第15話 風呂は甘えだって言ってんだろ!
鬣と別れ、とぼとぼと商店街への道を辿る。
まったくとんだ無駄足をくってしまった。鬣は怖いし美人には馬鹿にされるし散々だ。
手早くロールケーキを買って帰ろう。
そう思い、馴染みのケーキ屋『針葉樹』へと向かう。
この街で買い物をする場合には主に二種類の選択肢がある。
一つは、駅の東にあるショッピングセンターへ行く場合。
ショッピングセンターは八階建てのそれなりに大きなもので、洋服は勿論、本屋から雑貨まで様々なものが手に入るため、地元民の多くが足繁く通っている。
一方、駅の西側にある商店街のほうといえば。
御多分に漏れず、近くにできたショッピングセンターに客足を取られ、今ではほとんど廃墟と化していた。店は軒並みシャッターが閉められ、たまに開いているかと思えば店主がカウンターで居眠りでもしている始末。
店が開いていないから客が減る。客が減るから店が潰れる。
見事な負の連鎖を体現し、今ではすっかりゴーストタウンだ。
そんな中にしぶとく生き残っているのが『針葉樹』である。
特筆すべきは生クリームの味だ。
口溶けが柔らかく、後に引かない甘さ。
それをふんだんに用いたショートケーキやロールケーキは絶品で、そのためだけに地元民がわざわざ足を運ぶほどだ。
かくいう俺も常連である。
そんなわけで、ケーキ屋『針葉樹』は「何のためにあるの?」と言われる駅西の商店街において「針葉樹のためだよ」と言わしめるほどの地位を得ているのだった。
ドロ子はロールケーキなど食べたことは無いはずだ。
だとしたら、きっと目を丸くして喜ぶだろう。
その場面を想像して、俺は買う前から楽しい気分になる。
「いらっしゃい」
店内に入ると、出迎えてくれるのはハゲのおっさんだ。
ケーキ屋なのだから可愛い女の子店員を雇えと言いたいが、どうも針葉樹においては奥さんが一人でケーキ作りを担当しているようで、これで店員を雇ってしまうと旦那を遊ばせておくことになってしまう。
だったらどっかに就職しろよと思わなくもないが、店員の給料も馬鹿にならないと考えたのか、旦那がレジに出ることになったようだ。
既に顔馴染みのおっさんに頭を下げる。
向こうも手を振ってはくれたものの、無闇に話しかけてきたりしては来ない。
空気の読めるおっさんなのだ。
店内にはちょっとした食事スペースもあり、女子高生なども使用することがあるというのだから、そのせいでおっさんも接客力を磨かざるを得なかったのかも知れない。
頑張れおっさん。負けるなおっさん。俺は全国のおっさんを応援するぞ。
「ロールケーキ一つ」
「あいよ」
既に用意してあったのか、数秒もしないうちに箱入りのロールケーキが取り出される。
「持って帰る時間は?」
「二十分くらいで」
既に知っているくせにきちんと確認してくる辺りは流石だ。
俺が常連だということをばらされたくないのを本能的に察してくれている。
いや、だって恥ずかしいしね。男がケーキ屋の常連だなんて。それも一人で。
これで「二十分でいいよな?」なんて尋ねられた日には、俺は針葉樹に来なくなってしまうかも知れない。
男というのはかくもデリケートな生き物なのである。
俺だけかも知れないけど。
〇
予想通り、ロールケーキはドロ子に大変好評だった。
夕食後だというのに二人で半分以上消費してしまい、兄としてこれでいいのかと少し反省した。
そして、時計を見ると時刻は二十時前。
またしてもこの時間がやってきた。
そう、風呂だ。
ちらりとドロ子の様子を窺う。
ドロ子は特に変わった様子も無く、いつも通り暢気にテレビのリモコンをいじっている。
気に入った番組が無い時はひたすらザッピングを繰り返すのがドロ子の流儀だ。
何が楽しいのかわからないが、まあ本人が喜んでいるのだから放っておこう。
もしかしたら先日のような異常事態があるかと若干身構えていたのだが、幸い帰宅した俺をドロ子は満面の笑顔で迎えてくれた。
それからはカルガモの親子かというぐらい俺の傍を離れない。
可愛いやつめ。
俺はもう一度時計を見る。
さて、もう一度言うが、風呂だ。
既に俺の心は決まっていた。
そう、何も迷う必要など無かったのだ。
ドロ子が望み、俺が望む。
これ以上に一体何が大切だというのか。
俺はドロ子と風呂に入る。確定事項だ。譲れない。絶対に入ってみせる。神にすら邪魔はさせない。
しかし、しかしだ。
壁際に置いてある電話を睨み付ける。
いつも通りというなら、やつからの交信がそろそろある頃だ。二度あることは三度ある。正直、今日も電話してくる可能性はかなり高い。
いっそ無視してもいいのだが、万が一、母親からの電話だったりすると、取らなかった場合今月の生活費が減額されそうでやばい。
スマホ?
ああ、あったなそんなの。一年前に奏江と交際することになったら必要だろうと勢い込んで買ったみたはいいものの、現在はすっかり机のこやしと化している。
まあ、そんなわけで、俺は例の人物からの連絡を待っているのである。
あいつからの電話は二回で切れる。つまりその後ドロ子と風呂に入れば良いのである。
わかっていれば恐るるに足らず。悪戯電話破れたり!
「…………」
「…………」
電話かかってこねえ!
時計を見ると、既に二十一時近くなっている。
ガッデム!
俺は地団駄を踏む。
あのクソ女は、どこまで俺を馬鹿にすれば気がすむんだ。
落ち着け。冷静になれ。これは奴の罠だ。
かって巌流島で宮本武蔵がとったという作戦のように、俺の心を惑わして精神的に優位に立とうとしているのだ。
勝負は戦いの前から始まっている。
流石に一筋縄ではいかない相手である。
「平常心……平常心……」
ジリリリ!
来た!
素早く取ろうとして、
ジリ――。
音が鳴り止んだ。
「…………」
受話器を取る。
当然切れていた。
なんでだよ!?
なんなの!? なんで電話切ってんの!? 俺まだ取ってないだろ!?
ギリギリと歯ぎしりする。
ドロ子がちょっとびっくりしていたので慌ててスマイルに切り替えるが、腹の中は煮えくりかえっていた。
なんという嫌がらせだ。認定しよう。相手はこの手のことにかけては天才だ。
仮に全てが偶然だとしてもタイミングが神がかっている。俺は一生こいつには勝てないんじゃないかという恐怖がわき上がってくる、
「もう知らない!」
乙女のような捨て台詞を吐いて、受話器を叩きつける。
そうだ、もう知ったことでは無い。仮に電話があったとしても十中八九あいつからだろうし、律儀に待っているなんていうのがそもそも時間の無駄だったんだ。
そうとなれば話は簡単だ。
俺は豪快に上着を脱ぎ捨てた。
「ドロ子、風呂に入るぞ! 脱げ!」
ジリリリ!
「…………」
ジリリリ!
「脱ぐ!」
「待て」
服に手をかけたドロ子を止める。
あああああああああああああああもう!
「はい! 御木です!」
『私』
「ああ、お前だろうよ! お前しかいないわなあ!? ああ!?」
『どうしたの? 声が荒いよ?』
「そりゃ心が荒いからだよ! 人間っていうのは内面が外に出ちまう生き物でねえ!?」
『学校でいじめられてるの?』
「馬鹿! 何『相談にのってあげようか?』みたいな聞き方してんだ馬鹿! お前だよ! お前が現在進行形で俺をいじめてんだよ!」
『げへへへ、おら、その場で飛べや。金玉の音がするぜ』
「なんだその小芝居!? いらねえからそんなの! てかお前女じゃねえの!? 金玉とか言うな!?」
ああもう本当疲れる!
とはいえ、このまま切っても余計に疲れるだけだ。流石に今後もこの女と漫才をやっていくつもりは無い。そろそろ本格的に目的を問いただし、正体を明らかにしなくてはならない。
ただ、その前に一つだけ、どうしても聞いておきたいことがある。
「お前、さっき何でワン切りした」
『ワン切り?』
「俺が出る前に電話切ったろ」
タイミング的にこいつ以外あり得ない。
俺は確信と共に尋ねた。勿論理由なんかどうでもいい。ただの八つ当たりである。
『なんとなくそうしたほうがお互いのためにいいような気がして』
「よくないわ!? どんな気だそれ!? つかお互いのためって何をどうしたらワン切りが俺のためになるんだよ!?」
『焦らし上手が床上手って言葉があるの』
「だからなんだ!? 何、自分が床上手だってアピールしてんの!? たいがいにさらせよこのビッチが!」
『ひどい。私のお腹にはあなたの子供がいるのよ?』
「残念、俺は童貞でした! ありえねえから! 童貞に子供できるとかありえねえから!」
いかん、怒鳴りすぎで頭がくらくらしてきた。
というか何で俺は童貞だってことを暴露してるんだ。よく考えなくても恥ずかしい。本当に恐ろしい女だ。気がつけばペースを握られてしまう。
『童貞……ぷふっ』
よし、殺そう。
この屈辱は並大抵のことではすすげない。迅速にこの女の正体を暴き、相応の報いをくれてやらなければならない。
俺の心に暗い炎が灯った。
「で、結局お前は誰なんだよ」
『私だよ、私』
「聞き方が悪かった。あなたのフルネームは何ですか?」
『私は私だよ。それ以上でも以下でもない』
何ちょっと格好いいこと言ってんの? しばくぞ。
舌打ちをする。
この聞き方でもダメとなると、単なる天然ではなく意図的に情報を隠している可能性が高い。となると、目的のほうを尋ねたとしても素直に教えてくれるのかどうか。
こう毎日電話をかけてくるということは、この女には何かの目的があるはずである。単なる悪戯という可能性もあるにはあるが、この際それは考えないとして、だとしたら他にどんな理由が?
「お前の目的は?」
ダメ元で聞いてみる。
『んー?』
受話器の向こう側で、少しだけ空気が動く気配。
『教えない』
このアマ。
「どうしたら教えてくれる?」
押してダメなら引いてみろ。
譲歩として交換条件を提示してみる。
『ずっと童貞でいてくれるならいいよ』
もう許さない。
許さない。許せない。許したくない。
無駄に活用してしまうぐらい頭が沸騰しそうだった。
冗談抜きで顔が熱い。俺はこのネタで一生強請られてしまうのだろうか。
「俺の童貞は絶対にお前で捨ててやるからな」
『優しくしてね』
もうやだこいつ。
何を言っても通じない。精神力だけがミキサーにでもかけたようにガリガリと削れていく。
明日からは電話線でも抜いておくのが正解なんだろうか。いや、しかしそれだと万が一母親から連絡があった時に困る。
とにかく、次からは相手がこの女だとわかった瞬間に切ることにしよう。
愉快な奴ではあったが、連日連夜付き合うほど俺も暇ではない。
即切りを繰り返していればそのうち飽きるだろう。
そう思い、俺は通話を切った。
ジリリリ!
案の定、二度目の電話がかかってくる。
取る。
『私』
切る。
三度目がかかってくることはやはり無かった。
二回切りが有効か。
成果に満足して立ち上がる。
時刻は既に二十一時十五分を超えている。
いささか遅くなったが、まだ風呂に入る程度の時間は十分にある。
「待たせたな、ドロ子! 風呂に入るぞ!」
いよいよだ。
ついに兄妹のスキンシップが現実のものとなるのである。
俺は鼻息荒く勝利を確信し……。
ジリリリ!
「…………」
ジリリリ!
「脱ぐ!」
「待て」
まさかの三度目が鳴り響くのだった。
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