4

 少女はうつむいて、持ち上げていた顔を再び膝に埋めた。ひしひしと感じられる落胆に、僕は首を振って訂正する。


「教えられない、のではない。答えられないんだ。僕には個を表す名はないから」


「名前、ないのです?」


 そういってぱっと顔を上げる。電気がついたみたいだった。


「なんだか嬉しそうだけど」

 

「ええ、だって。私とおなじなんですもの」


 にこりと笑う。華やかでありながら、穏やかで安らいだ。どうして彼女が笑うのか、僕はよくわからなかった。


「君も名前を持たないのか」


 少女はうなずく。


「ええ。きっとあったのだろうけど。私がそれを知る前に、父も母も死んでしまったから」


 微笑んだままの横顔がぽつりぽつりと言葉をこぼす。


「私以外のみんな、自分の名を知っていて。それを呼び合って、触れ合って生きているのに。どうして私はそれがないんだろう。誰も私を呼んでくれないんだろうって」


 言葉ににじむ、辛く寂しい記憶の断片。生命の誕生と成長に親の存在は欠かすことができない。健全な肉体と精神を育むために、親から受ける無償の愛が果たす役割は大きい。それを物心つく前から失っていたのだ。加えて、名を知らぬ自分と、そうではない他者とを比べた時の落胆や疎外感は相当のものだろう。彼女の痛みは計り知れない。


「そう思ってたの。本当は、ずっと、でも――」


 痛みの記憶を語りながらも、彼女の表情は満ち足りていた。そこには苦悩や哀愁の色はない。あったとしても、それはもう過去のものだというかのように。その目は光を宿していた。


「私だけじゃなかった。貴方も……神様も、おんなじだったのね」


少女のまとう色彩は、色鮮やかで暖かいものだった。微笑む表情には、喜びや幸せの色。大切な宝物を手に入れた時のような、キラキラとした幸福感。僕の何がそんなに彼女を喜ばせたのか、いまいちぴんとはこない。

「何がそんなに嬉しいのさ」


「ええ、だって」


 その心を掴みかねている僕に、華やかな笑顔が降り注ぐ。


「おんなじって、とっても嬉しいことなのよ」


「そういうものなのか」


「そういうものなのです」


 にっこりと笑っている彼女の心は、やはり僕にはよく分からなかった。

 それでも、まあ、今ある感情が喜びであるのなら悪いことではないのだろう。


「そうだわ神様! お互いにお名前を決めるのはどうかしら」


 両手の平をあわせて、名案と言ったように。少女は声を弾ませた。


「ええ……」


 すっかりその気になって、うきうきとしている彼女には悪いが。僕は全く気乗りしない。名前など僕にとってはあってもなくても変わりはない、というか、必要がない。

 それに、名前を決めたとてこの世界に滞在するのもあと二日もないのだ。何の意味もない。

 大波に呑まれようとする砂浜に立派な城を築き上げたとて、すぐに跡形もなく消えてしまうのだ。それに美を見いだす価値観もあるようだけれど、僕の美意識はそこまで刹那的ではない。


「一緒に過ごすのだから、お互いの呼び方は必要でしょう? 名案だと思うのだけれど。駄目でしょうか?」


「駄目とは言わないけど。僕は君の名を考えるつもりはないよ」


「考えてくださらないのですか?」


「うん」


 露骨なまでに肩を落とす。先ほどまでの喜びようが嘘のようだ。小動物から目の前の餌を取り上げるような、後味の悪い気分になる。だからといって流されてやることはしない。


「……わかりました。神様に名を戴くなんて、よく考えたらすごくおこがましいことですものね。私の方は諦めます」


 うつむいた視線が再び前を向く。


「では。神様、なんとお呼びしたらよろしいでしょうか」


「なんで」


「お名前を決めることは駄目ではないと仰ったじゃないですか。ですからせめて、神様のお名前だけでも」


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