第21話 一線
まず目に入ったのは、後ろ手に包丁を持つドロ子だった。
民家の光に照らされながら、奏江と相対するように立つ最愛の妹。
こちらに背を向けた状態で彼女が見つめていたのは、ある意味一番この場にいてほしくなかった人物。奏江だ。
奏江は当たり前だが状況が把握できていないようで、突然バイクに乗って現れた俺を見て首を傾げていた。
「奏江!」
バイクから降り、転がるようにして駆け寄って、ドロ子と奏江の間に割り込んだ。
「御木くん?」
「……お兄ちゃん?」
イヤホンは二人の会話を告げてこなかった。
つまり、まだ事は起こっていないはずだ。
そう判断して、奏江を背に隠す。
ドロ子は包丁を片手にこちらを見ていた。
冗談だろう? と問いたくなるのを必死で堪える。
正直な話、甘く考えていた。
ドロ子がヤンデレ型であることは知っていたし、暴走したということも聞いてはいたが、本当の意味で正しく理解できてはいなかったのだ。
どこか楽観していた。
ドロ子が怒ったところで高が知れているし、行動を起こしたところで大した問題にはならないだろうと。ドロ子は可愛くて優しい良い子で、人を傷つけるなんて想像がまるでできなかったからだ。
だから、ドロ子が暴走したと聞いても、精々が駄々をこねて周囲に迷惑をかけるとか、取っ組み合いの喧嘩だとかそのレベルでしか判断していなかったのだ。
いや、それは今もかも知れない。
事実、まるで現実感が無い。
月明かりを反射して光る一本の刃物。
まるで出来の悪い映画の舞台にでも迷い込んでしまったような違和感がある。
朧気ながら、水萌が焦っていた理由がようやく飲み込めてきた。
「御木くん、一体どうし――」
「すまん、奏江、ちょっと黙っててくれ」
奏江のほうを見る余裕は無い。
怖い。
顔から血の気が引く。
今更ながらに、心臓がばくばくと自己主張し始める。
目の前にいるのはドロ子だ。ここ一週間、一緒に過ごし、食べ、寝て暮らしていたあのドロ子なのだ。
だというのに、俺は声をかけることすら躊躇っている。
怖い。
ただ包丁を持っただけで、ここまで雰囲気が変わるものなのだろうか。いや、問題の根本はそんなところには無い。
ドロ子の瞳は俺を見ていた。
無機質な瞳。ガラス玉のような例の目だ。
探るように、非難するように、不思議がるように、怒るように。
あらゆる感情を内包するようでいて、その実何も見てはいないのでは無いかと思わせる非人間さで、ドロ子はただ俺を見ていたのだ。
「なんでお兄ちゃんがここに?」
「それは……」
ごくりと唾を飲む。
ここで間違えてはいけないという強迫観念が、俺の口を重くする。
「お、お前を迎えに来たんだ」
「迎えに?」
「そうだ」
「何で?」
本当に心底不思議と言うように、ドロ子は小首を傾げた。
その視線がキョロリと奏江を見据える。
「……っ」
奏江が僅かに身じろぎする気配がするが構っている暇は無い。
「お、お前が心配だったからだ」
「心配?」
「あ、ああ、そうだ。こんな夜遅くにお兄ちゃんに黙って出かけちゃ――」
「嘘」
努めて軽い調子ではき出した俺の言葉は、しかしたった一言で封じ込められた。
「お兄ちゃんは私の心配なんてしてない」
それは、ドロ子の口から出て来たというのが信じられないほど暗い響きを伴っていた。
普段の愛らしさは身を潜め、ただ淡々と呪詛を語るかのように、ドロ子は喋る。
「お兄ちゃんはその女のことしか考えてなかった。お兄ちゃんはあの女のことしか考えてなかった。お兄ちゃんは私の傍にいてくれなかった。お兄ちゃんはその女の傍にいた。お兄ちゃんは早く帰ってきてくれなかった。お兄ちゃんは私を一人にした。お兄ちゃんは私を忘れてた。お兄ちゃんは笑ってた」
「ど……」
「だから頼みに来た」
「頼み……?」
「お兄ちゃんを取らないで。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを引き離さないで。お兄ちゃんに近寄らないで。お兄ちゃんの傍にいないで。お兄ちゃんに笑いかけないで。お兄ちゃんと話さないで。お兄ちゃんと仲良くしないで。お兄ちゃんの声を聞かないで。お兄ちゃんは私のことが一番好きだって言った。おかしいよ。だって私のこと一番好きだって言ったもん。だからお兄ちゃんは他の女と仲良くしちゃいけないはず。だから他の女もお兄ちゃんに近寄っちゃダメなんだよ。わかる。わかるよね。わかる。わかれ。だから」
機械の目で。
「返せ」
「…………」
言葉が出なかった。
俺は、こんなにもドロ子を苦しめていたのか?
いや、だがしかし、たった一週間。たった一週間しか一緒に過ごしていないのに?
確かにドロ子一人に留守番させる機会は多かったかも知れない。
でも、平日は陽芽と一緒ではあっても寄り道をせずに帰宅したし、日曜の代わりに土曜を丸一日ドロ子のために使ったじゃないか。
決して蔑ろにしたつもりは無い。
それに、俺はまだ陽芽とも奏江ともそこまで深い付き合いでは無いのだ。
一度デートしたところで、一度頬にキスされたところで、俺の気持ちが明確にどちらかを向いたわけでは無い。
それなのに、何故ドロ子はここまで追い詰められているんだ?
埋まらない。
ドロ子と俺の意識にあまりにも差がありすぎる。
理解できない。ことここに及んでも、俺には何故こんな事態に陥っているのかがまるでわからない。
それゆえに、俺はドロ子にどういう言葉をかけていいのかがわからなかった。
ドロ子が一歩前に出る。
思わず後ずさってしまう。
何か言わなくては。
でも何て言う?
どう言えばドロ子は止まってくれるんだ?
俺が悪いのか?
俺は何か致命的な間違いを犯したのか?
「答えは簡単」
脳天気な言葉は、今までずっと静観していたジャージ姿の女、水萌の口からもたらされた。
全員の視線が水萌に集まる。
「「誰?」」
奏江とドロ子の声が被った。
心なしかどちらの声音も低かったような気がする。
「通りすがりのお節介焼きよ」
「御木くんと一緒のバイクに乗ってきたように見えたけど……」
奏江が空気の読めない発言をしてくれる。いや、この場合、空気が読めてないのは水萌なのだろうか。
とにかく、奏江の言葉にドロ子が劇的に反応した。
さして興味の無さそうだった目は見開かれ、今までの無味乾燥としたものとは違う明確な敵意を瞳に宿す。
「お前も――」
「違う違う私は違う。むしろあなたのお兄ちゃんのことはどっちかって言うと嫌いだから。タイプじゃないし。虫で例えるならダンゴムシ」
ダンゴムシ!?
え、嘘、なんか地味にショック。
こいつ俺のことそんな風に思ってたの?
ていうかショックを受けてる自分にショック。
なんだろう。なんだかんだで美人さんだから嫌われたくないみたいな男の本能が働いてたんだろうか。
まあどうでもいいっちゃどうでもいいんだけど少しだけへこんだ。
それを口に出したりはしないけども。
「それに、あなたのお兄ちゃんの目にはあなたしか入っていないと思う。この前も、あそこの娘のことを『心底うざい豚野郎』だって罵ってたわ」
「でっ!?」
奏江を指さし、さらりととんでも無いデマを飛ばす水萌。
ようやく魂胆が飲み込めてきた。
おそらく水萌は、俺の好意がドロ子以外に向いていないということを教えることでこの場を収めようとしているのだ。
とはいえ、もうちょっと手段は選んで欲しい。
ちらりと奏江のほうを見る。
「……罵ってたの?」
目が笑っていない。
首を左右に振りたくなるが、ドロ子が俺をじっと見ていることに気付いてそれもできない。
まさか、そんな子供だましに引っかかるわけが、と思ったのだが、意外にもドロ子の目に希望という名の光が灯っていた。
「そうなの?」
と無垢な瞳で俺に問いかけてくる。
……なんかちょろいな。
思ったより深刻な場ではないのだろうか。
そうだ、と一言いえばこの場は収まるのか?
「そうよ。何なら今から言ってあげればいいわ。『この雌豚! 二度と俺に近づくな!』ってね」
雌豚はお前のバイクだ!
本当、無駄にハードル上げてくれる。
こいつひょっとして楽しんでないか?
この状況でその剛胆さは驚愕に値するが、もう少し穏便な方法があったんじゃないですかと思わずにいられない。
「えーと……」
奏江を見る。
笑っている。
怖い。
何故か知らないけど体が震える。
躊躇いながらドロ子を見ると、
「……やっぱり嘘なんだ」
瞳に影が射し始めていた。
やばい。
俺は奏江にだけ伝わるようにウインクして『この場だけ、この場だけだから!』と訴えてみる。
「……罵るの?」
奏江が笑う。
「許さないよ?」
おう……。
お前、今こそ一年前の借りを返すべき時だろうと思うのだが、どうやら俺の気持ちはは伝わらなかったらしい。
水萌の乱入で何となく間抜けになった雰囲気が、何故か俺を挟んでの圧迫感へ変わっていく。
「はあ……」
ため息をついて、奏江が俺の体を押しのけた。
「で、この子は御木くんの妹ってことでいいのかな」
「お、おう……」
「御木くんって一人っ子のはずだけど」
なんで知ってんだよ。
慌てて言い訳を考える。
「いや、その、あれだよ。従姉妹なんだよ」
「ふーん。ドロ子なんて名前だから、てっきりアンドロイドでも買ったのかと思ったけど」
鋭すぎるだろ!
びっくりだわ。何、その無駄な推理力。
実に底知れない女だ。
陽芽以外、俺の周りはこんな女ばっかりか。
少しだけ陽芽の天真爛漫な笑顔が恋しくなる。
「まあどっちでもいいか。あのさ、ドロ子ちゃんって言ったかな」
奏江は諭すような声の調子で続ける。
「あのね、辛い気持ちはわかるよ。でも御木くんが私を好きなのは仕方ないことなの。だからね、あなたには残念だけど諦めてくれないかな?」
「おおおおい!?」
とんでもない爆弾発言をなされた!?
お前、そこはもうちょっと大人の余裕とか見せる場面なんじゃねえの!?
案の定、ドロ子の目がどろりと濁った。
「お前状況わかってんのか!? 包丁! 包丁見えてっ!?」
「もちろん見えるよ。状況も何となくだけどわかってる。でもさ。だから何?」
本当に一切の躊躇いも無く、奏江は鼻を鳴らした。
「自分の我が儘が通じないからって刃物で脅し? 私そういうの大嫌いなんだよね。刃物出された程度で自分を曲げるほど、私の気持ちは安くない。刺すなら刺せば? それで好かれると思ってるなら見当違いもいいところだけどね」
「おいっ!」
奏江の言っていることはわからないでもない。というより正論だ。包丁片手に要求を迫るなど、本来なら批判されて当然の行為だろう。
ただ、時と場合というものを考えて欲しい。
今下手に刺激を与えることは――っ!?
「奏江!」
咄嗟に腕を出す。
銀光一線。
ぱっと、暗い路面に鮮血が飛び散った。
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