第19話 雌豚ってなんだよ
俺は一人、おぼつかない足取りで家へと向かっていた。
既に日はとっぷりと暮れ、身を切るような寒さが道行く人の頬を撫でる。
頭がぼーっとする。
先ほどまでのことが本当に現実にあったことなのかどうかわからない。
キスされたんだよなあ?
頬を撫でる。
既に感触は失われているのだが、それでも思い出さずにはいられない。
あー、だめだ。いかん。これだめな気がする。
完全に乗せられている。気をしっかり持たなくては、奏江のペースに巻き込まれてしまう。
両手で挟み込むようにして頬を叩く。
「よし」
ひとまず落ち着いた。
奏江は俺のことを好きでは無いと言い切っている。実際、過去に振られていることからそれは事実である公算が高い。
本人も言っていたことだ。全ては俺の気持ちを繋ぎ止めるための行為であり、それ以上の意味などない。
つまり考えるだけ無駄だ。
何度同じ結論を出すのだと我ながら呆れるが、まあ仕方ないのかも知れない。
仮にも昔好きだった女だ。
トラウマの元凶であるわけだし、どうしたって意識してしまう。
昔。そう、昔のことだ。
本当に?
ちらりと顔を出す疑問を、首振って打ち消す。
「ははは、あいつも馬鹿だな。好きでもない男にキスなんかしやがって」
ほっぺたとはいえ安売りが過ぎる。
待ち合わせ場所で八時間以上も待っていたことといい、そんなに俺に好きでいてほしいのだろうか。
……八時間待ってたんだよな。
このクソ寒い中、八時間も。
あいつ本当に俺のこと好きじゃないのか?
いやいや、騙されるな。それが手口だ。俺をその気にさせて、告白させてからまた振るつもりだろう。
そうは問屋が卸さない。まあ、俺は元々その気になんかなってないけど。全然告白とかする気ないけどもさ!
「……とっとと帰ろ」
すっかり遅くなってしまった。ドロ子が心配だ。
今更ながらにロールケーキを買い損ねていたことに気付くが、もうどうしようもない。
どう言い訳したものかと思案しつつ、駆け足で自宅に向かう。
違和感を覚えた。
自宅前に到着し、玄関に手をかけた段階でその原因に思い至る。
家の電気がついていない。
中にはドロ子がいるはずであり、俺の知る限りわざわざ室内を暗くする趣味はドロ子には無い。
少なくとも、昼間俺が家を出た段階では明かりはついていたはずである。
つまりドロ子がわざわざ消したのだろうか。
何のために?
玄関に鍵はかかっていなかった。
ではドロ子は中にいるのかと考えて、そもそも合い鍵など渡していなかったのだと思い出す。
いつも留守番をさせていたせいで考えもしなかった。
無意識にドロ子は常に家にいて当然だと決めつけ、外出の可能性など想定していなかった。
嫌な予感がする。
「ドロ子?」
屋内は真っ暗だ。
手探りで廊下のスイッチを探す。
位置関係は覚えていたので、それはすぐに見つかった。
押した瞬間、ぱっと明かりが灯る。
「なっ……」
絶句した。
転々としている白い物は何を意味しているのか。
視線は一体のぬいぐるみに行き着く。
クマだった。
腹を割かれ、そのまま引きずられたのか廊下に綿をぶちまけているクマのぬいぐるみ。
それが、玄関近くに無造作に置き捨てられていた。
見覚えがある。
確か、俺が小さい頃に母親に買って貰ったものでは無かっただろうか。
どこにしまったのかも覚えていなかったのに、それが何故今こんなところに、それもこんなに悲惨な姿で転がっているのか。
ジリリリ!
ジリリリ!
はっとした。
電話の音で我に返る。
ひとまずは思考を停止し、電話へと向かうことにする。
「はい、御木です」
『私』
「お前か」
随分久しぶりな気がする。
とはいえ、今はちょっとタイミングが悪い。
案の定、居間にドロ子の姿は無かった。おそらくではあるが、他の部屋にもいないのでは無いだろうか。
似たようなことが以前にもあった。
あの時はドロ子は庭にいたはずだ。つまり、今回もそうなのだろうか。
「すまん」
また後でかけ直してくれと言おうとして、
『外に出て』
「は?」
簡潔に一言だけを伝えて通話は切れた。
なんなんだ、と思う暇もない。
直ぐにけたたましいクラクションの音が鳴り響く。
慌てて靴に履き替え顔を出す。
俺の家の前に一台のバイクが停車していた。
でかいバイクだった。まるで知識は無い俺でも、なんだか高そうだなということぐらいはわかる。乗っているのは暁水萌だ。ヘルメットを小脇に抱えて佇む彼女は、相変わらず反則的なまでに見目麗しい。
俺が呆けていると、再度クラクションが鳴らされた。
「はいはいはい、わかったから!」
駆け寄る。
いい加減近所迷惑もいいところだ!
「乗って」
「は?」
「早く」
近づくや否や、急に固定してあるほうのヘルメットを渡された。そのまま視線だけで後部座席を示される。
「意味わかんねえんだが。何で俺がお前とツーリングに行くんだよ」
「時間が無いの」
「いや、そんなこと言われてもな」
家を振り返る。
何の用だかは知らないが、こちらも今は立て込んでいる。
何となくではあるが嫌な予感がするのだ。俺の与り知らないところで事態が悪化しているようなそんな危機感。
ドロ子を探さなくてはならない。できれば一刻も早く。
俺にその気が無いことを察したのか、水萌は顎に手をあてて思案顔をする。
「……このバイクの名前は雌豚っていうの」
いきなり何を言い出すんだこいつは。
「そうか。持ち主そっくりだな」
「だから早く乗って。雌豚に。雌豚にまたがって腰を掴んで」
「絶対嫌だ!?」
何を思ってバイクの名前なんか言い出した!?
あれか、雌豚っていえば童貞がほいほい乗ってくるとでも思ったのか!? 童貞舐めすぎだろ!?
こいつだけは本気で一回しばかないといけない。
ただそれは今日では無い。今こいつと遊んでいる暇なんか無いのだ。
「とにかく帰れ。俺は忙しいんだよ」
「雌豚は嫌い?」
「好きなわけねえだろ!」
「じゃあ私は?」
「嫌いだ!」
勢い任せの言葉だったのだが、水萌は目に見えてがっくりと肩を落とした。
その姿に「あ、なんか俺やっちゃった?」と罪悪感が芽生えるが、よく考えるまでもなく俺は悪くない。いや、悪くないよな?
「もういいから、帰ってくれ。一応言っとくけどクラクション鳴らすなよ」
ため息一つ、踵を返す。
背中越しに、水萌がぽつりとこぼした声が聞こえた。
「ドロ子なら家にはいない」
「あ?」
今なんつった?
振り返る。
水萌は再度こちらにヘルメットを突きだして、バイクに乗るように要求している。
「時間が無いの。ドロ子が暴走して奏江雪の家に向かってる。すぐに追いかけないと何をするかわからない」
「は? 何? 奏江?」
ドロ子が暴走?
混乱する俺を急かすように、水萌がヘルメットを被せてくる。
「うわっぷ!」
「詳しくは行きながら話す。いいからついてきて」
どうやら本当に焦っているようだ。水萌からいつものような飄々とした余裕が感じられない。
俺はまるで事態を把握できないまま、言われる通りにバイクに跨がった。
「あ、それとこれ聞いてて」
渡されたのは片耳タイプのイヤホンつきスマホ。
色や形に見覚えがある。以前公園で水萌が眺めていたものだろう。
「行くよ」
「お、おうっ!?」
ヘルメットを外し、慌ててイヤホンを左耳に突っ込む。
外れないように中で固定して、水萌の腰に手を回し――。
「もっとしっかりつかまって」
「お、おう」
少しだけ照れくさいが仕方ない。
内面はあれだと自分に言い聞かせ、密着するようにしがみつく。
「行くよ」
同時に、バイクが唸りを上げて弾けた。
「ちょまっ!?」
爆速!?
およそ住宅地で出すスピードとも思えない。
曲がり角が多いためかトップスピードとまではいかないものの、お巡りさんに見咎められそうな勢いでバイクは進む。
「……め……ね」
『…………ザザッ』
水萌が何か言った気がする。
イヤホンから音が聞こえたような気がする。
いや、どうでもいいんだけどさ。
風とバイクの音でよく聞こえねえ!
かろうじてイヤホンの音を拾えるぐらいだろうか。
水萌の声など正直まるで聞こえない。
更に言えば寒い。
なんかもうすごい寒い。
やっぱりこの女はダメだと思い知った瞬間だった。
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