6



「トリネコ様!」


 聞き間違いの名前はあっと言う間に定着してしまった。

 にこにこと、何回も何回も、少女はこの名で僕を呼ぶ。あまりに呼ばれすぎるので、聞けばすぐに自分のことだとわかってしまう。そのくらいすっかり、このヘンテコな名前は僕に馴染んでしまった。個を表す名と言うのも悪いものではない。そう思うくらいには、僕は彼女の突飛な提案を受け入れていた。

 

「やっぱり私も、トリネコ様に名前を呼んで欲しいです」


 当たり前のように僕の隣に座って彼女は言う。

 

「考えてみるよ」


「本当ですか!?」


 向日葵みたいな笑顔が咲く。


「考えてみるだけ、伝えるとは言っていない」


「むう、やっぱり意地悪ですね!」


 少女は唇を尖らせる。むくれつつも、どこか楽しそうだった。

 信じられないほど穏やかな時間が、意味も意義もなく流れていく。風が吹いて、大樹の枝を柔らかに揺らした。さわ、とそよぐ音の中で、舞い踊る花弁が芳香を運んでくる。

 裁定の時間は、もう間もなく。

 頭上に注ぐ暖かな日差しがあと二回、地平の彼方に消えたのならば。僕はこの世界に本当の落陽をもたらすのだ。僕を神と信じて疑わない傍らの少女は、そんなことを露も知らない。

 

 ぺたり。

 突然頬に不躾で暖かな感触。何事かと驚く間もなく、その感触は鼻、唇と顔全体に及んでいく。


「いきなりなんだね君は!」


 身を捻って、いきなり顔面をべたべたと触ってきた少女の指から逃れる。


「あ、すみません。トリネコ様がどんなお顔をしているのか知りたくて」


「だからといって何も言わずに触りだす奴があるか」 


「えへへ、すみません」


 舌を出してお茶目に笑う様子からは、反省の色は伺えない。口では神様と敬っておきながら、時折突飛で無礼な行動を繰り出してくるので油断ならない。なかなか図太い神経の女である。


「そう言うときは事前に一言いいなさい。びっくりするから」


「わかりました。触ってもよろしいでしょうか」


 素直な言葉と共に、期待の眼差しが飛んでくる。顔をべたべた触られるのは普通に嫌だったが、純粋な思いを無碍にするのもはばかられた。


「十数える間だけね」


「ありがとうございます!」


「イーチ、ニーィ――」


 喜々として前のめりに、少女の指が伸びてくる。柔らかな指先の感触が頬へと触れる。鼻筋を、口元を、眉目を、輪郭を、確かめるように丁寧になぞられていく。こそばゆさ、言いようのないもどかしさ。想像以上に落ち着かない。

 顔に触れていた指先が、額からすうっと髪へと伸びていく。あたたかく優しい掌が、包み込む様に頭部を撫でた。とたんに、胸の奥からかっと熱がわいて、瞬く間に全身へと広がった。何事かと驚いて。

 ただじっと十数える、それだけの時間がいてもたってもいられず。


「ゴ、ロク、ナナ、ハチ――」


 はじめはゆっくり刻んでいたカウントは、みるみるうちにスピードを上げ、あっというまに。


「ク、ジュウ! はい、おわり!」


 数え終わるやいなや立ち上がり距離をとった僕を少女は不満げに見上げた。


「早くないですか?」


「触らせててもらう立場で文句を言わない」


「むう。……そうですね。ありがとうございました」


 最初こそ不満げだったが、僕の言葉に素直に納得したのだろう。少女はにこやかにそう告げた。それから悪戯に。


「綺麗なお顔ですけれど、瞳はそれほど大きくないのかしら? あと、髪が長いんですね。どうして伸ばしてらっしゃるの?」


「容姿なんてどうあっても構わないだろう。移ろいゆくモノに大きな価値はないよ」


「そうかしら? 私はあなたがどんな形をしているのか、とても気になります。変わってしまうからこそ、今この瞬間にしかない。かけがえのないその人の証なんですから」


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