ヴィヴィタリア -この世でただ一人の聖女-(短編)

雨傘ヒョウゴ

ヴィヴィタリア -この世でただ一人の聖女-

「今日も健やかな一日となりますように……」


 ヴィヴィは静かに両手を合わせ、神にかしずいた。

 白銀の聖女、ヴィヴィタリア。彼女が祈れば神が応える。

 礼拝堂のステンドグラスを通り抜けた光が瞬きながら静かな雨粒のようにこぼれ落ち、彼女は絡み合わせた真っ白な指とともに長いまつげを伏せた。


「神よ……」


 桜色の唇から紡がれる声を聞いて、思わず感嘆の息を落とさぬ者はいない。ゆっくりと息を吐き出し、言葉をつむぐ。はずが。


「ヴィヴィー!」

「ちょ……っ! バリウス! 静かにして!」


 幼なじみの少年に、静寂を破られてしまった。「いいじゃん、別に。毎日してることなんだからさ」 礼拝堂の扉をあらん限りに開いて飛び込んだヴィヴィの腰ほどまでの少年の言葉に、もう、と桃色の頬をぷっくりふくらませる。


「毎日していることだからこそ、おざなりにならないように丁寧にしなければならないのよ」

「真面目だね。この街で唯一の聖女様は。おお、やだやだ」

「そうよ。唯一だから、毎日必死なのよ。これ以上神に見放されないようにね」


 くすりといたずらっぽく笑うヴィヴィは今年で十七となる。

 彼女は、この街で唯一の聖女だった。



 ***



 まあまあ、と幼なじみの少年に背中を押されながらヴィヴィは礼拝堂を後にした。通り名のそのものの腰ほどまでもある絹糸のような美しい白銀の髪が歩く度に揺れて、灰色の瞳は困ったように細められる。形のいい眉も、すっかりもう参っていた。押しに弱い性格なのだ。でも負けていられない。


「あのね、バリウス。聖女の仕事は、なあなあでするものじゃないのよ。神に捧げる祈りはこの街の人たちの生活を支える、とても大切なものであって……」

「わかってるわかってる。ヴィヴィさまさま。俺たちがこうして毎日元気なのもね。やあミルルギおじさん、元気にしてる? お孫さんも一緒に楽しそうだね」


 バリウスの押しの強さは昔からだ。小さな頃からヴィヴィの手をひっぱって、どこにでも連れて行こうとする。それが今はヴィヴィの腰をぐいぐい両手で押して、結局力ずくだ。ヴィヴィの気持ちなんて全然気にしないで街の人々に笑って挨拶をしていた。


「んもう!」「真面目だね、ヴィヴィは」 そういう問題ではない。


 礼拝堂の外はいつも花が絶えない。可愛らしいピンクや紫、白に黄色と色とりどりのチューリップを世話していた白髪の老人が、「聖女様、身体は大丈夫かい?」とじょうろを持ちながら問いかけてくる。「私、もう十七歳ですよ。小さくありません」と肩をすくめた。昔はよく熱を出して街の人々に心配されたものだ。幼い頃から知られている手前、聖女様、なんて呼ばれるのはむず痒いから、正直やめてほしいな、とヴィヴィは考えている。


 街はのどかなものだ。派手さはなく、変化の少ない街だが、それが安心するのだ。石畳の上を歩きながら街を見回していると、バリウスに怒っていたはずの気分もすっかりどこかに消えてしまった。でもそんな素振りを見せるわけにもいかず無理やり頬を膨らませた。そのときだ。


「うわっ、今日は近いなぁ」


 思わずバリウスがそう漏らしてしまうほどの竜の鳴き声が聞こえた。大きな塊がごうっと空を通り抜け、影を落とす。慌ててヴィヴィも見上げたが、竜はこちらのことなどまったく知らぬ様子で、ごうん、ごうんと音を小さくさせながら消えてしまう。空に張られた結界――天球の影響で、竜からはこちらを見ることができない。


「…………」

「ヴィヴィ、どうかした?」

「……ううん、なんでも」


 小さくなって山の向こうに消えてしまった竜の姿を、ヴィヴィはいつまでも見つめていた。



 ***



「まったく、バリウスには困ったものだよね」


 結局その日は彼はなんの用事があったわけではなく、ヴィヴィは普段の務めも忘れて街中を引っ張り回されてしまった。街角に住む猫に挨拶をしたり、花畑の花を勝手に引っこ抜いて怒られたり、ついでにそのまま手入れをさせられたり。思い出すと笑ってしまう。

 ヴィヴィは夜着に腕を通し、口元にゆるく孤を描きながらテーブルの上に置かれた花瓶を見つめた。そこには、一輪の花があった。


『聖女様が悪ガキと一緒に何をしているんだかねぇ……』と、怒られながらも手入れをした戦利品として渡されたのだ。赤い花びらは真ん中にいくにつれて黄色くなり、ころんと丸い。「ふふ」 指でつつこうとして、やっぱりやめた。散ってしまったら大変だ。


「小さな頃は、もっと頼りがいがあるように思っていたのにね」


 いつの間にか悪ガキ扱いだ。

 思い出して思わず微笑んでしまった顔を誰もいないのに両手で隠した。「よし」といつもの聖女顔を作り、ぱちんと頬を叩いたあとに、ふう、とヴィヴィは息を吐いた。ひゅうう、と静かな風が通り過ぎ、ガラスのランプに炎がふるりと揺れながら灯る。誰にでも使えるような簡単な魔法を使っただけだ。

 ヴィヴィは炎がついたランプを壁の釘にひっかけた。部屋の中を温かな光がほんのりと照らす。


 ベッドの他にはテーブルと本棚が一つ。質素な落ち着いた部屋だ。ヴィヴィはずらりと本棚に並ぶ背表紙の一つひとつに目を向け指をそわし、そっと分厚い本を引き抜き、ランプの光の下でページをめくった。


 男の子と女の子が、二人で手を取り合って、旅をする。そんな、なんてことのない物語。街を飛び出し、剣と魔法で襲い来る敵を打倒し、ハッピーエンドを目指す。どこにでもあるようなお話だ。なのに、暗記してしまうほどにヴィヴィはその本を何度も読んでしまっている。今日もあと一ページ、いいえ、二ページ、と増やしてしまいつつベッドの上に転がり、ぺらり、ぺらりと紙をめくる。


「この世界には、竜がいて……魔法があって、剣を使って、それだけで生きている人がいる……」


 寝転がりながら読んでいたはずの本は、ぽとん、と腹の上に落ちてしまった。絵がある本も中にはあるが、ヴィヴィが持っている本の大抵は文字のみで、主人公の勇者は、そして魔法使いはどんな姿なんだろう、と想像するしかない。これは大変な作業だ。文章から読み取って、頭の中で二人の姿を踊らせなければならないのだから。

 でも、だから楽しい、とも思っている。


 ――ヴィヴィは世界を本の中でしか知らない。


 そのことが少しだけ寂しい。

 でも、本当に少しだけ。



 ***



 次の日ヴィヴィは妙に頭が痛かった。できることならベッドの中でこのまま眠り続けていたいと思ったが、なんせ昨日は一日、遊び呆けてしまったのだ。一日さぼればそれを補うために何倍もの努力が必要であることをヴィヴィは知っている。日が昇る前になんとか目を覚まして、真っ暗な街の中を歩き礼拝堂へと向かった。

 だから、そのときは知らなかった。彼女の身に、いや、この街に何が起こっているのか、なんて。



 ***



「ヴィヴィー!」


 まったく昨日と同じ、それも同じ時間にやってきたモンスターを相手にして、ヴィヴィはふんっ、と鼻から息を吹き出しながら見事に身体を反転させ両手を突き出しながら受け止めた。ヴィヴィの邪魔をせんばかりに突撃してきた小さな塊、バリウスは確保されたままのポーズで瞳をきょとんとしている。


「ヴィヴィにしては……なんだか今日は素早いねぇ?」

「そりゃあ、連日邪魔をされたらね……!」

「連日?」


 てっきり、怒られることが嫌でごまかしているのかと思った。「だって、昨日も同じことをしたでしょ……」 バリウスの低い身長に合わせて屈みながら瞳を合わせる。きゅるりと丸い瞳がこちらを見ていた。


「何のこと?」


 まるで、甘ったるいプティングの中に飛び込んで、どろどろになってしまったかのようだ。誰も彼も、昨日のことを覚えていなかった。ミルルギおじさんも、挨拶をした黒猫も、世話をした花壇の持ち主も。








「な、なんで、どうして……!?」


 こんなのただのヴィヴィの勘違いだ。そう思えたらどれほどよかったか。自室のテーブルに飾っていたはずの花瓶の中身は空っぽで、何もない。昨日まではたしかに可愛らしい花が飾られていたはずなのに。


「ヴィヴィ、どうしたんだよ……」

「だってバリウス、昨日の一日が消えているのよ……!?」

「気の所為だよ。昨日は休息日だった。丸一日寝こけてたんじゃないか?」

「そう……そうなのかしら。そう……かもしれないわ」


 初めは可能性にすがりつこうとしただけだった。一日を繰り返している。そんなのただの気の所為で、新しい明日がやってくる。そんなの当たり前だ。そのはずだ。


 なのに、やってきたのはまた同じ一日だった。じんじんと頭が痛い。どうして、とヴィヴィは座り込みながら空を見上げた。きっと今頃は、またヴィヴィの背中を狙ってバリウスが飛び込んでいる時間だ。ヴィヴィはすでに何日も繰り返していた。新たな変化がほしくて、街の中を駆けずり回り、一日の変化を探す。なのに一分、一秒たりとて変わらず、誰もが同じ日々を繰り返している。「……なんで……」


 広場に座り込むヴィヴィの周囲は子どもたちの楽しげな笑い声が響いていた。それが現実味のなさに拍車をかけた。そして一瞬、ほんの少しの喜びも感じた。が、首を振る。こんなこと、ヴィヴィは望んでいない。


 頭の上ではごうんごうん、と竜の鳴き声が聞こえる。街は同じ時間を繰り返していたが、唯一、竜が通り過ぎる時間だけはランダムで、その事実だけがヴィヴィを癒やした。吐き出すような感情は、自身の内にある疑いだ。世界がおかしいのではない。もしかするとヴィヴィがおかしいのではないか。それは彼女の中でもっとも恐怖することで勝手に口元は歪み、視界が歪んだ。こぼれそうになった涙はすぐに親指の腹で拭った。

 めそめそしている場合じゃない。


「神が取り超えられない試練を与えるわけがないわ。そう、これは試練で、きっと今まで以上に私が祈れば、それで――」


 覚悟をするように立ち上がったとき、しゃわしゃわと吹き出る噴水の水が、一瞬、ぴたりと止まった。


「……え」


 ぱちゃり、と音を立てて雫が弾ける。ただの気の所為だったかと勘違いするほどにほんの一瞬。

 見知らぬ男が、街の中を歩いていたのだ。

 そんなまさか、と思う。でも間違いない。噴水向こうの水の膜に映った姿を探した。男はヴィヴィに背を向けて遠ざかって行こうとする。ヴィヴィは転がるように必死で男の背を追った。


「待って! 待って、ください!」


 ぐい、と男の服を引っ張る。男は驚いたような表情で振り返った。がっちりとした体躯で、精悍な顔つきだ。短く切りそろえた黒髪と、よく日に焼けている肌。使い込まれたリュックにはぎっしりと荷物が入っている。二十歳を過ぎた頃に見えるが、男の眉は不愉快そうにひそめられた。思わず男を掴むヴィヴィの手も緩んでしまったが、逃がすわけにはいかない。なんせ、彼はだ。


「……なんだよ」


 腰には剣だろうか? ヴィヴィが知っているものよりも随分短いような気がするが、これまた青年の髪と同じく真っ黒な武器をベルトに引っ掛けている。男は背が高く、ヴィヴィが知っている人間の中でも一番かもしれなかった。「えっ、あ、あの」 低い声にびっくりしてあてもなく視線を揺らす。


「急いでんだ」 そう言って、ヴィヴィが引っ張っていたはずの服がするりと抜けた。慌てて今度は男の右腕を掴み直した。そのとき、ジャケット越しにもかかわらず、飛び跳ねるほどの冷たさと硬さに驚いてヴィヴィはぎょっとして目を見開いた。その様子も男に伝わったらしく、鈍く舌を打つ音が聞こえる。


「……用がないってんなら」

「ある、すごく、ある! 私だけ、同じ時間なの、私だけ、何日も同じことを繰り返してるのーーー!!!」



 ***



 思い返してみると、もっとまともな伝え方があったんじゃないかと思う。とにかく必死だったのだ。塀の壁にもたれながら、ヴィヴィは三角に座りながらぽつぽつと伝えた。ヴィヴィの銀色の長い髪までうなだれたようにしょげていたが、「ループしている、か……」と男は案外真面目に話を聞いてくれた。


「そりゃ、大変だったな」

「うん。幼なじみには、こっちの頭がおかしくなったって思われてそう。でもそう思われても、一日経ったらまた元通りになっちゃうんだよね……」


 不機嫌そうな表情は変わらずだが、実は悪い人ではないのかもしれない。ふう、とタバコの煙を吐き出す仕草にはちょっと慣れないが。細い煙がたゆたい、空に昇っていた。


(こんなこと、この人に言っても、仕方ないんだけど……)


 ヴィヴィは時間を繰り返す中で、何度も周囲に相談した。その度に笑って流されてしまうだけで、どうしてもと必死に繰り返すと奇妙なものを見るような目を向けられた。どきりとして、心臓が痛くなってしまうような苦しさがあった。ただでさえ、ヴィヴィはこの街の中で

 タバコをふかしながらだとしても、誰よりも真面目に聞いてくれるのがよそからやってきた人相が悪い人間だなんて、一体誰が想像しただろう。


 どうにもならない。なのに少しだけほっとしてしまった。だから思わず、軽口まで飛び出てしまう。


「いちいち魔道具(ライター)なんて使わなくても、魔法を使えば簡単に火くらい起こせるのに」 


 くすりと笑いながら、そっと指先に火を灯す。この程度ならば、大した集中も必要ないので、燃やした小さな火をそのままにして男を見上げた。すると、ぞっとするような瞳がそこにあった。


 まるで青い炎が静かに燃えているようだ。鋭い瞳がヴィヴィを居抜いている。ぞっとして、震え上がった。いつの間にかヴィヴィの指先に灯っていた炎も、風の中にかき消えた。

 ぽとりとタバコが男の足元に落ちる。(この人は……よそ者) そうだ、自分でそう考えたばかりなのに。よそ者なんてヴィヴィは今まで出会ったことはない。旅人という存在は、


 ヴィヴィは、生まれて初めて旅人というものに出会った。男は街に変化をもたらす存在だ。それなら、このどうしようもない、何度も同じ一日を繰り返すという現象が、である可能性に気づいた。


 こうして、呑気にうずくまって話している状況は、あまりにも愚かだ。ヴィヴィは修道服の裾を踏んづけながら、急いで立ち上がった。


「あの、話、聞いてくれてありがとう。よくできてたでしょ、私、本をよく読むから、話作りがとっても得意なの。聞かせたのはあなたが初めて。だから秘密にしてね」

「……おい?」


 少し声が上ずってしまったかもしれない。じりじりと後ずさりをして、くるりと反転する。


「じゃあね、本当にありがと!」

「――おまっ」


 びゅんっとヴィヴィは風のように駆けた。

 ――もともと、この街には変化など存在しない。


 だから、男の存在はあまりにも異質だった。




「待てって!」


 今度はこちらが追われる方で、あちらは追いかける方だ。足には自信があるし、土地勘もある。なのにヴィヴィはあっという間に追いつかれてしまった。男は重い荷物を背負ってがちゃがちゃと音を立てたまま、ヴィヴィの細い腕を掴む。「痛い!」 はっと男は手を離した。


「何してんだよ、あんた!」


 とっさに小さな影――バリウスがヴィヴィと男の間に滑り込んだ。たどり着いたのは礼拝堂の真ん前だ。丁度、バリウスがヴィヴィを脅かすはずの時間で、彼は礼拝堂の中に忍び込もうとしていたのだろう。


「ヴィヴィが痛がってるだろ!」


 その小さな身体のどこにそんなパワーがあるのだろうと驚くほどに大きな声で、バリウスはヴィヴィを守った。いつも彼はそうだ。弟みたいな顔で、お兄さんぶる。「誰だ、このガキ」「お前こそ誰だよ、俺はヴィヴィの幼なじみだ」「幼なじみ」 男とバリウスは声を交わし合う、が。


 男は苛立つような目つきでバリウスを睨んだ。どうしよう。自分が、考えなしなことをしてしまったから。

 ――男は、おそらく武器を持っている。

 ぬっと男は腰にしたベルトに手を伸ばした。ぎくりとヴィヴィは身体を固くする。

 この街のように平和ボケをしたヴィヴィには、異様な臭いをなんとなく感じ取ることしかできない。男をなんとかするより、小柄なバリウスの方が守りやすい。だから、飛びつくようにバリウスを抱きしめ、勢いよく男に背を向けたのだが。


「……何を勘違いしてるんだよ」


 暴れるバリウスを押さえ込みながら、そっと男を振り返り、見上げる。男の手は武器ではなく、ジャケットのポケットに入れられていた。そしてタバコを取り出す。同時に手に持ったライターを見つめ、眉間のシワを増やし再度ポケットにつっこみ、「タバコを、吸おうとしただけだ。いやいい。お前、ヴィヴィだったか」「ヴィヴィタリア」 ヴィヴィの腕の隙間からやっとのこと顔を出したバリウスが、苛立ちながらヴィヴィの愛称を否定する。

 ヴィヴィは抱きしめていたバリウスの腕を緩め、恐るおそる男を見上げた。


「ヴィヴィタリア」


 男がヴィヴィの名を言い直す。なぜだろう。どきりとしてしまった。


「……お前が、悩んでいることの原因に心当たりがないわけじゃないが、その前に」


 悩んでいること? と何かを言いたげにヴィヴィを見上げたバリウスの視線を感じたが、返答せずに口をきゅっと閉ざした。男がはっきりと言わない理由は、同じ一日を繰り返しているとヴィヴィが告げたことに対して言葉を選んでくれているのかもしれない。


「お前の幼なじみと言ったか。その割には随分、んだな」


 ヴィヴィはそれが何を意味するのかわからず、そのほっそりとした眉をひそめた。ヴィヴィとバリウスを比べて、彼の背が低いことは当たり前である。そのことをわざわざなぜ主張するのか。

 対していつの間にやらヴィヴィの隣に立っていた少年――バリウスの表情は、とんと失ってしまったのかのごとく青白い。「……バリウス?」 ヴィヴィは首を傾げ、様子を窺う。バリウスは動かない。ただじっと男を見上げ、口元はまるで石像のようだ。おかしい。


「あの、ごめんなさい。それが、どうしたんですか? バリウスの背が低いことに……なんの問題があるんです? 昔からそうですよ。私が赤ちゃんだったときから、バリウスは姿です。だって、。」


 それはヴィヴィにとって当たり前のことである。

 バリウスの背が、ヴィヴィの腰ほどまでしかないことも。同じく神に仕えている神父や、散歩のついでと毎日挨拶をしてくるおじさん、花畑を管理するおばさんも、その子供も。ヴィヴィ以外、誰も、これからもこの先も、彼らの姿は変わらない。


 ヴィヴィがもっともっと幼かったときは、バリウスはヴィヴィよりも大きかった。けれど、いつの間にか彼を追い越し、少年の背は今はヴィヴィの腰元までしかない。ヴィヴィ以外の人間が変化しないのは当たり前のことだと聞いた。けれどもヴィヴィは違う。ヴィヴィは神に仕えるから。いつしか、神のもとに召されるから、姿かたちを変えていく。


 そのことに寂しさや、悲しさを感じなかったと言えば嘘になる。だからときおり一人になって本を読んだ。わくわくする冒険はヴィヴィの悲しみをいっときでも忘れさせて、暗記するほどにページを読み込んだ。


 いつか、自分も同じように。飛び出すような気持ちは静かに身体の内に灯り、けれども思い出すことなく沈み込んだ。だから、今日はじめてを見たとき、変化を求めるよりも喜びが溢れた。憧れた存在が、目の前にいた。


「なるほど」と男は小さく呟く。そのときだ。ガラスが砕けるような音が、空から響き渡った。空が、沈んでいる。


「そんな、天球が……どうして!?」


 ヴィヴィの叫び声が響く。こちらのことなどお構いなしに日々飛び回る竜から街を守るために作られている結界だった。それが、壊れて、崩れて、空は熟したトマトのようにじゅくじゅくと穴を広げ、赤黒く染まっていく。時間はまだ昼間だ。人々の混乱は想像だにできない。ヴィヴィはハッとして周囲を見回す。「みなさん、落ち着いて、避難を――」


 しかし、誰も動かない。


 悲鳴の一つすらも上がらないのだ。老いも若きも、母に抱きかかえられた、赤子でさえも。誰もがバリウスと同じように、視線の先を一点に向ける。感情の抜け落ちたガラス玉のような瞳でぴたりと視線を動かさない。


「ど、どうしたの、みんな……」


 誰もが、人形のように、ヴィヴィを見つめていた。


 ***



 かちゃりと金属音を響かせながら男はベルトに手を伸ばした。取り出したものはヴィヴィですらも、何らかの武器と想像した。彼女が持つ、ファンタジックな本の中にも描かれてすらもいない近代の武器は、<シガレットガンド>と呼ばれる。男の片手よりもゆうに大きな、鈍く、黒く光る銃。銃口から噴き出す蒸気は熱の塊であり、通常ならば手に持つことすらもできない熱さだ。ガンドのハンマーを素早く叩き落とし、男はヴィヴィをさらった。


「この街、全体が<メモリー>ってことか!」


 常にけだるげに話していた男が、喜々として叫ぶ。片手で強く抱きしめられた腕に驚き、ヴィヴィは声すらも出せずに呆然として反射的に男を抱きしめる。その瞬間、火花が散った。男を目指して、四方八方から触手が飛ぶ。もとは人間であった者たちだ。あるものは顔を崩し、あるものは片手を。

 もとの姿などもはや忘れてしまったのか、ぐちゃぐちゃで崩れ落ちている。「なんで、どうして……!?」 男――メギトに荷物のように肩に担がれながら、ヴィヴィはただ驚愕に瞳を見開き、呑み込むこともできない事態に喉を震わせた。その問いも、メギトが素早く弾丸に熱を吹き込み、発射させるとともに四散する。球の軌跡は襲い来る触手をかわし、老年の男の顔半分に着弾。紙に穴をあけるようにあっけなく吹き飛ばした。「ひっ、いやあ!」 老人は両手を震わせ、がくがくと膝からくずおれた。……しかしすでに、撃ち抜かれた反対側の顔は人の形を成してもいなかったが。


(この街はすでに数日している)


 ヴィヴィが説明した言葉を、メギトは正しく理解していた。つまり、終わりが近いということだ。「やめて、やめて、やめて! やめなさいよ! やめて!」 住民の顔を片手のガンドで吹き飛ばし続けるメギトに、ヴィヴィは叫ぶ。美しい顔を涙で泣きはらして、必死に硬いメギトの手から逃れようとしていた。当たり前だ。彼女にとってみれば、つい先程まで仲間であった者達だ。異形に成り果てようと、感情がついてくるものではない。――そう理解しつつも、メギトは冷淡に銃を撃ち、大気を揺らし、振動を片手で抑え込む。その度に、ヴィヴィは涙とともに悲痛な悲鳴と、住人の名を呼んだ。


 彼女もおそらく理解している。理解しつつも、友人を、民を守ろうとしている。そんなものはメギトにとってはとうの昔に消えてしまった尊いものだ。だからヴィヴィがメギトの拘束を必死の思いで抜け出し、腕に抱きつくようにして銃弾をそらしたとき、仕方がないと思いもした。それた銃の隙間を縫うように襲いくる触手はメギトのガンドどころか、腕を粉砕した。ネジ回しのようにねじ切られ、筋肉の繊維すらもあらわにして引きちぎれごろごろと腕は転がり、メギトの右の二の腕の先を軽くする。

 ヴィヴィは今度こそ、声を出すこともできずに、へたり込んだ。


 ぽたり、と丸い血痕が石畳の上にこぼれた。ぽた、ぽた、と雫がつたる。

 メギトは眉をひそめ、ただため息をついた。片手では<シガレットガンド>を使うことはできない。いや、使用できるが負担が大きい。反動を、身体を支えることができないのだ。もはや抵抗することのできない哀れな虫を踏み潰すがごとく、がぞろぞろと、ゆっくりと、緩慢な動きでヴィヴィとメギトを取り囲んだ。



 ***



 ……自分は、死ぬのだろう、とヴィヴィは考えた。

 不思議な冷静さがあった。死のない街の中で、ヴィヴィ一人だけが毎日死に近づいている。だから死は、身近なもののように感じていた。同時に、繰り返す日々の中、焦燥以外にもわずかな喜びがあった。もしかすると、ヴィヴィも彼ら――幼なじみのバリウスのように、変わらない人になることができたのではないか、と。


 死が恐ろしいのではなく、ただ一人、仲間はずれが悲しいだけだ。

 だから、ヴィヴィ一人だけが死ぬのは当たり前のことだったから、今更なんの後悔もない。けれども、青年――まだ、ヴィヴィは彼の名前を知らない――は。ヴィヴィのせいで、腕をなくしてしまった、彼は、巻き込まれるべき人では、ない。


「ごめんなさい、謝ってすむことではないけれど、ごめんなさい……あなただけでも、逃げてくれますか」


 少なくとも、彼はヴィヴィを守っているように思えた。だから今度はヴィヴィが彼を守る番だ。ヴィヴィの背では青年の身体を覆うにはまったくもって足りないけれど、がくがくと震える足を叱咤して、両手を伸ばし、すでにもう人とは到底いえぬ住人たちの前に立ちはばかる。


 顔は、ない。うねうねと、長い触手が細く、長く伸びていき、崩れた結界――天球をさらに覆うように住人たちの身体は細く、崩れ落ちていく。メギトに撃たれたはずのものたちも、地面に倒れながら、着ていた服すらもゆっくりと変化し、一つの個体となるべく変わっていく。うぞうぞと、動いていた。


(……なんで、こんなことになったんだろう)


 いつまでも平和な日々が続くのだと思っていた。けれど、そんなもの、存在するわけがない。ヴィヴィの背が少しずつ大きくなり、バリウスの背を追い抜いたときのように。本のページをめくれば、物語が紡がれるように。


 ただ唯一、バリウスだけが形をなしていた。コップの中に水をそそいで、こぼれそうになるギリギリで均衡を保つように何度も身体の輪郭を崩しながら、ヴィヴィが知る記憶のままの幼い身体で、ぽつりとバリウスは広場の中に立っていた。

 茶色いズボンはいつも裾を折っていて、すねまでしかない。そのくせ、白いシャツはだぶだぶでいつも前をズボンの中に入れていた。くすんだような金の髪で、いつも頭は寝癖だらけだ。そんな彼が、好きだった。


 バリウスは、そっとヴィヴィに手のひらを伸ばした。昔は、大きな手のひらだと思っていた。でも、今はとても小さい。自然とヴィヴィも同じように手を伸ばし、前に踏み出そうとしていた。ヴィヴィの肩を、誰かが力強く掴んだ。片腕しかない黒髪の男が、ヴィヴィの左肩に残った側の手を載せ、引き止めている。瞬間、ヴィヴィの身体は弾けたようにまた震えが止まらなくなった。自身をかきいだいて、なんとかくずおれそうな足を耐えた。「あれは人ではない」 静かな声だった。「ただのメモリーだ」


 歯の根も合わない恐怖に狭くなっていた視野が、じわりと広がる。そのとき、ヴィヴィは男がなくしたはずの二の腕の先が、おかしなことに気がついた。服ごと引きちぎれたジャケットの先には、わずかな血こそ滴っているものの、おかしなほどに出血量が少ない。赤黒い筋肉の繊維――そう思っていたのだが、違う。それは、ヴィヴィは見たことのない、何か。ヴィヴィの指よりも少しだけ細い、幾本かの糸のような何かが垂れ下がり、ちぎれている。「気にするな、機械腕だ。修理は手間だが」と、呟かれた言葉の意味はわからない。


「それより前を見ろ」とぽんと背中を叩かれたから、反射的に前を見た。いつのまにか住人たちは身体を針のように更に細くなり、より密となり自身の身体を使って、ヴィヴィと、男を囲んでいる。複雑なかごのように編まれていくそれは、どんどんと収束し大きさを縮めていき、もう空も見えない。


「俺は窒息死だろうが、お前はエネルギーを吸い取られて死ぬだろうな。ヴィヴィタリア。ここにいるメモリーたちはただの分身だ。抜け出すには、本体を壊す必要がある」

「ぶ、分身? 本体?」

「そうだ。こいつらを殺しても意味はない。本体を叩かねば意味がない」


 どこにいる、と問いかけられても、わかるわけがない。ヴィヴィは何度も首を振った。その間にも、周囲は狭く、小さくなっていく。「わ、わからない。だって、この間まで普通に過ごしていたのに」「考えろ。その場所から、お前はエネルギーを吸収されていたはずだ」 お前にしかわからない、と。黒い瞳が見下ろし、器用にも片手で黒い武器を携え、後ろの突起部分に指をそえる。


 ――今日も健やかな一日となりますように……。


 きらきらと、光り輝く空。

 願えば、神はヴィヴィに声をかけてくれるかのように、いつも光のヴェールで包んでくれた。


 そっと、瞳の端でバリウスが人差し指を伸ばす。気づけば、叫んでいた。「……礼拝堂!」 男が持つ武器の火花が散り、ヴィヴィの銀の髪すらも爆風に吹き飛ばしたのはそれと同時だった。渦巻くような弾丸が蒸気の煙を吐き出しながら恐るべきスピードで囲いを貫く。円状に引きちぎられた視界の向こう側では、礼拝堂のステンドグラスが弾けとび、高らかな音を鳴らす。


 ガラスが割れた音なのだとヴィヴィが理解する頃には、すべてが嘘のように静かに、消えてしまっていた。街も人も、何もかもが。

 ただ、きらきらと空からこぼれる光にヴィヴィは手を伸ばした。それはヴィヴィの指に触れると、すぐにとけて消えてしまった。



 ***



 世界は、一度滅んでいる。そんなこと、おとぎ話の中でだって聞いたことがない。



 ヴィヴィは馬車に乗りながら、長い銀の髪を風の中に遊ばせていた。本で読んだ馬車というものは、馬という生き物が引き、幌と呼ばれる布が周囲を囲んでいるというように書かれていたが、男が持つ馬車は様子が違う。幌がないから顔には直接風が当たって涼しいけれども髪が崩れるし、砂っぽくなるし、ついでに暑いし。搭乗している馬も随分獰猛なようで馬がいななく度にヴィヴィは身体を震わせ縮こまり、逃げるように周囲を見回した。


 真っ直ぐにペンで引かれた地平線の向こう側まで、きらきらと輝く砂がどこまでも広がっている。視界の半分は砂で、もう半分は青すぎる空。巻き上がった砂埃にくしゃみをした。この場所を、ヴィヴィは知っている。本で読んだそれと同じだ。――砂漠。こんな何もない場所のど真ん中で、ヴィヴィの街はぽつりと住んでいた。そして、変化がないかわりに穏やかだと思っていた街は、幻のように消えてしまった。いや、本当に幻だった。


 ヴィヴィの隣には自分を助けた男が乗っている。壊れた腕は、なんとか自力で修理をしたらしいが、ヴィヴィの目から見ても今にもまた壊れそうなほどに、つなぎそこねたがぷらぷらと揺れていて恐ろしい。男の二の腕から先は作り物だった。黒く鈍く光る不思議な光沢は、男が持っていた武器と同じように思えた。


 男はの手と自前の手を使い、うまく馬を操作している。精悍な顔つきだが、どこか不機嫌そうに前を見ていた。先程まで、男は少しかすれた低い声で、ヴィヴィに多くのことを説明した。それは、ヴィヴィが聞いたこともないことばかりだった。呑み込んだ情報があまりにも多すぎて、何度思い出しても、多分まだ半分も理解できていない。




 ――ある日、空から星が降ってきた。そのとき世界は一度滅んだ。


 空から落ちた星はメモリーと呼ばれ、記憶を食い、それをエネルギーに変えた。ただ食事をするためだけに、メモリーは世界を滅ぼしたのだ。

 しかし人はしぶとかった。わずかに残った人間たちは世界を滅ぼした元凶の力を借りて、意地汚く生き延びた。メモリーから得たエネルギーを人は使い、新たな世界を築いた。得たエネルギーは、疑似エネルギーと呼ばれた。

 ヴィヴィは、メモリーに育てられた。ヴィヴィとともに生きた人々は、ただの土地の記憶であり、とうに死んでいった者たちであるはずだった。長い長い年月の、誰もがわからなくなるほどに古い記憶たち。そして、メモリーに食われ、死んでいった者たち。


「世界が滅ぶ前、多くの人々はエネルギーを持っていた。それは魔力、魔術、魔法。様々な呼び名があったとされる。魔法は疑似エネルギーに近い力を持っていたというのが研究者たちの通説だ」


 ヴィヴィに目もくれることなく、男は説明した。ヴィヴィはじっと日に焼けた男の横顔を見つめた。黒いと思っていた男の瞳が、かすかに青みがかっていたことにそのとき気づいた。


「この失われた力を求め、魔法に関して、多くの研究者たちが文献を紐解き、日夜研究に明け暮れているが、未だに解明には至っていない。しかし判明していることもいくつかある。疑似エネルギーよりも、魔法と呼ばれる太古のエネルギーの方がより効率よく循環する。そして、メモリーはこの力も食らうであろうと」


 空の上を、また竜が飛んでいた。竜はこちらには気づいてはいないらしく、真っ直ぐ、ゆっくりと飛びながら、消えていく。


「だから記憶なんて曖昧なものよりも、メモリーは魔法を食った方が腹が膨れたはずなんだ。そうすりゃ、世界は滅びることもなかったはずだが、知りもしなかったんだろうな。木になる果実を食えばよかったものを、しょうがなく土を掘って根っこを食って、木も駄目にしちまったんだ。バカバカしい話だろう」


 つまり、と理解する。

 ヴィヴィを食料とするために、彼らに生かされていた。


「……魔法なんて、みんな使えるものじゃないの?」

「少なくとも、俺は聞いたことも、見たこともない。そんなものが使える人間がいるとなれば、国は上から下までの大騒ぎだ。研究者たちがあんたの前にこぞってひれ伏すだろうね。おめでとう、あんたは世界に一人きりの才能を持っている」


 ヴィヴィはため息をついて、椅子の背にずるずるともたれた。街の住民たちは誰しもが使っていたし、本の中では勇者も、魔法使いも聖女も、たしかに特別な存在だったけれど、魔法が特別なんてことはなかった。


「その力に目をつけて、赤子だったあんたをどこぞから攫ったんだろう。そして、誰も訪れるはずもない砂漠の地に眠る街の記憶を呼び覚まし、あんたというエネルギーを食っていた。けれどメモリーにも寿命がある。ループを繰り返していたのはバグっていた証拠だ。そうすると必要以上に食おうとする。相手の限度なんて関係なくな」


 ループを繰り返している間、妙に頭が痛かったことを思い出したが、そのことは告げなかった。「……最後、バリウスは、礼拝堂を指さしていたよ」 言い返したいわけではない。ただ呟いただけだ。しかし男はすぐに「気のせいか、そう見えただけだろう」とすげなく話す。「メモリーに人の心はない。ただ過去の記憶を再生し、自分たちに都合よく変換するだけだ」


 ヴィヴィは自分の膝をじっと見つめた。


「子どもの頃、私は身体が弱かったの。それでも街の人ためになると聞いたから、辛い日も毎日まいにち、礼拝堂で必死にお祈りをした。そしたら、ある日熱を出して倒れてしまって。そんなことが何度も続いた。死にかけたこともある。いつもバリウスが看病してくれた。大きな手を額に乗せてくれた……」


 すると、いつからだろう。バリウスがヴィヴィの仕事の邪魔をするようになった。本当はもっと長くお祈りしたかったのにと、ヴィヴィは口では怒りながらも、子どものように駆け回るのは楽しかった。そうしているうちに、身体も丈夫になり、ちょっとのことでは倒れなくなった。


「エネルギーを吸い取る量の調節ができていなかったんだろう。短く大量にするのではなく、長く少しずつすることで寿命を延ばそうとしたんだろうな」


 そうなのかもしれない。それでも、ヴィヴィはあのときのバリウスの顔が忘れられない。熱で浮かされるヴィヴィの手を、何度も握ってくれた。こぼれた涙がヴィヴィの頬にあたり、お兄さんなのに泣いちゃだめよと幼いヴィヴィが笑うとほんの少しバリウスは笑った。けれども、ぽたぽたと静かな涙を流した。泣かないでとお願いすると、猫みたいなやんちゃな顔をへちゃりと歪ませた。


「――しかし、俺は研究者ではない。ただの依頼を受けてここまできた探索者だ。メモリーのことなど、わかるわけがない」


 投げ捨てるような低い声だ。だから、ヴィヴィは彼の言葉をどう捉えていいのかわからなかった。馬車が走るごとに埃っぽい風が運んでくる。ぎらぎらと暑い太陽が肌を焼いた。霞むように遠くのどこかに街が見えるが、ゆらゆらと揺れ今にも消えてしまいそうだ。蜃気楼、というやつかもしれない。


 ヴィヴィと男は無言で馬車を走らせた。男の話を呑み込むまで、随分時間がかかってしまった。そうすると、今度は男のことを知りたくなった。


「……あなたは、依頼を受けたってどこから? どうして?」


 隠されるかと思ったが、男は素直に教えてくれた。


「メモリーを調査している研究機関に。今まではあんたの力を使ったバリアで街の周囲を見えなくしていたんだろうが、バグり始めたときに、こっちの調査一覧に上がった。報酬は腕を動かす疑似エネルギー。それがなきゃ、俺は腕が使えない」


 ヴィヴィは不便を想像して、顔をしかめてしまう。そして同時に、男にはずっとあんた、と呼ばれていることに気がついた。ヴィヴィタリア、と街の中では呼んでくれたのに。同時に、ヴィヴィは男の名をまだ知らない。自分だって、彼のことを「あなた」となんて呼んでしまっている。

(知らない人がいるだなんて初めてのことだから……それならまず、名前を聞かなきゃいけなかった)


 自分のうっかりに呆れつつ、「あなたの名前を教えてもらってもいい?」「メギトだ。ファミリーネームはない」「私はヴィヴィタリア。ヴィヴィでいいよ」「そうか、ヴィヴィ」 あっさりと自己紹介は終了した。


 名前を問いかけるだなんて人生初めての経験だったのだが、別にあちらに感慨を持ってほしいわけでもないので、ふう、と椅子に座り直して前を見る。がたがたと馬が揺れて、バウンドした。ぎゅっと拳と口を引き締めつつ、引きつりそうな顔をなんとかすまし顔にさせて、ヴィヴィはうそぶく。


「……それにしても、この馬。最初は怖いと思ったけど、賢いのね。あなた……メギトさんの言う事をよく聞いて、ずっと走ってくれている。ありがとうね」


 最後のお礼は馬に対してのつもりだったのだが、メギトはぎょっとしてヴィヴィを見た。何かおかしなことを言っただろうか、と不安になった。なんせ、ヴィヴィはずっと閉ざされた世界の中で育ってきたのだから。「馬と言ったか?」「馬でしょ。馬車って言った方がいい?」「どちらにせよ違う」と、メギトはを握りながら、ぶうんとを鳴らす。「――これは、車だ」 え、とヴィヴィは呟き、振り返った。


 砂漠の上を轍が走っている。ぶるん、ぶるんとエンジンが音を鳴らし、太いゴムのタイヤが力強く回転し、白い蒸気の煙を吐き出した。ぽっかり天井が空いたオープンカーにヴィヴィは身体を乗り出すと長い銀の髪が勢いよく風の中に流されていく。ばうん、と車体が砂の丘の上を跳ね上げ、揺れた。そのとき、暑いほどにさしていた日差しが、唐突に陰った。竜が真上を通り過ぎようとしていた。丸く白い大きな球体で、お腹は小さく不格好な姿。


「飛行船だ」


 ――ごうん、ごうんと飛行船は音を立ててゆっくりと空を通り、消えていく。

 竜ではなく、飛行船。「あ……」 瞳を見開いたとき、唐突に、染み入るほどの空の青さを感じた。狭い世界が、どこまでも、どこまでも広がっていく。ヴィヴィの周囲を閉ざしていた壁は、いつの間にか崩れ落ちていた。

(本のページをめくらなくても、世界はここにある……)


 また大きく車が跳ねた。「きゃあ!」と今度こそ悲鳴を上げて、ヴィヴィはフロントドアに抱きついた。「そんなことも知らないのか」と吐き捨てるようにメギトが呟いたから、恥ずかしくなってきゅっと口をつぐんで、ぷいっと前を向いた。しかしすぐに、「まあ、仕方ないのか」と彼は視界の端でとんとんとハンドルを人差し指で叩いていたので、案外悪い人じゃないかもしれない、と思った。


「……もしかして、竜っていないの?」

「少なくとも、俺は知らない。そんなもの剣と魔法のファンタジーだ」


 剣なんて振り回すやつもいない、と案外丁寧に説明してくれる。すごくショックだ。勇者や魔法使い、聖女なんてものは存在しないらしい。「私、知らないことばかりなんだね」 けれども。


「いいなあ、知らないことばっかり。色んなところを旅して、この世界のことを知ってみたい」


 もしかすると、それはずっとヴィヴィが望んでいたことかもしれなかった。

 けれども、とはたと真顔になり隣で運転するメギトを窺う。「でも依頼ということは、メギトさんは私をこのまま研究所ってところに連れていくの?」と、恐るおそる問いかけると、「それでもいいが」と返答されたので、思わず頭を抱えた。


「別に俺も好きでこんなことをしているわけじゃない。研究所が俺の腕を動かす疑似エネルギーをくれるから雇われてるだけだ。ヴィヴィ、代わりにお前が俺の腕を動かすエネルギーをくれるっていうんなら、お前についてやってもいい」


 でもすぐに復活した。「する! やり方、よくわかってないけど、する!」 ぴょんっと立ち上がるように跳ねると、バランスを崩して背中をぶつけた。「立つな、座っとけ」 殊勝に頷くしかない。


 ただの小さなオープンカーが、エンジンの音を響かせながら砂漠のど真ん中を走り抜けていく。

 ヴィヴィは少しだけ、椅子に手をかけながら、振り返った。もちろん、そこには何もなくて、ただのタイヤのあとが砂の上を走り、それもすぐに風に流され、かき消される。

 小さな少年がいた。兄のような、けれども弟のような、ずっと街に縛られていた少年が。ばいばい、とは言わないけれど。


 ヴィヴィはすぐに前を向いた。

 世界を知るには、時間なんて全然足りないのだから。




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ヴィヴィタリア -この世でただ一人の聖女-(短編) 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

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