7

「そういうものか」


「そういうものなんです」


 少女は微笑む。


「名前のない私は、特に。今ここに生きてる私自身しか、私といえるものがないから」


 かすかに滲んだ寂しさの色に、軽率だったと内省する。裁定者であり、あくまで俯瞰的に世界をみる僕と、何者でもない、今この瞬間を生きる個である彼女の価値観は違う。姿形や名前、個を表す証というものは、僕が思っている以上に、人が生きる為の芯のようなもので、大きな意味をもつものなのだ。

 言葉を返す代わりに、僕は彼女の隣に座り直した。ただ黙って、目の前の花畑を見つめる。

 静寂の隙間を埋めるように、風が吹いた。

 柔らかな芳香をつれてくる。


「花の良い香り」


 すうっと芳香を吸い込んで、少女はうっとりとしている。


「花畑があるんですよね」


「うん」


「どんな景色が広がっていますか?」


「そうだね――」


 目を閉じる彼女に、僕は語る。

 一面に広がる、赤、黄色、白。ほかにもたくさん、鮮やかにしなやかに、美しくも力強く、可憐、懸命に咲く命たち。蝶が踊り、鳥が羽ばたく。夢のようにまばゆい小さな楽園の景色。


「きっと素敵なんでしょうね」


「ああ、この景色は僕も美しいと思うよ」


「そう……」


 ゆっくりと少女は再び目を開く。その眼に移るのは覆う様に世界を隠す白い靄だけ。色彩は彼女の瞳に届かない。


「辛くはないのか」


 単純な興味からの質問だったが、酷であったと自分でも思う。だというのに、返ってきた彼女の微笑みに痛みの色はなかった。


「この景色を見ることができたなら……って思う気持ちはあります。でも、辛いというのとは少し違います。不便も苦労もあったけど、その分助けてくれた人もいる。この目おかげで私はたくさんの優しさをもらったの」


 静かに語る声は、嘘偽りない彼女の心音だった。

 彼女は自らの瑕疵を蔑んでも、憂いてもおらず。健常な他者を羨むことも、それらに虐げられたことを恨むこともしていない。ただありのまま受け入れて、受け取った小さな優しさを尊んで。まっすぐに生きている。

 世界に翻弄されてもなお、強く気高く咲き誇る。その在り方は目の前で揺れる花々たちと、なんの違いがあるだろう。


「ねえトリネコ様。こんなお話を知ってらっしゃいますか?」


「なんだい?」


「この世界に生きる命は死んだ後も生まれ変わることができるそうです」


 僕は黙って彼女の話に耳を傾ける。


「命はいつか終わりがあります。それでも、死んだらすべてが終わってしまうわけではないんです。魂は世界を巡る風になって、そしていつかまた、新しい命として蘇る」


「君はその話を信じているのかい?」


 はい。迷いなく彼女はそう答えた。


「信じています。生まれ変わって。そしてまたここに来られるって」


 目の前に広がる花畑を見つめる。焦がれるような瞳だった。


「今の私はこの花畑を見ることはできません。けれど、いつか生まれ変わったら。その時は。この場所に来て、この景色を見たい。そう思うんです」


 花の匂いを連れたやわらかな風が、清らかな望みを語る彼女の髪を優しく揺らした。

色彩を映せない自らを嘆くでもなく、悲観しているのとも違う。今の自分の生をないがしろにするでもなく、すべてを達観しているわけでもない。今この瞬間をありのまま感じ、懸命に生きている。そのうえで、ただ一つ曇りない彩りを未来への光として胸に宿している。

 清廉な横顔からしばらく目を離すことができなかった。こんなにも清らかな心が、汚れることのない魂が、この世界にもあったのか。

 風にそよぐ無垢な一輪。

 心をひきつけてやまないそれを希望ごとすべて。僕は刈り取ろうとしている。

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