4. 裁定の刻
1
「約束……していましたね。夕刻に、この花畑に近づかない、と」
「そんなものはいい。いいんだ」
申し訳ない、といった顔をする少女に対し、僕は首を振った。気にする必要なんてないのに。命の危険に脅かされながらも、約束を気にかける少女が愚かしくも愛おしい。
裁定なんて、正直どうでもよかった。そんなものより、彼女を助ける方法を知りたかった。
僕の役割も権限もすべて他の誰かに譲るから、この子だけは救いたい。こんな事を思うなんて、僕はもう裁定者失格だ。
現実は甘い夢を叶えてはくれない。どこからか、鐘の音が響いた。
大地の脈動のように低く重く、小鳥の歌声のように高らかで軽い。奇妙な反響が大気を揺るがす。世界がぐにゃりと歪みはじめる。夢と現実の狭間、空と海の境界。あまたの両極が混ざり合って、いびつなマーブル模様を描いていく。
『時はきたれり』
ぐにゃりとゆがんだ空間から声がした。ひび割れたような音がして、空に亀裂が走る。瞳を開くかのようにぱっくりと裂けたその中から、人の姿を形どった何かが姿を現した。
神樹と同じ、まばゆいまでの黄金の輝き。精巧に作られた彫刻のような耽美を感じさせる相貌。真白なベールに包まれたやわらかで女性的な体躯。足下まである長い髪は甘く金色に透き通り、ビロードの波にようにたおやかに流れていた。
戦神と見紛う猛々しさと、理知に満ちた聡明たる神秘を内包している。天を裂いて現れた美しき使徒。死の淵で出会ったのならば、まさしく彼こそが神であると、そう思わせるほどの神々しさ。
裁定者の決定を聴き届けるために現れる、創造主たちの使い――黄金の羽根を背に持つその姿から、彼らは『天使』と呼ばれている。
裁定者は七日間の視察を終え、最終日の審判にてその裁決を天使に告げる。その結果を聞き入れ、最終的に世界に裁きを下すのが彼らの役割だ。
裁定の可否によって、天使は二つの姿を形どる。
世界がこれからも物語を産み続け。創造主たちを満足させられると判断されたときは、世界を保護し、維持する『守護者』に。反対に、世界がつまらない。これ以上不必要とされた場合。神を殺し、命を根絶やし。全てを焼き尽くし破壊する『執行者』となるのだ。
黄金の羽を雪のように舞い散らして、天使はゆっくりと僕の前に降りてくる。
長いまつげに縁取られた瞼が開き、万華鏡の虹彩がこちらを見下ろす。美しくも無機質な瞳は硝子玉のようで、僕とその腕に抱かれる少女を反射していた。
『裁定の前に問いましょう』
声、というには感情のない音が大気を揺らす。華奢な見た目に似つかわしくない、低く重い音だった。
『それは一体なんですか?』
その目は真っ直ぐに、少女を映していた。
彼女の存在は裁定の場にはあってはならないものだった。
裁定者の禁忌――裁定の対象である世界と深い関わりを持ち、そこに生きる生命に干渉すること。彼女を胸に抱く、今の僕の姿は紛れもなくその禁忌に触れたもの。裁定の儀においての正義、天秤を司る天使がそれを許してくれるはずはない。
「釈明はない。彼女がこの場にいる事実は、私の罪の証明にほかならない」
腕の中の鼓動。小さな灯火を必死に燃やして、懸命に生きようと足掻く命。守るように腕に力を込めて、僕もまた真っ直ぐに天使と相対した。
「処罰は受け入れる。だから、少しだけ時間をくれないか。彼女の治療を優先したい。医学の心得がある者がいるところへ、彼女を連れて行きたいんだ」
『……何を言っているのですか?』
寸分の狂いも歪みもない精巧にして端正な顔つきが、そのままの形で右に傾いた。
『質問の答えとしては不適切です。加えて、それらの行為の必要性が見いだせません。時間? 治療? 何を言っているのです?』
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