第9話 奏江雪の恋愛観

 憂鬱な昼休みがきてしまった。


 現状だと鬣と一緒にいるのもストレスだが、こちらはまた別のベクトルで気が重い。


 いつもなら食堂に日替わりを食べに行くか、チャイムと同時に購買にパンを買いに走るところなのだが、今日はそうもいかない。


 授業が終わると同時に、学園のアイドルのほうに視線をやると一瞬だけ目が合った。

 彼女は意味ありげに微笑むと、お供の誘いを断って一人教室を出て行った。


 間違いなく待っている。

 一度約束した手前、まさかすっぽかすわけにもいかない。

 俺は渋々ながら化学実験室に向かうことにした。


 途中、少しだけ昔のことを思い出していた。

 実のところ、俺と奏江雪の間に大した繋がりなど無い。むしろほぼ他人に近いと言っていいだろう。


 どこにでもあるような話だ。一年前。学園のアイドルに憧れていた俺は、ある日精一杯の勇気を振り絞って告白。見事に玉砕した。

 ただそれだけのことだ。


 それまで彼女と俺の接点など同じクラスであること以外無かったし、告白後も彼女が俺に近寄ってくることは無かった。

 ろくに言葉を交わしたことすら無い。


 告白して振られた。

 本当にそれだけの薄い関係だったのだ。

 今朝、話しかけられるまでは、だが。


「なんだってんだよ」


 思い出すと少しだけ腹が立ってくる。

 今更、そう今更だ。


 一体俺に何の話があるというのだろうか。

 奏江は俺の告白を一刀両断に切り捨てたんじゃなかったのか。


『気持ち悪い』


 好きだと言った俺に対しての返答。呆然とする俺の横をあっさりと通り過ぎていった女。

 正直、何が起こったのかわからなかった。


 彼女は誰にでも明るく親切だった。クラスの人気者だったし、学園内にはファンクラブもあると聞く。

 ダメで元々。振られるにしても、もう少し優しい言葉がかけられるはずだと信じて疑っていなかった。


 それがゴミ虫を見るような目で俺を蔑み、何のフォローも無く去って行った。


 三日ほど学校を休んだ。

 その後、怯えながら登校してみると、クラスの中で笑う彼女は呆れるほどいつも通りだった。

 まるで俺だけが夢か何かを見ていたかのように。いや、実際あれは夢だったのではないかとしばらくは疑っていた。


 しかし、時間が経つにつれ事実を認めざるを得なかった。

 俺はこっぴどく振られたのだ、と。


 あれが奏江の本当の姿なのかどうかは今でもわからない。普段は猫を被っているのか、単に俺が嫌いだったのかは奏江本人でなければわからないだろう。

 ただ、俺にとって彼女は見たままの可愛らしい少女ではなくなった。

 皮肉と決別の意味をこめて、学園のアイドルと呼ぶことにした。


 それが、今更俺に何の話があるって?


 彼女への告白は未だに俺のトラウマだ。できる限り思い出したくないし、今後奏江に関わりたいとも思わない。

 怒る気持ちもないわけじゃない。実際思い出すと腹は立つ。

 だが、それ以上に俺は彼女に怯えていた。


 視線が怖い。話し方が怖い。一挙手一投足が怖くて仕方ない。

 一年前のことを普通に思い出すだけで、俺は何も言えなくなってしまう。


 落ち着け。いつまであんなやつに振り回されるつもりだ。大丈夫。俺はもうあいつのことなんてどうも思っちゃいない。だから何を言われても怖くない。


 今朝は何とか平静を保てた。

 最近は心の傷も癒えてきたんじゃ無いかと思う。

 だから、これから何を言われようとも絶対に俺は大丈夫なはずだ。


 はあ、気が重い。


「……おう」


 二棟の化学実験室。

 到着すると同時に、俺は努めてぶっきらぼうな声を上げた。


「いらっしゃい。早かったね」


 学園のアイドル、奏江雪は既に室内で待っていた。


「お前が来いっつったんだろうが」


 大丈夫と自分に再度言い聞かせる。


「そうだったね。嬉しいな。もしかしたら御木くん来てくれないかと思ってたから」


 不思議だ。俺のほうは目を合わせることすら苦痛なのに、彼女は何故こうも普段通りでいられるのだろう。少しでも罪悪感があるなら、こんなに楽しそうに振る舞えるだろうか。


 それだけ俺のことなどどうでもいいってことか?

 ああ、いかん。ネガティブな方向に行くな。


「……で、用件は?」


 無駄話をするつもりは無い。

 俺は単刀直入に切り出した。


「御木くんってさ」


 奏江が笑う。


「まだ私のこと好きだよね?」


 がつんと鈍器で頭を殴られたような気がした。


「なっ……」


 絶句。

 この女は何を言っているのだろうか。


 まだ私のことが好き?

 どこをどうすればそんな台詞が出てくるのだろう。

 うまくその場に立っていられない。

 足が震える。


「なに言って……」

「少しだけ私の話するね」


 俺の様子などどうでもいいのか、奏江は視線を中空にやって話し出す。


 机の上に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、顎を指で押さえる。

 可愛らしい仕草であるのだろう。通常の状態であるならば。

 ただ、今の俺には罠にかかった獲物を前にどう料理しようかと思案しているようにしか見えない。


「私ね。自分で言うのもなんだけど、結構ロマンチックっていうか。夢見る乙女なところがあってね」


 嘘だ、と突っ込みたくなるが、からからに渇いた喉からは言葉が出ない。


「だから許せないことがいくつかあるの。その一つに恋愛感情の喪失があるんだけど」


 だってね、と奏江が眉間に皺を寄せる。


「おかしいと思わない? 好きってそんな簡単に相手を変えられるような感情なのかな? どんなに深く愛し合ってても時間とともに風化しちゃうものなのかな? 私は違うと思う。うん、確かに世の中の大多数はそれだよね。昔と違って離婚は普通のことになってきてるし、ましてや恋人なんて過去を遡れば何人かいて当たり前。仮に別れなかったとしても恋愛感情は一種の熱病のようなもので、熟年の夫婦は老後の心配と惰性で一緒にいるだけで互いに愛情などもう抱いていない」


 奏江が何を言っているのかわからない。

 恋愛感情? 喪失?

 それが今どう関係してくるんだ?


 ただ、何か彼女にとって重大なことを言われているのだということだけは理解出来る。


「そりゃ例外はいるかも知れないけどさ。私の周りには基本そんな人ばっかりだった。でも、私はそんなの嫌なの。一度好きになった人はずっと愛したいし、相手にもそうであってほしい。お互い一生好き合って、そうやって手を握り合って生きていきたい。その人が死んだら私も死ぬ。その人が嬉しければ私も嬉しいし、その人が悲しければ私も悲しい」


 奏江がそこでようやく、俺の顔に視線を戻す。

 どきりとした。何故かはわからないが心臓の鼓動がうるさい。


「私に告白してくる人はたくさんいたよ」


 自身の唇を人差し指で撫でる。


「でもね、その誰もがちょっと冷たい態度を取ると、すぐに意見を翻した。『そんな女だとは思わなかった』。『裏切られた』。『愛想がつきた』。果てには舌の根も乾かないうちに他の女の子と付き合っている人もいた。おかしいよね。そりゃ私は酷いことを言ったかも知れないけど、それだけで好きって気持ちが簡単に消えちゃうものなのかな?」


 私にはわからない。と呟く奏江。

 俺のほうこそ彼女が何を言っているのかさっぱり理解できない。


 いや、言葉の意味はわかる。

 どうやら奏江は好きという感情は一生消えるべきでは無いと考えているらしい。そして、それは自分だけでなく誰にでも適応されるべきであり、少なくとも酷い振られかたをした程度で消えていいものじゃないと。


 ここまではいい。

 ただ、わからないのは何故今頃になって俺にそれを言うのかというところだ。


 恋愛感情云々言うなれば、一年前の告白で既に決着はついている。

 俺は奏江に振られ愛想をつかした。奏江にとって見れば、これは裏切りだったのかも知れないが、そんなことは俺の知ったことでは無い。


 というかこいつは正気か?

 自分が何を言っているのか本当にわかっているのだろうか。


 つまり奏江は俺の告白を踏みにじっておきながら、『あなたを試したの』と一年後の今になってしゃあしゃあと言ってのけているのだ。

 流石に頭に血が上る。


「ふざっっけんなよお前!」

「ふざけてないよ。大まじめ」

「だったら余計性質が悪いだろうが!」

「そうかも知れないね」


 でも、と奏江は続ける。


「御木くんは今でも私のことが好きだよね?」

「……っ!」


 咄嗟に言い返そうとして言葉につまる。

 そんなことは無い。俺はとっくに奏江のことなんて嫌いになっている。

 吐き気がする。関わりたくない。見るのも嫌だ。


「一年前の告白の日から、御木くんはずっと私を気にしてた」


 つつっと、机の表面を奏江が優しく撫でる。


「私に拒絶されるのが怖くて、でも見ずにはいられなくて、一人で苦しんであげくの果てには諦めたふりをして。でも目線だけはずっと私を追ってた」


 違う、違う、違う!

 やめろ。そんなことは無い。


 俺はお前なんかにはとっくに愛想をつかしているんだ。俺が惚れたのは優しい学園のアイドルである奏江雪であり、目の前にいるような性悪女じゃない。


 騙されていた。勘違い、錯覚、気の迷い、言い方なんかどうでもいい。

 悪い夢は覚めたのだ。残ったのは心の傷だけ。それも一年をかけてほぼ完治している。

 勝手な憶測で俺を測るな。


「お前に何が……」

「わかるよ」


 力強く断言される。


「御木くんが私を見ていた長い時間、私もずっと御木くんを見てた。だからわかる」


 一拍の間。何よりも膨大に感じる時間の果てに、奏江は俺の目線を捉えた。


「だからね、御木くん」


 逸らせない。気付けば彼女の視線に絡め取られ、俺は身動き一つ取ることが出来ない。


「ずっと私を好きでいて? そしたら、私は将来的に御木くんのことを好きになるかも知れないよ?」


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