さは存在する。それはこの世界だけのことではない。どこの世界だって、美醜や善悪は切り離せない。当たり前のことなのだ。だからこそ、そこに生きる命が美しく輝くことができるのだと。愚かな僕は、それにやっと気づけたのだ。

 僕のしてきたことは可能性を一方的に奪い消し去ること。それがなんて罪深い過ちであったのか、今ならばわかる。繰り返すことはもうしない、繰り返させはしない。したくない。だから頼む、どうか――


「己の世界を愛する、その心が在るのならば! 力を貸せ!!!!」


 執行者が断罪の刃を振り下ろす。

 僕の身体ごと、この世界を根本から断ち切り、本当に終わらせるためのもの。

 終焉の一振りが降ろされようとした刹那――まばゆい光が、世界のすべてを包み込んだ。



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