8


 ◆


 最後の日が訪れた。

 とりとめのないやりとりを交わして、穏やかな時間は瞬く間に過ぎていく。

 少し、一人にしてくれないか。そういって彼女から距離を置いた。

 夕刻が近づいてくる。この世界はもう間もなく、裁定の時を迎える。

 神域の周辺をぐるりと囲むように川が流れていた。神の住む場所と民の住む場所、その二つを分かつ境界であった。対岸は真っ白なもやに隠れてみえない。

 あてもなく川辺を歩く。僕の心は揺らいでいた。

 物語として、この世界はもう終わっている。どれほど延命したとして、枯れた土壌からはもう創造主を満足させ得るエンターテイメントは生まれない。漫然と退屈な時間を惰性によって長引かせるより、このまま破り捨て、さっぱりと終わらせてしまうのが正しいのだろう。裁定者として、そうすることが正解だと。仮に僕以外がこの世界をみてもそう判断するはずだと、思う。

 けれど、その決断をうまく飲み下せない。喉の奥に何かがつかえて、息が苦しい。

 最初から放っておけば良かったのだ。関わらず、あそこで死なせておけば良かった。裁定者として、冷徹であろうと思えば思うほど。まぶしい花が邪魔をする。声が、笑顔が、脳裏に浮かんでは名前を呼んで、僕の心を呼び覚ます。そうして、奥底に生まれた小さな願いに気付かせる。


 心は、慈悲無き裁定者に訴える。

 

 ――こんなにも美しいものがあるのに、それを不要と切り捨てるのか?


 僕は首を振る。呼びかける声を深く底へ沈める。


 ――今までだって、美しいものを幾つも、否定し切り捨ててきたじゃないか。 


 僕は裁定者。その在り方を、使命を、ゆめ忘れてはならない。

 例外も、特別もあってはいけない。僕自身の心は関係ない。最優先されるべくは、創造主たちの願い。

 たとえ一輪の花が美しくても、それはだたの事象。物語ではない。花をとどめたいのなら、絵画にでもしておけばいいのだから。

 可否は決定した。心はもう揺らがない。果たすべく使命を全うする。はじめからそれだけが、僕がここにいる理由だ。


 歩みを止め、うつむいていた顔を上げる。

 岸辺の草木に引っかかるようにして、小さな船が流れ着いているのが見えた。近づいてみる。子供が一人ぎりぎり乗れるくらいの大きさだった。木で作られた船体は朽ちかけ、今にも沈みそうなほどぼろぼろだ。オールも何も付いていない、ただ流されるだけの箱。おそらく、少女はこの船によってここまで運ばれてきたのだろう。

 その隣にもう一隻。大人が二人乗れる大きさだった。こちらもぼろ船であったが、先のものよりは小綺麗で、強度を保つよう修繕が施されている。こちらはオールも付いており、船としての機能を果たしているようだ。船体にはロープが括られていて、流されていかないよう、そばにある木にしっかりと結ばれていた。偶然流れ着いた隣の小舟とは違う、意図的に乗り上げた痕跡。

 人の立ち寄らぬはずの神域になぜ少女が現れたのか。

 その疑問を抱いた時点で気付くべきだった。神と民、二つの境目。通常閉ざされているはずの入り口は、僕という異端者の訪問によって開かれたままだったのだ。ゆえに今、その境界は容易く踏み越えられる。


 肌がひりつく感覚。沈めたはずの心がざわめく。


 気が付けば僕は走り出していた。

 森を抜け、花畑へ急ぎ戻る。円形に切り取られた空の下、少女の姿を探す。

 耳障りな怒声が聞こえた。男の声だ。あの船が運んできた人間だろう。そちらを見ると、いた。男が二人。ともに痩せ形ではあったが、筋肉によって引き締まった無骨な体つきをしていた。日に焼けた浅黒い肌が、花達の無垢な色彩を踏み荒らしている。大切な絵画に泥を塗りたくられている、そんな嫌悪感が衝動として走った。

 突き動かされるまま熱を帯びていく思考。その半分で僕は冷静に、ここにいるはずの彼女の姿を探していた。

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