12

 ようやく華やいだ表情。なんだ、こんな顔もできるのか。年相応の無邪気で屈託のない微笑みは花畑に自然と調和して。見ていて不快ではなかった。


「……嘘ではないんだけどね」


 ひとりごちるように訂正して、はっとする。

 違う違う。なんで僕は、一件落着とばかりに彼女の微笑みを見守っているのか。何一つ落着していないどころか、逆に事態は悪化しているというのに。花畑が汚れるのが嫌だからと、彼女の自刃を阻んだだけでは飽きたらず、生け贄の代替案まで提供しているのは一体どういうことなのか。

 間違いに間違いを重ねてどうするのか。自分で自分が信じられなくなる。こんなにも作動不良を起こしたことなど、今まで一度もなかったというのに。


「――さあ、もう良いだろう、供物も捧げたんだ。君はきちんと役目を果たした。村の人たちの願いだってきっと聞き届けられたはず。ならもうここに用はないだろう。人間がそう長く神域に居てはいけない。早くここを出て、どこへなりと向かうが良い」


 反論の隙を挟ませぬよう一息で押し切って、僕は彼女を出口の方へと向かせると、背中をぐいぐいと押した。

 

「あ、ちょっと、神様。待ってくださ――あ、れ……?」


 強引な手段に少女は目を丸くして、戸惑いとともに身体をばたばたとさせた。と、思えば、急に間の抜けた声を発する。そのままぐらり、崩れ落ちるように地面へと倒れ込んでしまう。

 僕はとっさに彼女の身体を抱き抱えた。ぐったりと青い顔をしている。呼吸は浅く弱々しい。原因は、それほど考えなくてもわかった。簡単に言えば栄養失調だろう。元々やせ細っていて顔色も良くなかったのだ。村にいたときも最低限の食料しか与えられてこなかったのだろうし、生け贄として送り出す日取りが決まってからはもう、ほとんど何も口にしていなかったのかもしれない。

 使命を果たさなければならないという責任感が、限界の身体をここまで保たせていたのだろう。役目を終え、張りつめていた糸が切れてしまったようだ。肉体の消耗、衰弱は激しく、立ち上がる力はもう残っていない。このまま放っておけば、そう遠くないうちに息絶えるだろう。 

 なんということはない。この世界の命がひとつ。役目を終えて消えるだけ。

 どのみちこの世界はこれから僕の裁定によって消えるのだ。遅かれ早かれすべての命は失われる。結末は変わらない。遅いか早いか、それだけの差異だ。だというのに。


 僕の手は赤い果実を彼女へと差し出していた。


「食べなさい」


 少女はうつろな瞳を力なく此方へと向けている。それから少し時間をおいて、言葉の意味をようやく理解したのだろう。弱々しくやっと持ち上げた首を、横へと振った。


「でき、ません。それは、神様のもの……」


「神の言葉に逆らうのか?」


「……で、すが……」


「食べなさい」


 先ほどよりも強い口調で言う。少女はしばらく迷っていたが、やがて意を決して、こくりとうなずいた。

 少女の背を支え、身体を起こしてやってから果実を手渡す。手の中の感触を確かめるようにして、少女はおそるおそる、その実を口へと運んだ。柔らかく熟れた果実。少女の一噛みによって内側に隠された黄白色を露わにする。ほろりととけた果肉は、あふれた甘い蜜とともに嚥下され、少女の糧となっていく。

 少女の瞳から大粒がこぼれ落ちた。滴が地へとたどり着く前に、一つ、また一つ。ぼろぼろと少女は涙をこぼす。堰を切ったようにあふれ出した心はとめどなく。しゃくりあげながら、少女はひとしきり泣いて、それから電池が切れたように眠ってしまった。

 夜闇のおちた花畑。ここだけ切り取られたような円形の空には満点の星空。その輝きを邪魔しないよう、三日月型の衛星は謙虚な光を地へと注いでいた。やわらかな白光が無垢な寝顔を映し出す。僕はひとしきり見つめていたそれを起こさないように、そっとその場を離れた。


 どうして、こんなことをしたのか。

 自分のことだというのに、まるで理解が及ばない。

 裁定者は公正に、平等に、世界を視なくてはならない。そこに生きる個に干渉するなどあってはいけない。世界の摂理の中で死にゆく生命を救い、延命するなど、もってのほか。こんな愚を犯すなど、どうかしている。


 ――僕は、壊れてしまったのか。


 沈黙を続ける大樹を見つめる。青白く照らされた太い幹。地に延びた根がまるで少女を守っているようにも見えた。


「それとも、君の仕業かな」


 神樹はなにも答えない。


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